皇帝のもの・神のもの ルカによる福音書20章20-26節 2018年6月10日礼拝説教

さらに神殿での対話は続きます。新たに「回し者」(多くの英訳はspy)が登場し、イエスを陥れようとしています。この人々は、マルコ福音書によれば「ファリサイ派やヘロデ派の人」(マルコ福音書1213節)です。ルカ福音書はこの情報を省きます。それによって、一貫して祭司長の率いるサドカイ派がイエスに対して論争を仕掛けるという文脈となっています(119節「祭司長」)。

ここで「正しい人を装う回し者」は、「サドカイ派の律法学者の解釈通りの律法を守っているかのように演じている」人のことです。彼らは、「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力(エクスーシア)にイエスを渡そうとしていた」のです(20節)。言葉じりをとらえることは、「民衆の前で」(26節)なされると効果的です。イエスに対する民衆の人気を恐れて、彼らはイエスを逮捕できないまま数日を過ごしていました(619節)。20節は19節の次の日でしょう。この状況を打開するためには、イエスに人前で恥をかかせることや、民衆の評価が割れるような論争をしかけることが必要です。今でもスキャンダルを起こした有名人・政治家は求心力を失います。自分を有利にするために政敵のスキャンダルを常に探ることは、古今東西みな同じです。

サドカイ派の権力者たちはよく考えて、一番効果的な罠を仕掛けました。イエスの主催する礼拝は、公開の討論です。質問があれば誰でも手を挙げて、尋ねることができます。この形式を利用しない手はありません。ただし祭司長自らが出向いて、討論で破れた苦い反省もあります(18節)。直接対決で論破されたことによって、かえってイエスの人気は上がってしまいます。そこで彼らは自分たちが後ろで糸を引いているということを悟られないように、「回し者」を雇うことにしました。そして、念入りに入れ知恵をするのです。

まず態度として高圧的には出ないという入れ知恵です。前回は威圧的にどやどやっと押しかけたことも、祭司長・サドカイ派の印象を悪くしました。民衆に対しては見せ方も重要です。「回し者」は、イエスに対して慇懃無礼とも取れるほどに丁重な物腰です。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」(21節)。「民衆の前では低姿勢で話しかけろ」という指示があったからでしょう。

イエスの人気を落とすという目的で、なされる問答で最も効果的なのは何か。何が民衆を分断するか、イエスに従う人々と、イエスから離れる人々を生み出す問答は何か。サドカイ派は悪巧みの相談を念入りに重ね、回し者に指示をしました。「皇帝に税金を納めるのは、(宗教的に)許されているか、それとも許されていないか」(22節)。これが最も狡猾な質問だから、この質問をイエスに浴びせよと、祭司長・サドカイ派の権力者たちは回し者に指示をしました。

この質問がなぜ効果的なのかについて説明をいたします。皇帝とはローマ帝国のトップのことです。当時のローマ帝国は地中海を内海とする空前の範囲を支配していました。ユダヤもローマ帝国によって軍事占領された植民地でした。皇帝への税金は、この場合、人頭税のことを指します。人間一人あたりに課せられる税金です。人頭税を取り立てるためには、その地域に何人の人が住んでいるかを知らなくてはいけません。そのために住民登録が必要となります。だから、本日の箇所は同じルカ福音書のクリスマス物語と関係します(2章)。キリニウスがシリア州の総督であった時に、初めての人口調査がなされます。その目的は人頭税を徴収するためです。英語の国政調査censusの語源は、ラテン語の住民登録censusです。このラテン単語の音写が、ギリシャ語の人頭税kensosです。人口調査・住民登録は人頭税と関わります。

住民登録に基づく人頭税は、ユダヤ人の反ローマ感情を高めました。これまた普遍的なことですが増税を主張する政府は嫌われます。ましてや、ユダヤ人には選民思想があります。ユダヤ人は、非ユダヤ人をより劣った民族と考えています。その非ユダヤ人から支配されていることは、ユダヤ人にとって

屈辱的なものでした。ユダヤ民族主義を強く主張するファリサイ派の一部や、熱心党(ゼロタイ派)は、人頭税をローマ帝国に納めることに対して反対です。実際ガリラヤのユダという人物や、ファリサイ派のサドクという人物は、人頭税に反対して反乱を起こしています。そして古代社会のことですから、宗教的な表現を用いて政治的な反対の主張をします。それが「(神に)許されていない」という言い方です。宗教上の律法が、政治・社会の法律でもあるからです。

旧約聖書の律法にローマ帝国への税金のことは何も書かれていません。だから旧約聖書を解釈して、法律の意味をつかみなおすしかありません。反ローマ帝国・反ユダヤ政府の読み方と、親ローマ帝国・親ユダヤ政府の読み方がありました。サドカイ派とファリサイ派の大部分は、人頭税を容認する親ローマの読み方を採っていました。

イエスを支持する人々の多くは、イエスを、民族独立を果たしてくれる闘士だと思っています。メシア・救い主は先祖ダビデのような軍事的な英雄だという考えが主流であり、多くの人はイエスを「ダビデの子」だと誤解していました。そしてこのような民族主義の強い人々がイエスの周りにいて、サドカイ派によるイエス逮捕を阻止していました。人頭税について彼らは、「納めないで済むならば、なるべく納めたくない」と、心の中では思っています。だから、潜在的に民衆はイエスが反ローマ帝国・反ユダヤ政府の解釈をすることを望んでいます。イエスが「人頭税なんぞは納めるな」と言えば、イエスの人気はさらに上がることが予測されます。

しかし、ローマ帝国への人頭税を払うなという言葉は、反乱を扇動している言葉です。少なくともローマ帝国にとってはそうです。イエスが人気の維持や上昇を狙って、「皇帝に税金を支払うことは神に許されていない」という言葉を言わせるということに、この罠の要点があります。そうすれば回し者がユダヤ政府(三分の二はサドカイ派で占められた議会。その長は祭司長)に密告し、ユダヤ政府はイエスを逮捕することができます。ローマ帝国への反乱という理由で、ローマ帝国の軍事力・警察力を盾に取れば、いくら民衆といえどもイエスの逮捕を阻止できないでしょう。

逆にイエスが親ローマ帝国・親ユダヤ政府の解釈をする場合はどうでしょうか。「ローマ帝国への人頭税を払うことは神に許されている。だから積極的に忠実な納税者となりましょう」。もしもこのようにイエスが言うならば、イエスに対する民衆の人気は確実に落ちます。「イエスを民族独立の英雄と思って慕っていたら、案外意気地なしだった。イエスはローマ帝国には逆らう気概がない」と思わせるからです。

そうすればイエスの逮捕を阻止していた多くの民衆が周りにいなくなるのですから、ユダヤ政府は好きな時にイエスを逮捕することができます。もし、この質問に答えない場合も、イエスの人気は落ちます。イエスの人気は、彼の機転の効いた知恵にもあったからです。黙ってやり込められるイエスを民衆は見捨てるでしょう。そうすればユダヤ政府は逮捕しやすくなります。

実に巧妙な罠です。どうしてもイエスを逮捕し処刑したいユダヤ政府の執念がにじみ出ています。

「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた」(23節)。イエスは巧妙な罠に気づきます。頭が良い。しかも見抜いて黙るのではなく、見抜いて切り返します。頭の回転が早い。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」(24節)。

デナリオン銀貨は手のひらぐらいの大きさで、10,000円ぐらいの価値のローマ帝国の貨幣です。イエス時代のデナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの横顔が浮き彫りされていました。そして、皇帝の名前と称号が銘記されていました。不意を突かれた彼らは、イエスの意図を見抜くことができずつい素直に答えてしまいます。回し者の限界です。指示されたこと以外の事態には、なかなかうまく対応できないのです。

「皇帝のものです。」イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に納めなさい」(2425節)。イエスは人頭税をローマ帝国に納めることについて反対していません。だから回し者は言葉じりをとらえることはできません。ローマへの反乱を扇動したとは言えないからです。ではローマへの人頭税を納めることに賛成しているかといえば、そうでもありません。イエスは、回し者の問いに答えず、「そのような問いをするあなたたちはどうなのか」と切り返していきます。

それが「神のものは神に」という付け加えです。「神のもの」は、この文脈では神殿税のことです。年間二デナリオンの税額だったと言われます。神殿税は二十歳以上のユダヤ人男性に課される税金でした。人頭税ではありません。

イエスが「神のもの」で指していることは神殿税だけではありません。神殿への捧げ物も含みます。思い出してください。ここはあの神殿の境内です。イエスが捧げ物の犠牲獣を売ることや、ローマの貨幣をユダヤの貨幣に両替する商売を禁じた場所です。これらの収入は神殿貴族であるサドカイ派のふところに入っていました。デナリオン銀貨は、境内で両替される予定のローマの貨幣の一つです。

「神のもの」とされているものが、神のものにならず、サドカイ派のものになっている現実を、イエスは批判しています。サドカイ派の人々は、神殿税・神殿境内での商売で神のものを自分のものにし、神の名前を使って貧しい人から金をふんだくっています。デナリオン銀貨はそのことを教えるための視聴覚教材です。「そのようなあなたたちがローマの人頭税をあれこれ議論する資格があるのですか。皇帝のものなら皇帝に納めれば良いし、神のものなら真の意味で神のみに捧げなさい。自分のものにしなさんな」。

回し者たちはこの言葉にすっかり感心してしまいました。「驚いて黙った」(26節)という表現は賛嘆の意味を含みます。彼らは雇われて悪巧みに参加しているので、そもそもイエスに対して好悪の感情がありません。直接の利害もありません。「なるほどサドカイ派は良くない」と納得してしまい、自分たちの演じていた任務を辞めたのです。回し者たちは、イエスとの対話によって、サドカイ派の問題性・世界や社会全体の課題に気づくことになりました。

礼拝とはこのような気づきが与えられる場所です。わたしたちの日常の苦労を救う言葉は何でしょうか。一つは小さな自分にもできる改善策を教える言葉です。細やかな励ましと慰めです。もう一つは、日常の忙しさと質の違う大きな主題の言葉です。世界の仕組みを教える言葉です。苦労を忘れさせる大きな話題、苦労の根っこにある原因を教える大きな主題です。

今日の小さな生き方の提案は、大きな構えを持つこと、仕組みをつかむ癖をもつことです。イエスが一枚の銀貨から、ユダヤ社会の根本腐敗を批判したことを真似しましょう。新しい視野が大きく開かれる時に、わたしたちは明日を生きる力を得ます。困難を切り返す地力が養われるからです。