真理とは何か ヨハネによる福音書18章28-38節 2014年9月21日礼拝説教

「真理とは何か」ということは今月の聖句でもあります。著者ヨハネが細かい事実についてこだわっているのも、この真理/真実の追究ということに重きがあるからだと思います。今日の箇所は非常に重要な日付について、マルコ(およびそれに従うマタイ・ルカ)とは異なる日付を、ヨハネは提示しています。それはイエスの十字架刑死が、ユダヤ暦「第一の月(ニサン/アビブ)」の14日か15日かの違いです。この日付によっては、イエスの死と復活、キリスト教会の誕生の年が一年ずれてしまうので、キリスト教にとってはかなり重要な日付です。紀元後31年か30年かの違いです。

第一の月の15日は、ユダヤ教最大の祝祭「過越祭」の初日である「除酵祭」の日です。その日、ユダヤ人の家で酵母を入れないパンを食べます(レビ23:5-6)。マルコによれば最後の晩餐は15日の除酵祭の食事です(マコ14:12)。だから裁判も十字架も同じ15日の出来事です。ユダヤ暦では日没から一日が始まり、日没で一日が終わるからです。28節は、ユダヤ人たちが「過越の食事」(=除酵祭の食事)を食べていないことを前提にしています。これによると14日の準備の日に最後の晩餐・裁判・十字架があったことになります。だから、ヨハネ福音書には主の晩餐の制定文が無いのです。制定文とは、「これ(パン)はわたしの体である」という、おなじみの言葉です(マコ14:24)。明白に制定文は、特別なパンを食べる過越の食事を下敷きにしています。

この日付問題においてもヨハネの記述の方が史実に近いでしょう。28節の「汚れないで過越の食事をするため」という言い方に現実味があるからです。大祭司カイアファが、ローマ総督ピラトでさえも総督官邸の外に呼び出すことができたという意外な記述も、いかにもありそうなことです。ピラトが、独特な宗教観を持っているユダヤ自治政府の統治に手を焼いていたことが伺えます。30節のユダヤ人権力者の傲慢な言い方や、31節のピラトの面倒くさそうな言い方は、両者の関係を忠実に再現しています。玄関先でのやりとりならば、多くの人に正しく記憶されていたことでしょう。

著者ヨハネは真理を追求する挑戦者です。マルコ福音書に対して異議を申し立てているからです。これがわたしたちの模範となります。最近の世相は「真理とは何かと問わない」ということに一つの特徴があります。いわゆる軽薄短小・短絡・ワンフレーズが喜ばれます。大学は「学問の府」であるはずです。真理とは何かを徹底的に追求し、世間や権力におもねらない、そのために自治が保障されるべきです(学問の自由)。ところが、日本の大学の多くは就職のための組織になってしまっています。企業も即戦力の学生を青田刈りしようとするし、政府も国策に必要な学生を優遇しようとします。真理よりも経済・実利というわけです。じっくり自分の考えを深めて、言葉と論理で説得力のある意見を建て上げる作業が、本当に劣化していると思います。ワイドショーレベルで煽られ騙されるわたしたちすべての課題です。

ユダヤ人権力者はもちろん、ローマ帝国総督ピラトも「真理とは何か」という真実追求の責任を放棄しています。イエスの裁判は、真実究明の責任を放棄するという罪をあぶりだします。刑事裁判という場面が、正に真実究明の場面だけに、その怠慢が目立ちます。ヨハネ福音書は冒頭から「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と書いていました。また、裁判の際に「真理の霊」が信者を助けることもすでに約束されていました(15:17以下)。「真理はあなたたちを自由にする」(8:32)とイエスが語るほどに、真理/真実には価値があるのです。それがこの福音書の立ち位置です。

ピラトという人物は後26-36年の11年間、属州ユダヤの総督を務めたローマ帝国の行政官です。GHQ総司令官のマッカーサーのようなものです。彼の属州統治方法は極めて厳しかったと、聖書外資料によって知らされています。ピラトの願いはただ一つ、うまく立ち回ってなるべく長い期間総督として在任し、属州の富を吸い上げることです。そのためならば、アメでもムチでも使い分けるのです。真実の追求や真理に基づく統治ではなく、利潤の追求やパワーゲームこそピラトの行動原理です。だからピラトは下手なやり方で誰をも殺したくありません。それによって、自分の失策となるのが怖いからです。

イエスという人物をここで殺すのが自分にとって得になるか損になるか、そのような天秤にかけているわけです。殺した結果、イエスについてきた者たちが暴徒となってローマ帝国に反乱をしては困ります。生かした結果、ユダヤの最高法院が自分の言うことを無視しだしても困ります。この場面で冷酷無情な政治家・行政官であるピラトが慎重な姿勢を崩さないのは、自分の利害を計算しているからです。

「この男について何の訴因を持ち出すのか」(29節、直訳風)。ピラトは裁判用語である「訴因」を使っているので、宗教用語と誤解しやすい「罪」と訳さない方が良いでしょう。ピラトは訴因無しには裁判を行いたくないのです。カイアファたちの30節の答えでは訴因が分かりません。おそらく、「イエスが神の子/メシア/王と自称したこと」が訴因です(33節。19:7、5:18参照)。そうすれば31節のピラトの発言とつながります。「あなたたちの信じる神やメシアについての訴えなら、自分たちの正典であるモーセ五書に従って宗教裁判をすればよい。わたしに危ない橋を渡らせるな。管轄外だ。以上」とピラトは言います。

カイアファたちは食い下がります。どうしてもローマ帝国に殺させたかったからです。彼らは後にステファノを石打ちにして殺しているのだから、私刑という形で殺すこともできました(10:31参照)。しかし、彼らのこだわりはローマ帝国による公開処刑です。なぜかと言えば、彼らが恐れていたのは、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」という事態だったからです(11:48)。ローマ軍によって一人を処刑してこの件を終わらせることは、それ以上ローマ軍はユダヤ自治政府に干渉できなくなるという効果をもたらします。

属州ユダヤだけではなくローマ帝国に支配されている全ての属州には死刑執行の権限がありませんでした(31節)。そのことを逆手にとってカイアファはピラトに死刑執行を要求します。ここでユダヤ自治政府が「死刑の権限を属州に戻せ」と言って騒ぐと、他の属州にまで波及してしまうかもしれません。「ピラトは統治が下手な総督だ」という評価が下され皇帝から更迭されるかもしれません。それはピラトにとって損なことです。

こうしてローマ総督ピラトによる裁判が始まります。ここで大事なことはピラトが最初から最後まで自分にとって最高の利益となる妥協点を探っていたということです。真理を探求する気はまったくなかったのです。

「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)。ピラトは訴因についてイエスが自白するかどうかを尋問しました。イエスはカイアファたちが何を訴因にして訴えたか察しました。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)。自分の頭で考えなさいとイエスは言っています。

「まさかわたしがユダヤ人であるとでも」(35節、直訳)。ここにはエゴー・エイミが隠されています。「メーティ・エゴー・ユダイオス・エイミ」とピラトは語り、「自分はユダヤ人であるはずがない」と言います。ユダイオスを除けば、ペトロと同じく、エゴー・エイミの否定となる一文です。自分の意見を言わないピラトも、「わたしはある」ではない状態に陥っています。

「わたしはユダヤ人の王である」との自白が得られなかったので、ピラトは質問を変えます。「あなたは何をしたのか」。イエスがした行為が、ユダヤ人の王/メシア/神の子と自称するような行為なのかどうかを、ピラトは調べたかったのです。政治的用語を用いて政治的支配を目指しているとイエスが言うかどうかが焦点です。

イエスの答えはまたもやピラトを混乱させます。イエスが政治的用語を用いながら、信仰の話をするからです(36節)。「わたしの王国」というのですから、イエスは王国の王でなくてはいけません。イエスの国は、この世界に属していません。この世界の一部ではないということです。この世界のルールに則って武力や暴力で支配を競うことをしないからです。イエスの王国=神の国は、天にあります。それは理想の社会です。神の正義と愛が実現し、イエスを中心に食卓を囲み、互いに仕え合う交わりです。仕えるという信仰のルールで、この世を包むために、神の国は今も近づきつつあります。礼拝中の教会は、天のルールが例外的に地上で行われている空間です。この世界が神の国の一部を成すので、イエスの国はこの世に属していません。この世がイエスの国に属しています。地上の国家における政治の領域もイエスの国に属するのです。

混乱したピラトは前の質問に戻ります。「それでは、やはり王なのか」(37節)。「わたしが政治的王かどうかは問題ではない。あなたがその用語を用いるので、それに付き合って言っているだけのことだ。本当の問題は、わたしが真理を証言するために、天から派遣されたということだ。この世に属して利害関係・損得勘定・妥協点ばかりを考えずに、真理を追究しなさい。真実究明を目指す人は、たいがいわたしの声を聞くものなのだから。本当のことは何なのか、自分の頭で考えて、『わたしはある』という心持ちで、信念をもって自分の意見を堂々と言いなさい」(37節)。

ピラトは一言つぶやきます。「真理とは何か」(38節)。真理とは、客観的事実のことでもあります。それが冤罪を防ぎます。裁判の可視化が求められるゆえんです。司法取引のようなやり方と抱き合わせず(これも冤罪を生みうるので)、自白強要がないように、取調の可視化・市民監視が必要です。ピラトでさえ、適正な訴訟手続を要求したことは、示唆に富みます。

さらに真理とは主観的な信念のことでもあります。真理をギリシャ語でアレセイア、さらにヘブライ語に遡ればエメトという単語になります。アーメンと同語根の単語です。「確固たる信念」や「信頼に値する誠実さ」を意味します。神や人に寄り頼む堅固な信頼・神や人に信頼される誠実を表す言葉です。ヘブライ語において「真」実は「信」実なのです。だからこそ、真理という言葉やイエスの信実な生き方はピラトの生き方を揺さぶり批判するものとなりました。ピラトが、妥協点ばかりを探り、自分の保身ばかりを考え、ローマ皇帝の顔色とユダヤ自治政府の顔色をうかがい、全然確固たる信念を持たずに、誰からも信頼されない不誠実さを露呈しているからです。

今日の小さな生き方の提案は、ピラトに対するイエスのようになることです。エゴー・エイミです。確かにすべての人は打算的です。その打算に基づいて社会は成り立っているという面もあります。この世に属する限り、わたしたちは打算的でなくては生きていけません。しかしそこに開き直ると真実究明は疎かになり、信実に生きる人は皆無となります。自分が損してもすべきことがあり、大切にすべき信頼関係があります。ピラトのようにではなく、イエスのように少しでもなれたらと願います。