神が復活させた方 使徒言行録13章30-41節 2022年2月20日礼拝説教

 長いパウロの説教も終盤です。パウロの説教の中心はイエス・キリストの復活にあります。キリスト信仰とは、「十字架で殺された方が三日目に神によってよみがえらされた」ということへの信仰です。イエスが自力で復活したという表現よりも、30・33・34・37節に繰り返し述べられているように、「神がイエスを起こした/よみがえらせた」のです。だからキリスト教は、唯一神教ではありません。神と神の子の独特の関係への信仰です。さらに神と神の霊、イエスとイエスの霊の関係への信仰です。こうして信頼関係のネットワークができます。古代の信徒たちは、神が内に持つこのネットワークを「三位一体」という言葉で説明しました。その言わんとするところや出発点を汲むべきです。

 冤罪によって十字架で処刑された義人イエスを、神は決してそのまま腐敗させない方です。神の子を起こす方です。子を眠らせた神が、子を起こしてよみがえらせる神でもあるのです。この気づきが信仰の出発点です。正義の神は、義人の殺害を放っておく方ではない、必ずよみがえらされます。ここにヨブの苦難に対する答えがあります。自分の外から起こる復活への希望を失わない生き方が、苦難の十字架を負わされている人々に勧められているのです。それが人を生かすからです。

30 さて神は死者たちより彼を起こした。 31 その彼はガリラヤからエルサレムへと彼に付き上った人々に多くの日々見られた。その人々は今や民に対して彼の証人である。 32 そして私たち、私たちがあなたたちに福音宣教をしている。そしてそれは父祖たちに対する約束が起こったということなのだが。

 ガリラヤからイエスについてきた弟子たちによって、復活のイエスは見られました。見た者は目撃者となり証人となります。エルサレム教会について、パウロは詳しく語りません。いかにしてあの弱く悪い、十字架の加害者である弟子たちが、復活者キリストからの赦しを受けて、悔い改めて、復活の証人となったかということを述べません。イエスが彼らに見られたことだけを言い、すぐに自分たちの活動へと移ります。エルサレム教会の使徒たちではなく、私たち、すなわちバルナバとパウロがあなたたち離散ユダヤ人と神を畏れる人々に福音宣教をしているのだと語ります。そしてパウロは非ユダヤ人である、神を畏れる人々をユダヤ人のようにみなし、会衆全体の「父祖たちに対する約束」(メシア預言)がナザレのイエスにおいて実現したということが、福音の中身であると言います。31節は過去、32節は現在、ならば33節は未来のことを言っているはずです。  

33 というのも神は、私たちの子どもたちのためにイエスを起こし続けながら、このことを満たしたからだ。詩編第二編の中にも書かれたように。「あなたは私の息子だ。私、私があなたを今日生んだ」。 

33節の本文は異なる読みが多いので判断が必要です。「私たちの子どもたちのために」の意味が通じないからです。いきなりパウロとバルナバの子どもたちが取り上げられることへの不自然さが指摘され続けています。むしろいくつかの写本のように「彼らの子どもたち」の方がしっくりきます。しかしおそらく「わたしたちの」という本文が最古最良のルカ自身の筆によるものです。

過去のエルサレム教会も、現在のアンティオキア会堂に集うあなたたちも、新来者として来たバルナバとパウロを含む「わたしたち」はみな「アブラハムとサラの子」です。そして未来において、「わたしたちの子どもたち」も信仰の始祖たちの子です。将来の人々のためにイエスは今も十字架に磔にされ、陰府に落とされ続け、神に起こされ続けているのです。それは十字架と復活を信じ続ける信徒たちの、日々追い続けている十字架に神がこれからもずっと関わり続けるということを示しています。神は未来の子どもたちのための神です。復活のイエスは未来に希望を与える神の子です。

「詩編第二編」というように具体的な旧約聖書の章/編が引用されるのは新約聖書の中でこの箇所しかありません。ルカが使徒言行録を書いた時代に、すでに詩編は編単位で書かれ読まれ親しまれていたことを示す、貴重な証拠資料です。そしてこの詩編2編7節は、イエスのバプテスマの場面において、天からの神の呼びかけとしても引用されています(ルカ3章22節)。ルカの教会にとってイエスのバプテスマとイエスの復活は関連しています。水に浸らされることは十字架であり(溺死)、水から上げられることは復活(水難救助)です。同じように信徒のバプテスマは復活を象徴している儀式です。この体験は、人生における苦難に打ち勝つためのしるしです。バプテスマの「今日」というのは、未来永劫経験しうる「今日」です。復活のイエスを信じる人生には必ず苦難からの救助があります。バプテスマはそれを希望するための儀式です。

34 さて、もはや腐敗の中へと戻ることのないようにしつつ、彼が死者たちより彼をよみがえらせたということについて、彼は以下のことを言った。「私はあなたたちにダビデの確実な聖さを与える」。 35 だから他にも彼は言う。「あなたはあなたの聖い者が腐敗を見ることを与えない」。 36 というのも確かにダビデは自らの世代で神の意思に仕えて、彼は眠り、そして彼は彼の父たちに向かって加えられ、そして彼は腐敗を見たからだ。 

 34節はイザヤ書55章3節のギリシャ語訳の引用です。35節は詩編16編10節のギリシャ語訳の引用です。ヘブライ語から訳している日本語のイザヤ書55章3節や詩編16編10節と、随分異なっています。アンティオキアの会堂に置いてあった聖書は、ヘブライ語だけだったのでしょうか。パウロは手紙を書く時にほとんどの旧約聖書の引用をギリシャ語訳からしています。もしかすると当時のギリシャ語圏の会堂にはギリシャ語訳聖書も置いてあったかもしれません。ヘブライ語聖書もギリシャ語訳聖書も指さしながら、パウロは「この聖句がキリストを指した預言だ」と論証していったのです。そのような自由な態度に会堂にいるギリシャ語話者は感銘を受けます。

 34節と35節は「聖さ」と「聖い者」の連想を聖句で行っています。ダビデは聖い者にはなれなかったと言いたいのでしょう。なぜなら彼は人の子として死んだからです。「彼(ダビデ)は腐敗を見た」(36節)。つまりダビデの死体は腐敗したのです。土で作られたものは土に帰らなくてはなりません。

37 さてその彼を神は起こした。彼は腐敗を見なかった。 38 それだから以下のことがあなたたちに知られるように。男性たちよ、兄弟たちよ。すなわち、この者を通してあなたたちに諸々の罪の赦しが告知された。そしてあなたたちがモーセの律法において義とされえなかった全ての点から、 39 この者において信じている者全てが義とされた。 

 ダビデに反して「彼(イエス)は腐敗を見なかった」(37節)。イエスは「ダビデの子」ではなく、ダビデが「わが主」と呼ぶ、ダビデに優る神の子です。そしてイエスは、モーセにも優る神の子です(38-39節)。旧約聖書には二大契約があります。ダビデを仲介者とする「シオン契約」と、モーセを仲介者とする「シナイ契約」です。シオン契約は、ダビデ王朝が続く限りにおいて神がイスラエルを救うという約束です。シナイ契約は、モーセが授けた律法を守る限りにおいて神がイスラエルを救うという約束です。

 イエス・キリストの福音は、シオン契約とシナイ契約を基礎にしながら、統合しつつ乗り越えます。シオン契約は民族主義や選民思想に陥りやすいものです。それは腐敗し悪臭を放ちます。シナイ契約は文字中心主義や能力主義に陥りやすいものです。それは鼻につきます。どちらも限られた人・「臭いのついた人」にしかあてはまりません。

イエス・キリストが告げる「諸々の罪の赦し」はどのような人にもあてはまります。ユダヤ人であるかないか、自由人であるかないか、男であるかないか、先天的な属性は関係ありません。文字が読めるか否か、律法を守ることができるか否か、後天的な人との比較も必要ありません。

パウロはここで会衆に「悔い改め」を要求していません。ユダヤ人がイエスを殺したと言いません。非ユダヤ人もその会堂にいたからです。その人々を含めて「わたしたち」と呼んでいるからです(33節)。ユダヤ人/非ユダヤ人という小さな論点ではなく、「人よ、あなたの諸々の罪は赦された」(ルカ5章20節)と全ての人に語りかけたイエスの言葉を、福音として語ったのです。「あなたはあなたのまま生きよ。モーセの律法はそれを罰するかもしれないが、わたしはあなたをそのままにする(アフィエミ:「赦す」の別訳)。さまざまな的外れな失態を犯すだろうけれども、あなたらしく生きることを正しいと認める(義とする)。あなたを罪ありと判定する的外れな世間に対してはわたしがあなたを弁護する(義とする)。それがあなたの復活だ」

40 それだからあなたたちは注意せよ。預言者たちにおいて言われたことが臨まないように。 41 「あなたたちは見よ、嘲る者たち、そしてあなたたちは驚け。そしてあなたたちは滅びよ。なぜならば私、私があなたたちの日々において働きを働く。もしも誰かがあなたのために詳述したとしても、あなたたちが決して信じない働きを(働く)。」 

 最後にパウロはハバクク書1章5節をギリシャ語訳で引用して説教を終えます。少し場違いな結びです。厳しい警告を発する必要がないように思えるからです。アンティオキア会堂の人々は非常に好意的にパウロやバルナバに説教の機会を提供してくれたのですから(15節)、会堂長を始め彼らは「嘲る者たち」ではありません(41節)。むしろよく聞いてくれる聴衆だったのです(42節)。多分パウロという人はこういう強い癖を持っていたと思います。聴衆の食いつきが非常に良かったことも後押しになり、「分からない人になりなさるな」という、聖句で裏付けされた皮肉で説教を終える。これは、パウロにしてみれば気の利いた終わり方なのでしょう。パウロの欠けも神は赦し、そのままにします。このダメ押しがあるからこそのパウロなのです。嫌われもしますが、粘り強い論証もする。だから次の安息日も呼ばれるのです。 

今日の小さな生き方の提案は、復活を信じるということです。パウロの説教が、十字架と罪の赦し・信仰義認を関係づけず(27-29節)、復活と罪の赦し・信仰義認を関係づけていることに注目すべきです(37-39節)。復活信仰は単純素朴です。イエスは常人と異なり復活させられたから神の子なのです。イエスは復活させられたから永遠の命を持ち腐敗しないのです。バプテスマという入信の儀式は復活の追体験です。復活者の圧倒的な生命力が、わたしたちの小さな的外れ(闇やへこみ)を光に包んで無意味なものにします。そのままで良いし、倒れても必ず起こす神がおられるのです。常に今日を自分らしく生きることができ、その結果永遠の命を毎日生きることができます。十字架はわたしたちの頭を下に向けさせます。復活はわたしたちの顔を前から上に向けさせます。イエスを起こした神が、わたしたちの神、わたしたちの子どもたちの神、未来を切り開く神であることを信じましょう。