神が復活させられた 使徒言行録2章22-28節 2020年10月11日 礼拝説教

22 イスラエルの人々よ、あなたたちはこれらの言葉を聞け。ナザレ人イエスを、あなたたちも知っているとおり、あなたたちの真ん中で神が彼を通してなした力と奇跡と徴でもって、神からあなたたちへと示された人を、 23 彼を、神の定めた知恵と予見で無法者たちの手によって渡し、磔にし、あなたたちは殺し、 24 その彼を神は復活させた、死の苦しみを解いて、彼がそれ(死)によって捕まえられることができなかったということに応じて。

 ペトロの説教は続きます。ユダヤ人だけではなくパルティア人をはじめとする在エルサレム外国人が説教の聴衆です。ところがペトロはここで大胆にも聴衆の一部を絞り込みます(22節)。「聞け、イスラエルよ」(申命記6章4節)というようにユダヤ人にだけ語りかけるのです。この呼びかけから、この時の聴衆は外国人ではなく、一時帰郷した離散ユダヤ人たちだと推測する人が多いのです。しかし、前から申し上げているとおりその推測は難しいです(5・9・14節の翻訳参照)。

ではなぜここではイスラエルだけが呼びかけられているのでしょうか。週報四面に記したローマ帝国への配慮という事情があったのかもしれません。また、「イスラエルの人々よ」という呼びかけは、聴衆の注意を引き寄せるための言葉かもしれません。時々誰か一人の名前を出すことで、全員の注意を集中させることができるからです。ペトロはユダヤ人に向けて語っていながら、全世界に向けて語ることができます。あるいは、ペトロはこの雑多な聴衆を「新しいイスラエル」とみなしているのかもしれません。

 在エルサレム外国人たちはユダヤ人の選民意識をよく知っています。自分たちが見下されていることを肌で感じながら生活をしています。そのような人々がペトロから自分の母語で、「イスラエルの人たちよ」と呼ばれたらどうでしょうか。「この説教者は人間は平等であるという意識を持っている。ガリラヤ人であるこの人の説教をもう少し聞いてみよう」という風になるのではないでしょうか。そのような効果もある呼びかけです。

 22-24節は、一つながりの文です。内容が入り組んでいるので、文の構造を把握するべきです。下線を引いた部分が文の骨格です。骨格を理解すると、「イエスをあなたたちは殺した」「イエスを神は復活させた」という構造が浮かび上がります。これこそペトロの語る説教の核心です。そしてそれは百二十人に与えられた信仰の中心です。彼ら彼女たちの聖書研究の結晶です。非常に素朴なかたちの信仰告白です。

 「イエスをあなたたちは殺した」の「あなたたち」とは誰なのでしょうか。もう少し絞って問いましょう。この「あなたたち」にペトロや百二十人は入るのでしょうか。もしもペトロが入らないのならば、ペトロは「自分はイエスを殺していない、あなたたちが殺したのだ」と言いのけていることになります。このような開き直った態度は、四つの福音書がすべて証言している内容と相反します。すなわち、ペトロは十字架の前夜「イエスを三度知らない」と言って、自己保身を図った裏切り者だったというスキャンダルです。特にルカ福音書では、ペトロはイエスを三度否定したその時にイエスと目を合わせています。「予告した通り、あなたはわたしを見捨て、わたしを殺す側についた」とイエスの目は語っていました。少なくともペトロはそのように語られたと思いました。

 このペトロが、いくら聖霊によって勇気を与えられたとはいえ、「自分ではなく、あなたたちがイエスを殺した」とは決して説教できないと推測します。百二十人にしてもそうです。すべての弟子たちはイエスを見捨てて逃げたのですから、イエスを殺す側につきました。「あなたたち」は、自分たちのような卑劣な裏切り者も含む、それゆえに全世界の人を指す「あなたたち」。たとえば英語のyouのように、一般的な人類全般を指す「あなたたち」をここにあえて当てはめたいと考えます。それによってユダヤ人以外の外国人たちも、自分たちにもあてはまる言葉としてペトロの説教を聞くことができました。

エルサレムに定住していた外国人たちは、50日ほど前に行われたナザレのイエスの公開処刑を知っていました。すべての人があの時自分は何をしていたのかを問い直されました。野次馬になって十字架を運ぶイエスや磔にされたイエスを見て、イエスを嘲る側に立った人もいたことでしょう。安息日が始まってもずっと野次馬を続けた外国人もいたことでしょう。「またガリラヤ人が殺された」とか「今年の過越祭の恩赦対象者はバラバだとさ」とか、情報を消費して愉しんだ人もいたことでしょう。ローマ軍との接触を避けて、無関心を装ったパルティア人もいたことでしょう。彼らもユダヤ社会の一員、首都エルサレムの住民なのです。あなたはその時どこにいたのか、義人イエスの処刑にどのような仕方で関与したのか。すべての人は問われました。

ペトロによれば、それらの行為はみなイエスを殺す側の行為です。「義人イエスは決して権力によって殺されるべき人ではなかった。彼は何も悪いことをしていない。むしろ力と奇跡と徴を行い、困っている人を助けた。イエス滞在の一週間であなたたちも知っての通りだ。このイエスを磔にするのは不正義だ。無法行為だ。もしこの世界で一人でも不正義・無法のために殺される人を見殺しにするのならば、殺害に直接関与しなくても、それはこの世で最も小さな人を殺したことになる。すなわちイエスを殺したことになる。この意味ですべての人はイエス殺しの罪を負っている(イエスをあなたたちは殺した)。イエスは罪というものを教えるために神から示されたメシアだ。」

「神はイエスを復活させた」。原文には「しかし」(新共同訳)はありません。「しかし」が無い方が予め決められた救いの計画という色を強めます。「人間は必ずイエスを殺す」ということを知っている神が、イエスをよみがえらせたのです。神は人間を使ってイエスを殺させた、あるいは、神はイエスを棄てたとも言えるので、そこに逆接の接続詞「しかし」は不要です。

神はイエスを殺させよみがえらせました。その意図は何でしょうか。使徒言行録だけが伝えていることですが、復活のイエスは四十日ほど百二十人の弟子たちと一緒に生活をしました。ペトロたちに悔い改めの機会を与える時間だったと考えます。裏切り、見棄て、否定した罪を、イエスに直接謝る期間です。謝る相手がいなくなる時に私たちの罪責感は強くなります。もちろん罪を赦すかどうかは被害者の意思によります。しかし加害者としては、謝罪の気持ちを直接伝えたいと考えるものでしょう。

 神の救いの計画は、加害者たちを真に更生させるものです。被害者の癒しや名誉の回復だけが問題ではありません。十字架の死刑囚が世界の救い主だという証明のために復活させたというだけではないのです。一生悔やむだけに加害者の人生を狭くするのではなく、加害の罪をイエスに悔い改める人生が加害者(すべての人)の心を開きます。イエスに赦され、聖霊の自由に導かれ、活き活きと生きるようになります。これが救いの開始です。

25 というのもダビデは彼のために言っている。「私は全てを通じて私の前に主を見続けた。彼が私の右側にいるので、その結果私は揺さぶられえなかった。 26 このために私の心は喜んだ。また私の舌は小躍りした。そこで私の肉でさえも希望の上に座るだろう。  27 というのもあなたは私の命を陰府へと棄てないであろうからだ。またあなたはあなたの清い者が腐敗を見ることを許さないであろうからだ。 28 あなたは私に生命の道々を知らせた。あなたは私を喜びで満たすだろう、あなたの顔と共に。」

ヨエル書に次ぐ第二の聖句引用が始まります。それは詩編16編8-11節です。この聖句は「七十人訳」と呼ばれるギリシャ語訳旧約聖書とぴたりと一致しています。宿屋でみんなが見ていた聖書は、ギリシャ語訳聖書だったのではないでしょうか。その聖書は五書・預言者たちに加えて詩編もくっついていた聖書だったのでしょう。彼ら彼女たちは、神の霊感によって詩編16編8-11節を用いて、ナザレのイエスが復活したことを論じます。

 元々のこの詩は作者(ダビデ)が主と呼ばれる神について詠んだ歌です。それをペトロは、作者が復活のイエスになり代わり、イエスの人格の中へと入り込んで、復活体験を詠んでいるというように設定を変更しました。この大胆な設定のもと、詩編の中で「私」(25節以下)や「あなたの清い者」(27節)はイエスを指すことになりました。「主」「彼」(25節)と呼ばれ、「あなた」(27節以下)とも呼ばれているのは神のままです。こうしてこの詩は、神に対する神の子のほめたたえとなります。神の子が持っている、神に対する深い信頼を歌う詩です。イエスは常に神の顔を見、神の顔と共に喜んでいます。見たら死ぬと考えられていた神の顔です。一方、死体の腐敗を見ることはありません。命を見、死を見ない。永遠の命を与えられ、陰府に捨てられないということでしょう。仮に死んでも生命の道々を通ってよみがえらされます。土に帰る肉体でさえ希望の上に座るのですから。ダビデの筆を通して、復活のイエスが、イエスを復活させた神を賛美しています。

 初めて詩編を聞いた外国人も多かったことでしょう。詩編について詳しいユダヤ人もいたことでしょう。どちらの人々にも驚きの読み方です。初めて聞いた外国人には、聖書を生活の基盤にするという考え方が新鮮です。正典信仰と言います。神の言葉を自分の人生を導くものとして読むという姿勢です。ユダヤ人にとっても驚きです。ダビデを自分に置き換えて、自分の心境と重ね合わせるユダヤ人は多くいます。しかしペトロが行ったのは、ダビデをイエスに置き換えるということでした。この解釈の方法は新鮮です。そして無限の広がりを持ちます。聖書記者・預言者たちは、そのままイエスの言葉を語っているとみなしうるのならば、旧約聖書にキリストがいつでも登場できるのです。聖霊が教える大胆な聖書の読み方です。

 今日の小さな生き方の提案は、聖書を基盤にして自分の罪を悔い改めるということです。あの時ペトロほか百二十人や、在エルサレム外国人すべてが犯した「キリスト殺し」の罪を、現在のわたしたちも漏れなく犯しているということを自覚することです。あの時あの人を見捨てた罪・踏みつけにした罪・無視した罪などなど、誰かに謝りたい気持ちは全ての人が持っていると思います。直接会えるなら謝れば良いでしょう。しかしもう会えない人もいるかもしれません。たとえば殺人の罪を犯した人は、本当に謝るべき被害者はもはや地上にいません。とても苦しい状況です。

その場合、復活のイエス・キリストに謝るという道があります。それが命に至る道です。ペトロを見つめ、罪を犯す前から赦していたキリストは、四十日間ペトロの目の前にいてとことん謝らせ、その上でペトロに新しい道を歩ませました。卑怯者から大胆な者に転回させました。思いもよらない、大胆な聖書の読み方を授け、それに基づいて、キリストの霊が教会を創らせました。今この礼拝に復活のキリストが聖霊としていらっしゃいます。大胆にその方に罪を告白し、大胆に生き直し教会に連なりましょう。