神が清めたもの 使徒言行録10章17-33節 2021年9月5日礼拝説教

17 さてペトロは彼自身において、彼が見た幻が何であるのかと混乱し続けている時に、見よ、コルネリウスか遣わされた男性たちが――(彼らは)シモンの家を探し求め続けていた――門に接して立った。 18 そして(彼らは)声を上げながら、彼らは尋ね続けた。ペトロと呼ばれているシモンがここに滞在しているかどうかと。 

 ペトロは恍惚の預言状態から覚め幻の意味について混乱します。その間に、コルネリウスの家の者二人と部下の兵士一人(ローマ人)が皮なめし人シモンの家の門口に立ちました。彼らはペトロがここにいるかどうかを尋ねます。当然、食事の準備をしていたシモンたちが対応します。いかめしいローマ兵を見て、正直にペトロがいることを言うべきか迷いながらシモンが応対します。

19 さてペトロは幻をめぐって考え続けていた時に、霊が彼に言った。「見よ、三人の男性があなたを求めている。 20 しかしながら、起きてあなたは下れ。そしてあなたは彼らと共に旅をせよ、差別しながらではなく。なぜなら、私、私こそが彼らを遣わしたからだ。」 21 さてペトロは、コルネリウスから彼のもとに遣わされた男性たちのもとに下った。彼は言った。「見よ、私、私こそがあなたたちが求めている者だ。あなたたちが傍らにいる理由は何か。」 

 ペトロは物音には気づいても、幻の意味の方が気になっています。あるいはローマ兵らしき人物の来訪に自分は出て行かない方が良いと判断したかもしれません。ここは皮なめし人シモンに任せようというわけです。そこで聖霊が彼を導きます。「三人の非ユダヤ人男性があなたを求めている。しかしながら、差別なく起きてあなたが下って、応対し、同行せよ。彼らを遣わしたのは私だ。」古来「しかしながら(アッラ)」の意味は不明でしたが、ペトロが非ユダヤ人との接触を避けるために躊躇していることを聖霊が批判していると採ります。そこでペトロはシモンたちをかき分けながら自己紹介をします。「私である(エゴー・エイミ)」という言い方に、イエス・キリストに倣うようになってきたペトロの成長が見えます。

22 さて彼らは言った。「コルネリウス百人隊長、義人かつ神を畏れる男性、ユダヤ民族の全てから立証され続けている者が、聖なる天使によってあなたを彼の家へと招くようにと、またあなたからの言葉を聞くようにと、神託を受けた。」 23 そこで(彼は)招き入れながら彼は彼らを滞在させた。さて次の日、(彼は)起きて彼らと共に出て行った。そしてヤッファからの何人かの兄弟たちも彼と同行した。

 使者たちはギリシャ語でペトロに言います。「上司/家の主人である百人隊長コルネリウスがお告げに従ってあなたを招きたいと言っている」。不思議そうなペトロの顔を見て、彼らは言葉を継ぎます。「あなたの話を聞きたい」とも言っています。天使からコルネリウスへの言葉に、「ペトロへの説教奉仕依頼」はありません(5節)。部下たちの機転で付け加わっています。ペトロはある程度ギリシャ語のできる人でしょうけれども、シモンに通訳を頼みながら依頼の内容を理解します。「説教ともなると通訳もつけないといけないね」など色々二人のシモンが話し合い、皮なめし人シモンが家の主人として「まあ、いずれにしろ、我が家に泊まってください。今食事の準備をしていましたが、三人追加でも何とかします。ご飯を食べながらご相談を聞きますよ」と言います。23節の招き入れ滞在させた「彼」を、ペトロではなくシモンと採ります。

 居候のペトロは否応なくローマ兵・カイサリア住民の非ユダヤ人であり、神を畏れる者たち(改宗していないけれども正統ユダヤ教に好意的な人々)と一緒にご飯を食べることになります。シモンは自分の家の教会に連なる信徒たちも呼んだと思います。三人の客は初めてユダヤ教ナザレ派と交わりを持つことになります。そしてナザレ派には食物禁忌規程がないことを知るのです。ペトロも釣られて、ローマ兵とまたヤッファ教会信徒と同じ食べ物を食べます。

 こうして食事の交わりを通してペトロは幻の意味について了解していきます。ギリシャ人もローマ人も同じ人間であり、ヤッファ教会員も同じ信徒である。神が清いと言っている。シモンもまたペトロがヤッファ教会にやっと馴染んできたことを喜びます。楽しい交わりの次の日、通訳も兼ねたヤッファ教会員6人(11章12節参照)と共にペトロはヤッファに行きます。もしかすると皮なめし人シモンも同行していたかもしれません。6人はカイサリア教会のフィリポにも会いたがります。彼らこそフィリポとペトロを仲介した人々でしょう。

24 さて次の日、彼はカイサリアの中へと来た。さてコルネリウスは彼らを待ち続けていた。彼の親戚たちや、近しい友人たちを招集しながら。 25 さてペトロが入ってこようということが起こった時に、コルネリウスは彼に向き合って、足に接して落ちて、拝跪した。 26 さてペトロは彼を起こした、以下のように言いながら。「あなたは起きよ。わたし自身もまた人間である。」 

 余裕をもって10人は途中で一泊し、次の日、カイサリアに到着します。ペトロはカイサリアの都会ぶりに驚きます。自分が井の中の蛙であったことを知るのです。ローマ兵も退役軍人の植民者も多くいます。ギリシャ人もいます。ギリシャ語・ラテン語・アラム語が行き交う港町です。ユダヤ人は少数者、街道は遠慮深げに建っています。そこでどのようにユダヤ教ナザレ派が伝道できるのか、国際派のあり方に分があることをペトロは肌で感じます。

 コルネリウスは会堂ではなく自宅で家族と共に待っていました。そのまま家の教会になりそうな勢いです。ペトロたちが近づく物音を察知して、彼は玄関先まで出て行きます。コルネリウスはユダヤ人の習慣をよく知っているので、ユダヤ人の前ではユダヤ人のように足元に跪いて挨拶をします。土下座の姿勢です。ペトロはコルネリウスの姿勢に打たれます。自分がローマ人の前でローマ人のようにしていなかったことを恥じます。非ユダヤ人教会員の前で非ユダヤ人教会員のようにしていなかったことを恥じます。出された皿をきれいにしなかった非礼を心で詫びます。そして、「どうぞ私と同じ高さになってください。私も自分がただの人間であるとやっとわかったのですから」と言うのです。

27 そして彼と共に話しながら、彼は入って来た。そして彼は多くの参集しているものたちを見出す。 28 彼は彼らに向かっても言い続けた。「あなたたち、あなたたちこそが知っている。ユダヤ人男性にとって他民族の人と一緒になったり近づいたりすることがいかに非合法かということを。神は私にも示した。人間が俗か汚れているかを言うべきでないと。 29 だから私も逆らわず招かれた時に来た。そこで私は尋ねる。何の理のためにあなたは私を招いたのか。」 

 コルネリウスは家に招き入れ、ペトロがコルネリウスの自宅に入るとそこには親戚や友人たちが多くいることが分かりました。「見出す」は現在形。ペトロが今でも見失うかもしれない非ユダヤ人キリスト者の存在を喚起させる表現です。だからペトロは自分が見失うかもしれないすべての人を含めて、「彼らに向かっても」語りかけます。「神は幻において、人間が俗であるとか汚れているとかと言うべきでないことを示した。私もこだわっていた、ユダヤ人が非ユダヤ人と接触すべきでないという考え方には理がない。あえての確認だが、私を招いた理(ロゴス)は何か」

30 そしてコルネリウスは言い続けた。「四日前からこの時まで私の家で私は第九時に祈り続けていた。そして見よ、輝く服の男性が私の前に立った。 31 そして彼は言う。『コルネリウスよ。あなたの祈りは聞き入れられた。そしてあなたの寄付は神の前で覚えられた。 32 そこであなたはヤッファへと遣わせ。そしてペトロと呼ばれているシモンを呼べ。この男性は海の傍らの皮なめし人シモンの家に滞在している』。 33 そこですぐに私はあなたのもとに遣わした。それからあなたも良くした、近づいて来ながら。そこで今、私たち全ては神の前に臨んでいる、主によってあなたに整理された全てのことを聞くために。」

 「四日前からこの時まで」(30節)は従来意味不明とされていましたが、第九時(午後三時というユダヤ教の祈祷時間)に祈る習慣をコルネリウスが四日前から開始したと考えれば意味は通ります。その新しい敬虔を始めて間もなく神の天使が彼に現れたのです。

 天使はコルネリウスの祈りが聞き入れられたと言います。その内容は正統ユダヤ教の会堂での何とも言えない疎外感と息苦しさです。「神を畏れる者」という括られ方です。割礼を受けなければ決して受け入れないという構えと、ユダヤ人たちが持つ選民意識です。「このモヤモヤの原因が自分にあるならばどうぞ神さま私を変えてください。しかし自分以外の問題ならばあなたが解決してください」。これが彼と彼の家の者たちすべての祈りです。すると神の天使は、「皮なめし人シモンの家に滞在しているペトロというユダヤ人を呼べ」という解決を示されました。

 コルネリウスは天使の言葉通りにすぐに三人を派遣しましたが、内心はペトロが自分の家に来るかどうか疑っていたと思います。ペトロがユダヤ人だからです。コルネリウス家族は、何回かユダヤ教会堂に連なる友人たちを自宅に招いたことがあると思います。しかし誰も客になってくれません。自分がローマ人だからです。徴税人ザアカイのような寂しさを常に感じていました。

 遣わした三人の者たちもシモンの家で忌避されないだろうか。道中でペトロが嫌にならないだろうか。とても心配でしたが、ペトロがヤッファの友人たちを6人もギリシャ語話者を引き連れて来てくれたことにコルネリウスは感謝しています。ペトロを通してモヤモヤが解決できるという期待は高まります。

「そこで今、私たち全ては神の前に臨んでいる、主によってあなたに整理された全てのことを聞くために」(33節)。「整理された」は「前に向かって」と「並べる」とが合成された言葉です。ペトロの混乱(18・19節)や「理が何か」(29節)という問いと対応しています。コルネリウスのモヤモヤとも対応しています。考え方の整理こそが解決です。一体ペトロとコルネリウスを抑圧している考え方は何でしょうか。ペトロは主の導きによりヤッファ教会の努力にもより一足先に整理がつきました。「すべての人間は平等に清い。すべての人間は神の似姿・神の子である」。この考え方が歴史を前に切り開くのです。天賦人権説と言います。現在に至るまで世界を前に切り開く理です。

 今日の小さな生き方の提案は、歴史を導く神を信じることです。私たちは毎日混乱しています。一週間に一度くらい中規模の混乱、一か月に一度くらい大規模な混乱が起こります。モヤモヤし自問し、意味が分からないと叫び祈ります。その時、あるいはそのずっと前から、神は前に向かって事柄を整理しています。一つずつの出来事はドミノの一こまです。神は慎重に並べ、来るべき時に最初の一こまを前へと倒す機会を決めます。相応しい時に私たちはドミノの軌跡を、神の導く歴史の奇跡として受け入れることができます。その時を信じて現在のさまざまな混乱を耐え抜きましょう。