神に従う 使徒言行録4章13-22節 2020年12月6日礼拝説教

13 さてペトロおよびヨハネの堂々としていることを見ながら、また彼らが文字を知らない、また無学な人間たちであるということを理解して、彼らは驚き続けた。彼らは、彼らがイエスと共に居続けたことをも分かってきた。 14 癒された人間が彼らと共に立っているのをも見ながら、彼らは何も反論を持たなかった。 

ペトロとヨハネは裁判の場面で非常に堂々としていました。キリストの復活の証人には、穏やかで毅然とした態度が備わります。この堂々とした態度と、文字を知っていることや勉強を積んでいることとは関係がありません。現代においても当てはまります。高学歴であっても堂々とできない人は大勢います。

もちろん13節には最高法院メンバーからの、ペトロとヨハネに対する偏見と先入観が現れています。ペトロとヨハネが文字を読めなかったかどうかは不明です。ガリラヤ湖の漁師は文字も知らず学もないと彼らは思いこんでいます。実際にはガリラヤ湖の漁師である律法学者も当時存在していましたから、彼らの偏見は悪質な差別です。

つまりこの偏見は、二人がナザレのイエスと行動を共にし続けていたことが段々分かってきて強化された差別意識です。ペトロは自己紹介しました。「あなたたち最高法院が十字架刑に処したナザレのイエス・キリストを神がよみがえらせた。私たちはその証人である」と。最高法院は二人がイエスの弟子だと認識しました。さらに付け加えて二人はガリラヤ湖畔でのイエスとの初めての出会いや、「私に従ってきなさい」と召されて家と網を捨てたことも自己紹介していたかもしれません。論敵イエスに対する嫌悪感が、イエスの弟子たちに対しても乗り移ります。「ナザレから良い者が登場するわけがない、全員が文字を読めないのだから」。

差別意識が彼らの驚きを強くしています。「あなたたちごときが堂々としているのはおかしな現象だ」とは、何重にもねじれた論法です。大きな矛盾を抱えている者たちは、堂々と反論する言葉を持っていません。さらに昨日まで立てなかった人が、二人の傍に立っています。彼が歩けなかった時には、最高法院のメンバーたちは彼と同じ高さの目線で顔を合わせることはなかったでしょう。彼らが「上から目線」で見棄てていた男性が、ナザレ人イエス・キリストの名前において起こされ歩いています。平等な目線で並んでいます。低いところが起こされ高くされたのです。「ナザレ人イエス・キリストの名前には力がない」という反論は、この人を前にして成り立ちません。イエス・キリストという、力ある名前を聞き出したけれども、その次に判決として何を言い渡すべきか、彼らは困りました。

15 さて彼らに最高法院の外へ去ることを命じて、彼らは互いに向かって論じ続けた。 16 曰く、「私たちはこれらの人間たちに何をなすべきだろうか。というのも実際、彼らによるしるしはエルサレムに住んでいる全ての者に知られ明らかとなった。そして私たちは否定することができない。 17 しかしさらに民の中へとそれが広がらないために、彼らにこの名前について人々に決して話さないようにと脅そう」。 18 そして彼らを呼んで、彼らはイエスの名前について一切話すことも教えることもしないように指示した。

 困った彼らは一旦三人を裁判の部屋から退出させ、自分たちだけで論じ合いました。少し格好がつかない形です。イエスの裁判の時には彼らももう少しましでした。一応の尋問をし被告の主張も聞き、それに対して反論をなして、判決を言い渡しています。お互いの主張を論じ合いながら裁判は進みました。今回彼らは三人を侮っていました。おそらくペトロとヨハネは、ナザレ人イエスの名前を言わないだろうと思いこんでいました。まさかここまで強烈な主張を堂々とされるとは思っていなかったのです。

 16-17節は一人の人の発言のように括られていますが、彼らの協議の内容ですから複数の意見の結論部分がまとめられていると考えます。彼らとしては頭をフル回転させて合意形成をしました。それなりに論点を整理して課題の解決を図っています。イエス・キリストの名前において癒しが起ることを彼らは認めています。イエスをキリストと信じている人々に危害を加えることは、民を統治する上では得策ではありません。「しかし(アッラ)」、このまま黙認すると、どんどんキリスト信徒たちが増えてしまいます。サドカイ派である彼らにとってそれも望ましくありません。そこで緘口令を敷くこととしました。

 もう一度最高法院の部屋に呼び寄せてから、彼らは「イエスの名前について一切話すことも教えることもないように」という脅迫のみを告げました(18節)。細かい話ですが、彼らは「名前において(エン)」ではなく(7節)、「名前について(エピ)」としています(17・18節)。セリフでも地の文でも「ついて」としているのですから書き間違えではないでしょう。「名前について話さない」という方が強い意味です。イエスという文字が出てこない状況、イエスという人物について何も教えることができない状況、この方が望ましいのです。当然、癒しは起こりません。そしてイエスがどのような人であったのかも紹介できません。こうして「民の中へと」(17節)キリスト信仰が浸透しないように彼らは公正であるべき裁判を政治的に利用します。判事でありかつ同時に議員でもある時に、権力の濫用が容易になされます。三権分立が必要なゆえんです。

十字架で殺され、三日目によみがえらされた方が誰であるのかを告げることができないならば、教会の伝道は立ち消えになるでしょう。言論統制は、思想統制です。言ってはいけない言葉をつくることは、相手の良心を脅かします。命は取らないけれども、言葉をとりあげるという脅し。この脅しに屈する時、私たちの魂がとりあげられてしまいます。肉体を滅ぼしても魂を滅ぼせない相手を恐れることはありません。

19 さてペトロとヨハネとは答えて、彼らは彼らに向かって言った。「あなたたちに聞くことか、それとも神に(聞くことか)、どちらが神の面前に正しいのか、あなたたちは裁け。 20 というのも私たちは、私たちが見たことや聞いたことを話さないということができないからだ」。 

 ペトロとヨハネは最高法院の脅迫に聞き従わないことを宣言します。そもそも無罪なのか有罪なのかを判断していないので、判決とも呼べないような脅しです。政治的判断しか行っていないことが問題です。最高法院は、イエスの名前において癒しという「善い行い」がなされることを否定していません。二人が行ったことが律法に基づいて犯罪ではないのであれば、最高法院は無罪判決を下さなくてはいけません。

 あるいは有罪判決を下すとするならば、二人の行為のうちどの部分が違法行為なのかを立証しなくてはいけません。モーセ五書に記されている律法に違反する部分があるかないかが問題です。歩けない人に触ることや、安息日以外に行う医療行為は律法違反ではありません。しかし、奇跡を行う者が人々を別の信仰に誘うことは死罪となります(申命記13章2-6節)。「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない」(同5節)。

 最高法院はなぜこの法律を適用しなかったのでしょうか。私は死刑執行を勧めているのではありません。彼らのご都合主義を問題にしているのです。法律があるのならば法律に従って量刑判断をすべきです。彼らがこの法律を用いない理由は、エルサレム住民を恐れたというところにあります(21-22節)。法ではなく人を見ています。だからイエスに対して神を冒涜した罪で死刑判決を出しながら、そのイエスをキリストと信じている弟子たちには死刑判決を出せなかったのです。「法治」ではなく「人治」であることが問題です。

 ペトロとヨハネは申命記を念頭に置いて最高法院を真っ向から批判します。「あなたたちは裁け」(19節)。公正な裁判を求める二人の声が最高法院に響き渡ります。神から律法が授けられているのだから、そして律法の解釈権限を委ねられているのだから、最高法院は神の面前できちんと判決を出すべきです。「一体自分たちが申命記13章の奇跡を起こす預言者・夢占いをする者に当たるのか、それとも当たらないのか判断せよ」。また、ペトロとヨハネは申命記を念頭に置いて「わたしたちは神の声に聞き従っているので、あなたたちの声に聞き従わない」と考えています。すべての人に良心があります。良心とは内なる声に聞き従うことです。キリスト者の場合それは神の言葉に聞き従うことです。「イエス・キリストの復活の証人となるように」との神の声を、ペトロとヨハネは聞きました。自分たちの見たこと、聞いたこと、しかも素晴らしいことを話さないということができないのです。ナザレ人イエス・キリストについて、何から何まで話す責任があります。二人が使徒であるからです。

21 さてさらなる脅しをしながら、彼らを罰する方法を見出さないまま、民のゆえに、彼らは彼らを解いた。というのも、全ての者たちは起こったことに関して神を崇め続けていたからである。 22 というのも、その人間は四十歳以上だったからだ、その彼の上にこの癒しのしるしが起ったのだが。

 最高法院は論破されました。負け惜しみ的な「さらなる脅し」をしますが処罰の方法が何も思い当たりませんでした。実質的には無罪放免・全面勝訴です。

「民のゆえに」最高法院は三人を解放しました。エルサレム在住のユダヤ人は、ペトロとヨハネの信じている神が、申命記13章の神と同じ神であることを認めました。二人は奇跡やしるしを悪用して他の信仰へと誘う預言者や夢占いをする者ではありません。裁判の被告席から解放された者たちも、今や一万人以上に増えた、三人の解放を待っていた者たち(教会員)も、「全ての者たちは起こったことに関して神を崇め続けていた」(19節)。この神はイエスをよみがえらせた神であり、奴隷の民イスラエルを贖った神です。四十年歩けなかった人、神殿に入りたくても入れなかった人に、エルサレム住民たちは「荒野の四十年」を思い起こしました。今や歩けるようになった人は、約束の地で礼拝の自由を与えられた全イスラエルの象徴です。彼と共に主を礼拝し初代教会は歩みます。こうしてキリスト教会の救いは旧約聖書の救いと接続します。

今日の小さな生き方の提案は神の声を聞き、それに、実にそれにのみ従うということです。神の声は、一人ひとりについて異なります。どんな人も他人の「良心の主」になることはできません。神の声は問いの形もとります。「あなたはどこにいるのか。あなたはここで何をしているのか。あなたの隣人はどこにいるのか」。神の声は慰めの形もとります。「あなたは高価で尊い。あなたは幸いだ」。励ましの形もとります。「翻って生きよ」「互いに仕えよ」。

私たちは同調圧力の強い社会に生きています。他人の顔色や他人の声に合わせなくてはいけないと思いこまされています。その中で穏やかに堂々と生きることは至難の業です。しかし正にそれゆえに、その生き方は救いそのものです。神を信じる時に謙虚さが備わります。自分は間違えているかもしれないという柔和な穏やかさをキリスト信仰は与えます。それと同時に、神の声にのみ聞くという堂々とした態度も与えます。キリストのみが私たちの良心の主です。