神の名を唱えること 出エジプト記20章7節  2015年11月29日 礼拝説教 

あなたは、あなたの神・ヤハウェの名前を、虚偽の目的のために持ち運ぶ(動詞ナーサー)はずがない。なぜならヤハウェは、その名前を虚偽の目的のために持ち運ぶ者を、罪なしとしないからである(直訳風私訳)。

十戒を一つずつ読んでいます。今日は「第三戒」と分類される部分です。この箇所はある意味で有名です。この禁止命令を愚直に守った結果、ユダヤ教徒たちは神の固有名を忘れてしまったからです。彼ら彼女たちは、神の名前をいたずらに唱えてはいけないと考え、「わたしの主(アドナイ)」「御名(ハッシェム)」などと婉曲に言い習わしたために、YHWHと綴られる神の名の読み方を忘却し滅却しました。現在、神の名前はYaHaWeH(ヤハウェ)と学術上復元されますが、日本語訳も含めほとんどの旧約聖書は、「主」と訳します。その原因は第三戒にあります。紀元前3世紀、史上初の旧約聖書翻訳であるギリシャ語訳で、ユダヤ教徒たちはYHWHをキュリオス(主という普通名詞)と翻訳しました。この時点で読み方が分からなくなっていたかもしれません。

ユダヤ教徒の考え方にも一理あります。名前というものはその存在そのものであるとも言えるからです。先ほどの「御名」という婉曲表現が正にその事情を言い当てています。わたしたちが「主の祈り」で「御名を崇めさせたまえ」と祈るのは、ユダヤ教徒の伝統を継承しているに過ぎません。名は神そのもの。だからイスラエルの一人ひとりが、神ご自身を持ち上げ・持ち運ぶことができるのかということが問われています(私訳参照)。

この問いは物語の文脈にも合っています。イスラエルの一人ひとりは、神が鷲の翼に乗せて(動詞ナーサー)持ち運ばれ、エジプトから救い出されました(19章4節)。神が民を持ち運ぶことができるのであって、その逆ではありません。だからやはり、第三戒も禁止命令と考えるよりも、「あなたが神を持ち運ぶことなどできるはずがない。なぜならあなたが神に持ち運ばれたのだから」という意味で考えたほうが良いでしょう。

その上で神の名前を持ち出すことの積極的意味を考えたいと思います。名前を持ち出さないことはある種の安全運転でしょうけれども、二つの理由でお勧めできません。一つの理由は、積極的な生き方が示されないことです。我慢や萎縮、断念は、聖書の本意ではありません。どう生きるかを積極的に語ることの方がわたしたちの生活に役立ちます。もう一つの理由は、キリスト教会がナザレのイエスという固有の名前を持つ救い主を信じていることにあります。わたしたちはイエスという名前を口にしないことがありえません。たとえばお祈りの時や、バプテスマの時にも、神の名が用いられます。だから、「みだりに」ではない名前の持ち上げ方・運び方を考えなくてはいけないでしょう。

先週も「自分のためにつくる像」を問題にしました(4節)。目的というものが重要です。今日の箇所も実は目的が明記されています。「みだりに」と副詞風に訳すことも可能ですが、しかし原文は前置詞+冠詞+名詞という固い表現です。「件の虚偽/空虚のため」ないしは「虚偽/空虚目的全般のため」という意味です。これが悪い目的例なのです。

ここには具体的な場面が想定されています。おそらく裁判の場面です。たとえば、23章1節の「根拠のない」と訳されている単語は、この「虚偽/空虚」という単語と同じです。法廷での言葉が想定されています。だから、レビ記19章12節の「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」が、第三戒の内容に重なります。古代の裁判において、神の名で証言していたことに由来するのでしょう。

第三戒は、第九戒「隣人に関して偽証してはならない」(16節)と、かなり重なり共鳴し合っています。第二戒と第七戒が共鳴しているのと同じです。予告的に言えば、第八戒と第十戒も共鳴し合っています。十の言葉は、個別に切り離されるものではなく、重なり合う全体で読まれなくてはいけません。現代人の合理的な分類分けを持ち込むべきではないのです。第九戒を手がかりに考えるならば、「偽証などの隣人を貶めるという目的でなければ(つまり虚偽の目的のためでなければ)、神の名前を持ち出すことは大丈夫である」とも解釈できます。いわゆる反対解釈です。

だから、「イエスさまのお名前を通して」祈ること、「三位一体の神の名前の中へと/名前のために(前置詞エイス)」沈められること(バプテスマ)は、悪いことではありません。これらの行いの目的が虚偽/空虚なものではないからです。イエスの名を通して祈る時に、わたしたちは祈りと願いをイエスが神のもとへと持ち運ばれると信じています。わたしたちが持ち運んでいないので、この方向性は良いことです。また、バプテスマの目的は三位一体の交わりの中へと入ることであり、互いに尊重し合う人々の交わりに入ることなのですから、目的として良いことです。このような積極的な意味で、ナザレのイエスの名を使うことは勧められています。

さて裁判での偽証をしないようにという規範は、信仰共同体の中で独自の展開を見せました。それは誓願に関する定めです(民数記30章3節、申命記23章22-24節、マタイ5章33節)。まとめて言えば「神の名前にかけて誓ったことは必ず実行するように」という定めです。神の名前を使うことがはばかられるようになってからは、様々なものにかけて誓いが行われていたようです。

新約聖書の時代には、たとえば、「天」「地」「エルサレム」「頭」などにかけて誓うことがあったようです(マタイ5章34-36節)。この人々の習慣や社会の状況を、イエスは批判をしました。イエスは、旧約聖書を再解釈した「第二のモーセ」です。マタイ福音書5章17節以下には、イエスの再解釈が掲載されています。十戒の部分も取り上げられている場合があるので、その都度紹介していきます。第三戒はマタイ5章33-37節に取り上げられ、イエスなりの再解釈が示されています。

神の名前を避けたところで同じ問題が残っています。また、自分で決めた誓いをそのまま行ったところで、真の問題は解決されません。その問題とは、大いなる方の前でどのように振舞うかということです。神の前に生きるときの姿勢をイエスは問います。虚偽/空虚な目的だけが問われているのではありません。自分を超える存在を持ち上げ・持ち運びができると思い上がる姿勢が問題です。天や地にかけて誓うことも、思い上がりです。また、自分の頭という思い通りにならないものにかけて誓うことも、思い上がりです。実行できても、いや正に実行できるときにこそ、思い上がりが増長されます。

だからイエスは、神の前では「はい」か「いいえ」しか言葉がないはずだと語りました(マタイ5章37節)。自分のいのちを創った方の前で、その方に「隣のあの人のように創られたかったのか」と問われたら、「いいえ」としか言えないでしょう。自分のいのちを救った方の前で、その方に「もう一度お前を背負ってもいいか」と問われたら、「はい」としか言えないでしょう。神が求めているのは、「神さま、誓ってもっと良い人になります。今日から、これこれのことをしません。これこれのことをします」という決断や、有言実行の態度ではありません。そうではなく、自分の小ささを思い知る態度です。

名前を持つ神と、名前を持つ自分とが差し向かいになる、その関係を信じることが信仰を持つということです。それは「己の小ささを知ること」や、そしてその裏返しの言い方ですが、「神の大きさを知ること」と、分かちがたく結ばれています。そうして初めてわたしたちは、信実な関係を結ぶことができます。虚偽/空虚の反対語は何でしょうか。「信頼に値する誠実さ」です。これこそお互いの名前を親しく呼び合う関係です。主に名前を呼びかけられて集う礼拝、主の名を呼ぶ礼拝、この生き方に永遠のいのちがあります。

さて、十戒は「具体的な罰則が記されていない法文」と呼ばれます。およそ法律文には条件がつくものです。「このような場合に、次のような効果が起こる」というように、要件と効果が必ず記されます。十戒には要件と効果がありません。だから「十戒は法律ではないのではないか」「禁止命令ではないのではないか」という問い立ては正当です。間をとって「断言法(言いっぱなし)」という法律分野を想定する学者もいます。わたしたちの採る「~するはずがない」という解釈は、十戒は法律ではないという理解です。十戒は神の述懐です。

罰則がないはずの十戒の中で例外的に「罰」が書かれているのが、5節後半と7節後半です。ここで前回と合わせて、神の下す罰について考えてみましょう。無条件の赦しという神の愛を信じているがゆえに、神の罰が問題となります。報復は赦しと矛盾してはいないかという問題設定です。

5節の「罪」と訳されているアヴォンという単語は、罰も罪も含む意味であり、むしろ「罰」が辞書の第一の意味です。たとえば創世記4章13節のカインの言葉は、「罪も罰も含む」と考える方がしっくりきます。殺人の罪を犯したカインの罰は地上をさまようことであり、カインは自らの殺人の罪の深さにも嘆き(被害者の血が大地から叫ぶ)、さらに罰の重さにも嘆いたのでした(担いきれない)。彼は、報復で殺されることもさまようという罰に含まれると考えていたからです。

罪と罰は、お互いがお互いを内側に含みます。刑罰は人権侵害という罪を受刑者に犯します。罰は罪を含んでいます。そして罪もまた罰を含みます。自分のために像をつくり隣人を支配する罪や、虚偽のために神の名を持ち運ぶ罪は、その生き方が罰となっています。神と隣人に誠実ではない生き方を選ぶことは、自由ではない道・充実していない道・円満ではない道・永遠の輝きを持たない道を選んでいるのです。人は自分の選んだ道によって転落していくことがあります。だから、罪の生き方が罰そのものです。

神は無条件に赦す愛をもっています。罪を犯す自由をも(しぶしぶとでしょうけれども)認めています。虚偽目的で神の名を悪用する罪も見抜きながらも指摘はしないでしょう。その方法によって神はすべての罪を罰しています。7節後半「罰せずにはおかない」の別訳は、「罪なしとはしない」(関根正雄訳)であり、このあたりの微妙な事情を汲んでいます(ギリシャ語訳は「清くしないだろう」)。神は人間の罪をゆるしつつ裁いています。

ゆるしつつ裁く神の前で、つまりまったく自由に生きることが保証されている中で、この自由をいただいてどう生きるべきでしょうか。第三戒は、互いに名前を呼び合う、信実な関係を結んで生きることを勧めています。そしてその信実な関係づくりという目的のために、イエスの名前を用いることを勧めています。具体的には、大いなる方に・イエスの名前を通して・他者のために祈ることです。名前を上げて祈り、名も知らない誰かのために祈るのです。交わりがかたちづくられるように祈り、その通り他人を尊重して生きることです。不十分でもかまいません。罰はないのですから。謙虚に粘り強く、神の呼びかけに素直に応えて生きましょう。それが今日の小さな生き方の提案です。