神の国に入る ルカによる福音書18章18-30節 2018年3月25日(棕櫚の主日)礼拝説教

棕櫚の主日です。本日から受難週に入ります。イエス・キリストが十字架の道を歩まれた「エルサレムでの最後の一週間」を記念する季節です。329日が「洗足の木曜日」、330日が「受難日」、そして41日来週の主日が「イースター(復活祭)」です。エルサレムへ向かうイエスに従うということがどういうことなのか、特に、イエスの死後に使徒となったパウロという人の歩みにも着目して、考えていきたいと思います。鍵となる言葉は、「神の国に入る(エイスポレウオマイ)」(24節)です。キリストは十字架の苦難を通して復活の永遠の命を与えられました。十字架は神の国に入って行った狭い道です。またキリストは全世界の死を代表して殺され、永遠の命を全世界に配りました。十字架は「ユダヤ人だけの救い」から神の国を広げる道でもありました。

ルカ福音書181534節は、マルコ福音書101334節を写したものです。ほんの少しの違いしかないのですが、なるべく違いのある箇所を拾っていきます。またルカ福音書独自の文脈を重視します。それによってルカの教会の強調点が浮かび上がるからです。

ルカはイエスに尋ねた人物を「議員」(アルコン)とします。この人はファリサイ派の人という位置づけでしょう(141節参照)。これによって18節の議員は、ファリサイ派と徴税人の譬え話(914節)に登場するファリサイ派と重なり合います。この譬え話はルカ福音書にしかありません。しかも本日の箇所と近い文脈に配置されています。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者・・・徴税人のような者でもない」(11節)と祈るファリサイ派の男性。この祈りの言葉は、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」を、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」(21節)という議員の言葉と重なります。どちらも十戒に関わる内容だからです。

自覚なく高ぶる彼に向かってイエスは言います。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている者をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。・・・それから、わたしに従いなさい」(22節)。この命令は徴税人ザアカイの物語(19110節)とも響き合っています。これもルカ福音書にしかない物語です。しかも、これまた非常に近い文脈です。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」(同8節)と徴税人ザアカイは言います。譬え話において徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(1813節)と祈りました。この願いは、「罪深い男のところに行って宿をとった」(197節)イエス・キリストによって、聞かれました。こうして、ザアカイは議員にできなかったことをしました。貧しい人々に財産を施したのです。

同じ金持ちです。なぜ一方はでき、なぜ一方はできなかったのでしょうか。ルカによれば、一方がこの世の名誉を受け取っているファリサイ派の議員であり、他方が世間から蔑まれている徴税人だったからです。自覚もなく高ぶっているか、それとも低みに立って見直しているかの違いです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(1814節)。「今日、救いがこの家を訪れた」(199節)。

低みに立って見直す人、悔い改める人は高められます。高められるということは、尊重されるということです。神に愛されているということを実感することです。乳飲み子が周りの愛情を素直に受け入れているように、神から愛されていることを「アーメン」と受け取ると、わたしたちは救われます。また、高められるということは、名誉を与えられるということです。「神の子」という称号を、イエスと共にいただくことです。人生のどん底にあっても、神の右に座ることができる。尊厳が保たれることを救いと呼びます。

本日の箇所は、救いをいくつかの言い方で呼び変えています。「永遠の命を受け継ぐ」(18節)、「イエスに従う」(2228節)、「神の国に入る」(2425節)、「永遠の命を受ける」(30節)です。これらはすべて「救われる」(26節)という意味です。旧約聖書以来、救いは相続するものです。「約束の地」が神から与えられ、そこで子孫が繁栄することを、イスラエルは「救い」と表現していました。だから永遠の命も神の国も相続するものだと信じています。

この言い方は少し消極的です。また、自動的に相続するという権利にあぐらをかいてしまうこともありえます。ユダヤ人がパレスチナ人を虐殺する根拠にもなりうる危険な考え方です。そこでイエスはもっと積極的・能動的に「わたしに従いなさい。共に神の国に入って行こう」と呼びかけます。失業者たちが集団で旅をする。それがイエスの神の国運動です。ここに新しい出エジプトがあります。「家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、だれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(2930節)。肉親ではなくても、尊重すべき父母がイエスの周りにいます。それは「神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(821節)。

そして一緒に旅をしなくても旅人集団を支援するというかたちで神の国に入ることができます。エリコのザアカイ、カファルナウムのペトロの姑、ベタニヤのマルタ・マリア・ラザロ。こういった人々は定住者です。そしてイエスたちを迎え、衣食住の補給をしました。こちらも困難な仕え方です。日常生活を続けながらイエスに仕えることは二重生活です。金持ちが神の国に入るのは、この意味で困難です。しかし不可能なことではありません。「人間のところでは不可能でも、神のところでは可能」(27節、直訳)なのです。

教会はこのイエスと旅をする集団と、旅集団を支える定住者たちを継承する群れです。この両者合わせて「神の国」「神のところ」です。共に日常生活をしながら、毎週の礼拝生活を重ね、地上の旅を一緒にしていく中に、救いがあります。この人々は、唯一の良い方であるイエスに従い、イエスだけを拝みます(19節)。イエスを見上げて自分は低みに立ちます。そして互いに仕え合い、高め合います。すると自然に「寄付の精神」が生まれ、教会の外へと向かっていきます。代々の教会は、自分たちが貧しくても他者のために献金をしていきました。「神のところでは可能」です。教会において、ファリサイ派の議員のような大金持ちも施すことができるようになります。この生き方に永遠の命があふれています。

キリストに従う人生をまっとうした元ファリサイ派のパウロという人物を紹介します。なぜなら、ここでルカ福音書だけが「神の国に入って行く(エイスポレウオマイ)」という動詞を使っているからです(24節のみ)。この単語は、新約聖書に18回使われていますが、半分の9回がルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)に集中しています(ヨハネ福音書には皆無)。そして、パウロという人との関わりで3回も使われています。ルカは友人であるパウロの歩みと、十字架のキリストに従う歩みを重ね合わせているように思えます。

使徒言行録83節には、「サウロ(パウロのヘブライ語名)は家から家へと押し入って(エイスポレウオマイ)教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。パウロはキリスト信徒になる前は、ファリサイ派の権力を使って神の国である教会を暴力的に襲う迫害者でした(1616節参照)。「家」とは、当時の教会のことです。イエスを支援した定住者たちの家が教会になっていったのでしょう。パウロは、教会から教会へと、ひどい仕方で神の国に入って行ったのでした。その中に徴税人ザアカイの家もあったかもしれません。ファリサイ派と徴税人は、ここでも対峙します。

しかし、復活のキリストに出会ったことにより、パウロは生き方が180度変わりました。低みに立って見直し、ファリサイ派であることを止め、バプテスマを受けてキリスト者となったのです。もちろん当初は教会の者たちはパウロの悔い改めを信じられず、彼を信用しませんでした。しかし教会は、「神のところ」です。奇跡が起こる交わり・場です(同91019節)。

さらにバルナバという寄付の精神に満ちた人格者が(同43637節)パウロをエルサレム教会の指導者たちに引き合わせ歴史的な和解をさせます。「それでサウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し(エイスポレウオマイ)、主の名によって恐れずに教えるようになった」(同928節)。パウロは巡回して神の国を宣教し、神の国である教会を各地で建て上げる手伝いをします。イエス一行のように放浪の旅をするのです。それはキリストに従い、神の国に入って行く行為でもありました。永遠の命が押し出す驚くべき活動力で、パウロは誰よりも広い範囲で宣教活動をしました。

パウロは神の国を押し広げもしました。非ユダヤ人に対して伝道をしたからです。イエスの神の国運動にはなかった発想です。自分の時代の使命を引き受けながら、パウロなりにキリストに従うということを解釈したのでしょう。もしもキリストならばどのように行動するだろうかと、常にパウロは自分に問うていたのだと思います。復活のイエスが聖霊によって彼に働きかけていました。

ところがこのような宣教活動は、多くの敵をつくることにもなりました。十字架のイエスに従うことは、同じような迫害という十字架を背負うことにもなります。イエスと同様パウロはエルサレムで逮捕され、裁判にかけられ、最後にローマに移送され、そこで処刑されます。ローマ帝国の首都ローマでの幽閉は二年間だったと考えられます。使徒言行録の結びは次のようにあります。「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する(エイスポレウオマイ)者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(同283031節)。

ゆるやかな軟禁状態だったのでしょう。ローマにおける被告パウロは自分の借家を「家の教会」(神の国・神のところ)として、そこに入って来る人を歓迎し、宣教活動をしました。かつて「家の教会」に押し入り、キリスト者を牢に入れていた者が、神の国を宣べ伝える者に変えられました。神の国のために牢に入れられましたが、そこを彼は神の国としました。そのような生き方の帰結として殺されたのです。斬首刑と伝えられます。

ルカは悔い改めとは何か、神の国に入って行く生き方と死に方を、パウロという人を通して読者に明らかにしています。復活のキリストに出会った者は誰でも必ず、自分の十字架を背負って、十字架のイエスに従って歩くということです。神の愛を素直に受け入れて、神の国にただで入れさせてもらった人は必然的に、自分の責任の範囲で神の国を押し広げようとするものです。入れさせてもらった神の国に、さらに深く入って行こうとするし、分け行って押し広げた空間に他者を招き入れるものです。自己中心の塊、罪人の頭が、利他的な生き方をするようになるのです。その根底には十字架のイエス・キリストによる救いを喜ぶことがありました(ローマの信徒への手紙518節)。

今日の小さな生き方の提案は、共に神の国に入って行くことです。教会は「神のところ」です。そこで人生のどん底から救われる場であり、絶えず救いにあずかる努力がなされる場であり、寄付の精神が養われる場です。キリストの十字架という利他的な行為がわたしたちの血となり肉となるように祈りましょう。