神の国は来ている ルカによる福音書11章14-23節 2017年7月9日礼拝説教

今日の物語には「解釈の十字架」があります。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し・・・」(23節)の部分です。この排他的な言葉は明確に、「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(9章50節)という寛容な言葉と矛盾しています。両者の間の緊張関係をどう読むかが大きな主題です。特に7月1日に発せられた内閣総理大臣の「こんな人たちにわたしたちは負けるわけにはいかない」という発言に、イエスの発言が似ているように見えるので、わたしたちはこの言葉の解釈に取り組まなくてはいけません。

大きな主題に入る前に、二つ小さな現代に通じる教えを汲み取ります。一つは「口を利けなくする悪霊」(14節)であり、二つ目は「強い者ともっと強い者の例え話」(21-22節)です。

悪霊祓いは今までもイエスの主要活動の一つでした(4章31-37節、同41節、6章18節、7章21節、8章2節、同26-39節、9章37-42節、10章17節)。これらを読むと、当時の人がさまざまな病気や障害を悪霊の仕業であると判断していたことが分かります。今回登場している人は、悪霊によって話すことができない人です。悪霊がその人に群衆の間で話すことをさせないという現象は、示唆に富みます。

全体主義国家において権力者に楯突くことは形式的にも許されません。同調圧力の強い文化において、表現の自由は形式的に認められていても実質的には制限されています。ある人が意見を公言できない事態は「口を利けなくする悪霊」の働きに例えられます。イエスによる解放・悪霊祓いは、「わたしはこう思う」ということが言えなかった人を、自分の意見を公に述べる人へと変えます。表現の自由の行使と保障は、神の国到来のしるしです(20節)。

二つ目の現代への教えは、「強い人ともっと強い人の例え話」にあります(21-22節)。この例え話はルカ福音書にしか無い特徴的なものです。前後の文脈とも全く関係ないので個別に解釈しても良い部分です。

現代の軍拡競争や、軍事抑止力に対する批判として読むことができます。武装して自分の家を守ることは、個別的自衛権を行使している国家に似ています(21節)。それぞれの国は、「隣国よりも武装しなくては自分の家を守ることはできない」という考えに導かれがちです。だから、「どんなに備えをしても、もっと強い人がいたら元も子もないでしょう」という結論は、強い皮肉です(22節)。わたしたちはアメリカに守ってもらっているから大丈夫だと考えていますが、アメリカが襲ってくる場合や、アメリカより強い者が出た場合について考えていません。結局軍事的脅威は兵器産業を儲けさせるための宣伝ではないでしょうか。わたしたちはもっと有効な友好外交をした方が良いでしょう。神の国が到来すれば、強いことを競い合うことはなくなります。国境はなくなり、人々は仕え合うのです。

本題に入ります。「味方しない者は敵である」という排他的な言葉をどのように理解すれば良いのでしょうか。まず、「敵でない者は味方である」(9章50節)との比較をしてみましょう。するといくつかの違いが浮かび上がります。

第一の違いは、聞き手の違いです。寛容の教えは排他的な弟子たち(特にヨハネ)に向けられています(9章49節)。それは弟子に教え諭す場面です。それに対して排他的な言葉は「群衆の中の一部」に向けられています(14-15節)。マルコ福音書およびマタイ福音書の並行箇所を見ると、その人々は「エルサレムから下って来た律法学者」(マルコ3章22節)、「ファリサイ派の人々」(マタイ12章24節)です。排他的な言葉は論敵との論争の場面で発せられています。

第二の違いは、話し合いの文脈の違いです。寛容の教えは、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」という狭小なヨハネへの応えです。善い行いをやめさせようとしているヨハネに向かって、「もっと心を大きくしなさい」と諭しているという文脈です。非常に簡潔な問答です。

それに対して、排他的な言葉は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という論敵の難癖に向かって言われた言葉です。また、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」ことに対する応答です(16節)。排他的な言葉には、長い前置きの説明がついています(17-20節)。この理屈っぽい前置きの説明が、イエスが何に対して厳しい態度を取るのかを示しています。福音書の全般に寛容の教えを説くイエスですが、不寛容な場合もあるのです。どういう場合にイエスは厳しいのでしょうか。細かくイエスの発言内容について説明をしていきます(17-20節、23節)。

発言の全体を通してイエスは、自分がメシアであることを証明する「天からのしるし」(雷などを自在に降すこと等)の必要性を拒否しています(29節も参照)。そのような証明書は要りません。ただ、悪霊が追い出されたという事実だけで十分です。それを見て「メシアが目の前にいる」「神の国が来た」と喜べるかどうかが問われています。もし、天を見上げるなら、悪霊祓いの度に「サタンが稲妻のように天から落ちるのを」見るべきでしょう(10章18節)。誰にも見えない現象を、主観的にイエスだけが見ていました。ここには古代人のユーモラスなロマンが入っています。

「イエスを試そうとして」(16節)とあります。この「試す」は「誘惑する」という言葉です(4章2節と同語)。悪魔がイエスを誘惑して、「支配欲を持つように、自分にひれ伏せ」と試したことを思い起こさせます。困っている人々に仕えることであったとしても、支配の装置にもなります。自分の言いなりになる人を増やすために、人々を癒すのならば本末転倒です。だからイエスは、人を試す言葉、誘惑する言葉を排他的に拒否します。「退け、サタン」。

次にイエスは、「非論理的な誹謗中傷」に対して不寛容です。ただしイエス自身は、非論理的・感情的・突発的・暴力的な誹謗中傷をする者に対しても、ユーモアも交えながら論理的に諄々と説得をしていきます。イエスはおそらく我が国の国会の野次にも反対することでしょう。

「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)という難癖は、およそ論理的ではありません。一理も無いものです。悪霊の頭がなぜ手下である悪霊に敵対することがあるでしょうか。極端に例えれば、「それは家と家が重なり合うぐらいありえない現象だ」とイエスは言います(17節)。他のすべての人間の社会と同じように、サタン(悪魔)の王国もまた決して意図的に内輪もめをしません(18節)。悪霊勢力が縮小するようなことを、リーダーであるベルゼブルもサタンも、わざとするわけがないのです。なぜなら、サタンはとても狡賢いと考えられていたからです(創世記3章、ヨブ記1章)。

イエスは論理的に破綻している論敵には寛容ではありません。このことは現代の排他的・偏狭な政治指導者たちと、イエスとの大きな違いです。米国、日本、オーストリア、フランス、オランダなど、排他的な国家主義・民族主義を声高に叫ぶ政治指導者たちが勢力を拡大しています。この人たちの発言は論理的に飛躍があり、破綻しています。「イスラム教徒の入国禁止」は、「すべてのイスラム教徒が暗殺者である」ということが証明されなくては、およそ不可能な政策です。ここに論理の飛躍があります。結果として暗殺者ではないイスラム教徒に対して不当であり、イスラム教徒ではない暗殺者に対して監視が甘くなってしまいます。また、暗殺者の認定や、被疑者の人権や、刑罰の相当程度など詰めなくてはいけない論点を省いているという問題もあります。

Post Truth(事実を軽視する態度)の時代と言われます。政府官僚の答弁にならない強弁を聞いていると、そしてそれで逃げ切られてしまう実態を見るにつけ、やはり論理的な討論の訓練不足を感じます。事実に基づく論理を大切にしない者は、真の共同体を形成していません。地球共同体にとって破滅的な非論理性・短絡にイエスは不寛容です。神の国は事実と論理を大切にします。

さらにイエスは、対話相手が「隣人の喜びを喜ばない態度」を取る場合にも、厳しく臨みます。口が利けなくて困っていた人が、話すことができるようになった幸せを喜ばない狭小な態度が問題です。自分の気に食わない人の「功績」であれば、喜ばしい結果を喜ばない。さらには、あえて屁理屈を述べて雰囲気を悪くさせるという小さい心は、いかがなものでしょうか。イエスはこのような意地悪には厳しい態度で対峙します。

イエスは律法学者・ファリサイ派の人々も悪霊祓いをしていることを知っています(19節)。そして彼らによる悪霊祓いも善行であると認めています。しかし彼らとは全く反対に、彼らが問題にしたことをイエスは問題にしません。つまり「ファリサイ派の悪霊祓いならば、正統性がない」などと言いません。公正な態度です。「ファリサイ派の名前による」悪霊祓いが神の働きによるのならば、「イエスの名前による」悪霊祓いも神の働きによると考えなければなりません。木は実によって知られます。同じように悪霊が結果として追い出されるならば、過程として「神の指」が関わっているのです(20節)。

「神の指」は奇跡を行う神の力の象徴です(出エジプト記8章15節、申命記9章10節、詩編8篇4節)。神の指は実際に見えるものではなく、神の力を表す古代の表現です。驚くべき結果を見て、人々は自然と「神の指が働いた」と喜びの声を上げるということです。この素直な喜びに共感しない意地悪、不公平な態度はいけないのです。

神の国は「共に喜び・共に泣く共同体」です。この世界で不条理な苦しみに葛藤している一人一人に共感し、共にしつこく祈り続ける集団です。そして、少しでも祈りが聞かれ、たった一人の課題が、ほんの少し解決したことに共感し、大げさに全員で喜ぶ集団です。この神の国の有り様に対して冷笑や嘲笑や非難を浴びせかける、不寛容な者たちにまで寛容である必要はありません。

イエスは神の国の到来と実現を確信しています。自分とその周りに神の国が今現実に実現し、自分こそ来るべきメシアであると考えています(7章18-23節)。神の国には憲法があり、独自のルールが通用している任意団体です。そのルールは共感と論理性です。compassionとlogicを基礎にし、その二つを持ち合わせた寛容です。イエスの周りには寛容な輪があります。しかし、困っている隣人に共感しない、非論理的な人々に対しては、不寛容となって良いのです。不寛容な人々に対してまで寛容であることは、正義を損なうからです。正義が欠けている愛は、真の愛とは言えません。その人々に対しては「悔い改めなさい。神の国が来ているのだから」と呼びかけなくてはなりません。だから、イエスの一見排他的な言葉は、「あなた自身の罪を知り、罪を悔い改めて、共に生きよう」という呼びかけでもあります。

今日の小さな生き方の提案は、冷静に事実を大切にすること、論理性を大切にすること、それと同時に熱い心・温かい気持ちを持つことです。この反対は、かっとなって突発的に根拠のない暴言・暴力を振るったり、強弁・詭弁を弄したりすることです。翻えり悔い改めて、論理性と共感を持ちましょう。