神の業がこの人に ヨハネによる福音書9章1-12節 2013年12月22日礼拝説教

待降節・アドベントの第四主日となりました。クリスマスの視点でヨハネ福音書を読むことを続けています。今日の箇所は、「因果応報」からの解放を教えています。何事も原因があって結果がある、「誰かが悪いことをすると、その人や関係者に災いが起こる」という考え方を、因果応報と呼びます。生まれつき目が見えないという「障害」は、本人の罪のせいや両親の罪のせいでもないとイエスが明言しています(3節)。これは因果応報の否定です。そしてクリスマスもまた因果応報からの解放を目指す出来事です。クリスマスがなぜめでたい出来事なのでしょうか。わたしたちは「クリスマスが因果応報という縛りからわたしたちを解放する神の業である、だからめでたいのだ」と言えます。

二千年前のユダヤでは病気や「障害」は宗教的に説明されていました。いわゆる「バチが当たった」という論法です。両親か本人が神に対して罪を犯したから、神が怒ってその人を呪い、不利益を与えたのだと信じられていました。迷信です。しかし古代のことですから、恐るべき力で人々を支配した迷信です。逆から言うと、良いことがあれば本人か関係者が善行を行った結果、神がその人を祝福したのだとも、当然信じられていました。

この考え方は二つの場合に問題を露わにします。一つは、善人に不幸が起こった場合、もう一つは悪人がこの世で繁栄している場合です。たとえば、今日登場している生まれつき目の見えない人と、その両親に何らの悪い行いがなかった場合、不条理の苦しみが人々から押し付けられます。「あなたたちは何か悪いことをしたから、神がこの人の目を見えなくさせた」という言葉が、全く悪いことをしていない人に寄せられるのです。原因と結果が一致していないという論理の破綻が問題です。また、神の名によって論理の破綻が取り繕われ、さらに「障害」者差別が強化されているのが問題です。

東方の占星術の学者たちはユダヤ人ではない外国人であるから汚らわしいとみなされていました。民族差別・国粋主義の問題ですが、因果応報が差別を強めていることが垣間見えます。羊飼いたちは安息日礼拝を守れないから汚らわしいとみなされていました。職業差別の問題ですが、因果応報が神の名によって強化されています。イエスもまた真の父親が分からない「非嫡出子」として生まれましたから、マリア・ヨセフ家に災いが起こると必ず、「あなたたちの結婚に問題があった」と言われていたことでしょう。

善人が迷信によって苦しむ一方で、悪人が迷信を利用してさらに繁栄することがあります。わたしたちは今までもユダヤ人権力者たちとイエスが対決してきたことを読んできました。その権力者たちは、なにせ古代のことですから、宗教家でもありました。政教一致していた古代ユダヤ社会のことです。政治指導者は宗教指導者でもあり、行政用の法律は聖書の中の法文でもあったのです。この因果応報という迷信はさまざまに悪用できます。たとえば、「あなたの病気にはこのような加持祈祷をしなさい、その際には神殿に献金をこれぐらい捧げなさい」とも言えます。その献金は神殿を運営していた宗教・政治指導者を潤すのです。また、皮膚病が隔離されるべき(宗教的に汚れている)病気かどうかを判定することは祭司と呼ばれる宗教家に権限が与えられていました。人々は権力におもねるために賄賂も贈るだろうし、権限を濫用して嫌いな人を隔離する判定をするような祭司もいたことでしょう。

こうして悪人が金持ちになり権力を奮い、さらに栄えるという事態が起こります。それが神の名による繁栄であるだけに、さらにたちが悪いのです。どんなに悪質な方法で金を巻き上げたとしても、「立派な宗教者であるから神の祝福をいただいたのだ」と権力者たちはうそぶくことができるでしょう。

因果応報という迷信に問題があり、その迷信を悪用する権力者たちの横暴がさらに問題です。イエスの言葉は当時にあって革命的な新しさを持っていました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したわけでもない」(3節)。この言葉によって、生まれつき目の見えない人とその両親は救われました。名誉が回復され個人の尊厳が取り戻されました。

わたしはこの物語はこの時点で終わっても何も問題ないと思います。この時点で「神の業」がこの人に現れていると考えるからです。神の業とはこの後に行われる目が見えるようになる奇跡のことなのでしょうか(6-7節)。そうではないのではないか。というのも、目が見えないという「障害」が無くなり、晴眼者/健常者になったということに力点を置いて、これこそ神の業だと採る解釈は、「障害」者差別を助長することがありえるからです。「障害」を不幸と考えるのは間違いです。不便がありうるけれども不幸ではありません。むしろ、「障害」を持つ人への偏見を持つ人や、「障害」を持つ人に不便をかけ、職に就かせない(物乞いに限定)健常者たちこそが不幸です。そしてもちろん、この目の見えない人は、イエスの奇跡の引き立て役として生まれたわけではありません。その人はその人のままで神の似姿であり高価で尊いのです。

思えばクリスマスも因果応報という縛りを打ち破る出来事でした。特定の原因に基づいて特定の結果が生じるのならば、神は人間を厳しく裁くべきです。人間の行いは昔から悪いからです。戦争や人権侵害がなかった日は地球上に一秒もありません。神は怒り人間を呪い、他の動物については寛大であっても、人間だけを滅ぼし尽くすべきです。

しかし神はまったく一方的に神の子を派遣するということをしたのです。赤ん坊のイエスが生まれる、これは恵みと真理に満ちた神の業です。神の業は、この人・イエスにおいて現れました。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」(親鸞)。原因とは逆の結果が起こる、これが神の業、一方的な救い、無条件の赦しです。イエスが、「わたしをお遣わしになった方の業」(4節)と呼んでいるのは、因果応報を破るという行為・行動です。3節までの言葉で十分にそのことを達成しているとわたしは考えます。

今日の小さな生き方の提案は、自分自身の中にある因果応報の総点検とそれらを棄てることです。「わたしが・・・だから、・・・が起こる」という傲慢/卑下、「あの人はいつも・・・だから、・・・になっても当然」という偏見、これらは追放されるべきものです。ましてや因果応報の考えに神の名を持ち出してはいけません。「教会に行かないと不幸が起こる」ということはありません。クリスマスの神は因果応報に立たない神です。

6-7節にあるイエスの「治療」行為についてはイエスのみがなしうる奇跡と考えて、それに倣う必要はありません。この翻訳では道端の泥をこねたように描かれていますが、イエスが特別に持っていた練り薬と解してください(田川訳)。そう考えれば、わたしたちにそのような秘薬はないのだから、イエスの真似をすることは不可能です。

因果応報から解放されると、さまざまな偏見も同時に取り払われていきます。隣人を見る目が変わってきます。8-9節で近所の人々が、目の見えなかった人を認識できないという逸話が描かれています。これは因果応報という迷信が、「個人」を埋没させてしまう社会の喩えです。「目が見えない人」=「座っている人」=「物乞いをしている人」という固定観念がある人々は、その人個人を認識できません。

では見えるようになった人はどうなのでしょうか。彼は「わたしがそうなのです(エゴー・エイミ)」と応えます(9節)。この言葉は登場するたびに何回も取り上げてきました。ヨハネ福音書の鍵語です。8:58にも出てきた「わたしはある」と、ギリシャ語では全く同じです(4:26「このわたしである」、6:20「わたしだ」、8:24・8:28「わたしはある」)。「わたしはある」は旧約聖書以来の神の名です(出3:14)。繰り返しですが、「わたしはある」という神の名は神の性質を示しています。それは自由です。どのような状況でも神は穏やかに毅然として自分の思うことを実現します。それが聖書の神です。神の自由という性質は因果応報という迷信とぶつかり合います。霊である神は人を自由にし、因果応報は人を不自由にするからです。

目が見えるようになった人は目が見えたから救われたのではありません。イエスの因果応報を打ち破る言葉によって救われたのです。仮に彼は見えないままであっても、物乞いをせずに歩いている彼を見て近所の人はあの人は誰だろうと思ったことでしょう。そして彼は皆の前で穏やかではあっても毅然として「わたしはある」と言い切ったでしょう。神の恵みの業によって一方的に救われ解放される人は、神の自由をいただいて自分も「わたしはある」に成っていくのです。神の名による因果応報で苦しめられていた個人が、イエスの言葉によって尊厳を取り戻し、神の名を名乗ることで個人として立ち、自分の足で神と共に歩くようになるのです。

こうして因果応報に支配されていた町全体が解放されていきます。近所の人は初めて正しく、「この人」を認めます。生まれつき目が見えないという事柄の原因は、決して本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもないと知ります。同じ人間同士であることを確認します。そして人々は、イエスに会いたくなります(10-12節)。3章でニコデモという人がイエスに会いたくなったように、4章でサマリア人がイエスに宿泊を要請したように、王の役人がイエスに会いに来たように、「わたしはある」という個人の尊厳と自由を取り戻したい人々は、イエスに会いたくなるものなのです。

クリスマス物語はイエスに会いたくなった人たちの物語です。東方の占星術の学者たち、羊飼いたちなど、神の子イエスに会いたいと思った人が登場人物です。そしてその人たちは捧げ物をし、礼拝をし、賛美を歌って帰っていきます。わたしはこの人たちはみな「わたしはある」という個人になりたかったのだろうと思っています。人間扱いされないで、この世の中で小さくされていた者たちばかりだからです。因果応報という迷信が、その人たちを人間扱いしない方向に悪用されていました。

今日クリスマス礼拝にお越しになった方々は、いろいろな動機でここにおいでになったことと思います。「穏やかで毅然とした生き方はどのようにしてできるのだろう」「豊かな心になりたい」「聖書に触れてみたい」「教会でなら自分は人間扱いされるのではないか」「クリスマスの雰囲気を楽しみたい」などなど。勝手ながらわたしはそれを「わたしはある」という生き方の模索・探求と呼びます。礼拝のことを神との出会いとも表現します。復活したイエスの霊がここにおられ、礼拝に集う人はその霊である神と出会っていると考えます。我田引水なこの論法に乗っていただければ、ここにいるすべての人はイエスに出会いたくて参加しているとも考えられます。

共に「わたしはある」という個人になっていきましょう。そして互いに個人の尊厳を尊重し合いましょう。個人の尊厳を尊重することに反対するあらゆる迷信を棄てましょう。自由になりましょう。相手の自由を守りましょう。キリストがこの自由を与えるためにこの世に来られた神の子であると信じましょう。神の業は今、この交わりの中に現れています。