神の面前 出エジプト記20章3節 2015年11月15日礼拝説教

今日の箇所は、いわゆる「第一戒」と分類される言葉です。ただし、ルーテル派とカトリックは、3-6節をまとめて「第一戒」としています。その立場は、3節の「他の神々」を4節以下の偶像崇拝における「像」と同一視しています。狭く限定しているわけです。見える像や触れる像以外の神がありうるので、一つにまとめない方が考えやすいでしょう。わたしたちは、なるべく丁寧に読み解くために、3節のみを独立に取り上げます。ちなみにルター派とカトリックは、17節を前後半に二分して、それぞれ第九戒・第十戒とします。

さて「第一戒」は、厳格なる唯一神教の根拠聖句として有名です。唯一神教というのは、神が世界にひとりしかいないという信仰内容をもった宗教のことで、一般にはユダヤ教・キリスト教・イスラム教を典型例とします。唯一神教という単語は「唯一絶対の神を信じるゆえに排他的文化を生じる」という誤解を混ぜて、日本で紹介されています。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の文化圏に対する、この類の偏見が、なぜか日本ではもてはやされます。

その原因には日本社会の持つ民族主義・自国(ヤマト)中心主義があるでしょう。「唯一神教文化圏は排他的である」と排他的に断ずる人々が、同じ儒教文化圏・仏教文化圏・先祖崇拝文化圏を持つ中国・韓国・沖縄・アイヌの人々に対しても、しばしば排他的であるからです。もちろん日本の伝統にもすばらしいものがあるでしょう。ただし、その文化固有のすばらしさというものは、「他の文化を貶めた上で得られるもの」ではないはずです。たとえば、「日本には四季があるからすばらしい」という言い方は、国内外の「いわゆる四季でくくれない気象条件の地域に住む人への優越感」を前提にしていないでしょうか。

そもそもこの聖句が本当に排他的なのかの吟味が必要です。そしてその聖句を今わたしたちがどのように理解するかが大切です。聖書に一体何が書いてあるのか、そしてあなたはそれをどのように読み、今ここでどのように生きるのかが、常に問われています。

今回は短い箇所でもあるので、直訳風の私訳を映写機画面にも打ち込みましたので掲げておきます。「あなたにとって、わたしの顔に接して、ほかの神々があるはずがない」(出エジプト記20章3節)。新共同訳聖書が「わたしをおいて」と翻訳している箇所は、「わたしの顔に接して」という表現(岩波訳「わたしの面前」)です。ここが肝です。神は具体的な顔を持つのです。

多くの聖書翻訳は、「わたし以外に」という訳を採ります。この翻訳の源流は最古の翻訳であるギリシャ語訳に由来します。有力な翻訳ですが、しかしそれは強い意訳です。「顔に接して」を「以外に」という意味で用いる例は、その他の聖句にもありません。おそらくユダヤ教・キリスト教が翻訳の時点で確立させていた「ただ一つの神しか存在しない」、それゆえに「他の神々が存在しない」という教理に引っ張られた翻訳です。

他方「わたしに敵対して」という訳も少数あります。これも根拠薄弱です。なぜなら「顔に接して」を「敵対して」という意味で用いる聖句がほとんどないからです。一つの例とは創世記16章12節です。しかしこの箇所の「敵対して」という翻訳は、イスラム教徒の先祖とされるイシュマエルへの敵対心に由来する意訳でしょう。翻訳は、その時々の歴史的事情に左右されるものです。わたしたちも現代という歴史的事情に大きく左右されて翻訳し解釈をほどこすのですから、一概に悪いとは言えません。翻訳とはそういうものなのです。

こういうわけですから、新共同訳の「わたしをおいて」は、よく工夫された苦心の名訳と言えます(申命記21章16節「差し置いて」も)。中立的だからです。他の神々に対する優越・敵対を露骨に見せない姿勢が良い。神と一対一で面と向き合う時、その他のものはどうでもよくなるということが元々の意味です。ただし「顔」という単語が消えてしまったのは残念なことです。

イスラエルの民の一人ひとりの目の前には、自分たちの救い主がいます。エジプトの国・奴隷の家から、自分たちを解放し自由にしてくれた神がいます。その神は顔を持つ方です。神の顔はどのようなイメージでしょうか。優しくて頼りになる母のような顔ではないでしょうか。養母・養子の関係でも構いません。あるいは養護施設の先生の顔かもしれません。とにかく自分にとって、最も頼りになる優しい人の顔と、神の顔はそっくりなはずです。

救い主の前に立ち、救い主と顔と顔を合わせるとき、他の神々はどうでもよくなるのです。他の神々は当時もたくさん存在しました。他の神々を真剣に信じる他の人々もたくさんいました。それらの信仰を否定する必要はありません。それぞれに思想・信条の自由があります。同じようにわたしたちにも自分の救い主を信じる自由があるのです。その自由は誰も奪えない自由です(ローマ8章35節)。バプテストが17世紀に発生した時から、大切にし続けてきた「心の自由」「良心の自由」「信教の自由」(憲法19条・20条)です。

旧約聖書の別の箇所を一箇所開きます。ミカ書4章3-5節(1453ページ)です。「第一戒」と共鳴し合っていることがわかると思います。そして、ここには平和とは何かということが描かれています。国家が戦争を放棄すること(3節)、各個人に対する「人間の安全保障」が守られること(4節)、そして思想信条の自由を守ることです(5節)。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む」ことは、大前提なのです。他の神々に対する他の人々の信仰は、否定も軽蔑もする必要はありません。良心の自由こそが一人ひとりに絶対的に保証される、その意味で「第一戒」を理解するべきでしょう。ここに現代的な意義があります。なぜかといえば、表現の自由と心の自由に対する制限が、現在の日本社会に吹き荒れているからです。ミカ書の示す平和が脅かされています。

戦時下に思想信条の自由がいちじるしく制限されることは、すべての国家に起こる現象です。アジア太平洋戦争の時にも、キリスト教の一部は弾圧されました。天皇を神と拝まなかったからです。彼ら彼女たちの原動力に「第一戒」があったのは間違いありません。政治権力と特定の宗教が結びつくと、国家宗教が生まれ、それ以外の宗教が弾圧されます。天皇を頂点とする国家神道です。驚くべき排他性で、権力に反対する団体を締め付けました。だから神の数ではなく、権力との癒着が問題なのです。国会議員らの靖国神社参拝が政教分離原則との関係で問題となるゆえんです。これはファラオを頂点とするエジプト国家と非常によく似た構図です。エジプトにも多くの神々がいましたが、現人神ファラオという政治権力と結びついているので、その他の信仰者(たとえばヘブライ人)を苦しめたのです。

戦時下の日本で大多数のキリスト者は、天皇も拝み、キリストも拝みました。礼拝の中で礼拝の冒頭に君が代を歌い宮城遥拝をしました。国家権力が怖かったからです。特高警察が監視する中の礼拝です。戦争に協力するような内容を語る説教でなくては身の危険があったわけです。

教会がミカ書に反して戦争に協力した罪は明らかですから反省しなくてはいけません。その一方で、どのようにすれば戦争協力・天皇崇拝をせずに済んだのかを吟味し、具体的な改善と予防の努力をしなくてはいけないでしょう。二つの方向性・選択肢がありうるように思います。

一つの選択肢は殉教を辞さないという方向です。「第一戒」を戒めとして厳しく自分に課して、どのような信仰への迫害があっても、毎週礼拝に通い続けキリストのみを拝むという姿勢を貫くことです。ダニエル書3章にあるような「殉教の神学」です。

信仰のゆえに殺される殉教を美化し褒め称える傾向は初代教会以来綿々と続いています。信仰に殉ずる行為は立派だなと素直に思います。ただしかし、わたしの疑念は殉教者にとって神の顔は、恐ろしく怖い顔なのではないかと思うのです。面と向かってわたしに従えという表情の「王なる神」です。

さらに言えば、「神のために命を捧げよ」という考え方と、「国家のために命を捧げよ」という考え方が似ていることが批判としてありえます。ヤスクニ思想・神風精神・自爆テロとどこが違うのでしょうか。自発的ではなく、力ある者から煽られて命を犠牲にするなら、同じ根っこを持つでしょう。誰かに犠牲を強いる思想が、フクシマ・オキナワから問い直されています。

わたしたちは第二の方向性・別の選択肢を考慮に入れなくてはいけません。それは多様性を重視する方向の解釈です。「第一戒」は、個々バラバラの一人ひとりの心の自由を保証している「人権宣言」と読み直すべきではないでしょうか。

イスラエルは奴隷の身から自由の身へと無条件に救われました。神の顔は優しい・頼もしい表情です。「友なる神」。その顔の前で、礼拝せずにおられない、賛美せずにおられない、祈らずにおられない。この自由を奪うことは許されない、あってはならないことなのです。それとまったく同様に、さまざまな人々にさまざまな救いの経験、信仰や礼拝の経験があるでしょう。

「民主主義って何だ」という問いが、この夏、良い意味で頭に残りました。一つの本質は、「民主主義は自分とは異なる思想信条を、それが暴力的なものでない限り、絶対的に保証するということで成り立つ」ということです。だから、わたしたちは少数意見であっても特に正反対の意見をこそ尊重しなくてはいけません。ここに戦前の思想信条や表現の自由への弾圧を繰り返さないための改善の鍵があります。

およそ自分の意見や考え方とは違う人々が弾圧されても、わたしたちはしばしば鈍感です。たとえばオウム真理教事件です。松本サリン事件・地下鉄サリン事件などの殺人罪を宗教団体が犯しました。暴力的である限りにおいて、犯罪として丁寧な裁判できちんと判断されなくてはいけません。

その一方で、犯罪性をもはや持っていない元オウム真理教信者の引越しにおいて、地方自治体が受け入れを拒否したり、信者の子どもたちが学校に入ることに嫌がらせがあったりするのはいかがでしょうか。これは行き過ぎです。信じ続ける自由は保証されるべきですし、市民社会が特定信仰の有無に従って他の人々と扱いを差別することはすべきではないからです。

今申し上げたことを、元オウム真理教信者をかばうために公に言うことはとても勇気が要ります。空気を読んでいない鈍感な発言だからです。しかし、不当な扱いを受けている人に対して敏感な発言です。だから、主の優しい顔を反映した発言です。不当にも奴隷とされていたイスラエルを、ただ恵みのみによって救い出した神の顔に接している人の発言です。

今日の小さな生き方の提案は、正反対の意見や異見をも大切にしましょうということです。特に妥協できない心の深い部分において。誰かがそれを侵害されていたら、仮にその誰かが自分の論敵であっても、かばいましょう。このかばい合いを社会の常識とするまで、自分の生活圏で実践していきましょう。それによってわたしたちは平和を足元から創りだすことができます。