神はその嘆きを聞き 出エジプト記2章16節-25節 2015年1月25日礼拝説教 

16-22節は先週の続きです(J)。そして23-25節は初めて登場するP集団の筆によるとされます。PとはPriest祭司の略です。神の名についてはエロヒームという単語を使いますが(出2章まで)、以前紹介したE集団とは異なる思想を持っています(出1:15-21)。系図や数字が好きだったり、秩序だっていることが好きだったり、祭儀に関心があったりという特徴がPにはあります。そして五書づくりを最初に思いつき、そして五書の枠組をつくったのがPと言われます。たとえば、創世記1章の冒頭部分や申命記34章の末尾部分がPによる枠組です。JやEを尊重しながらも、Pは後から割り込み、書き込むことができることになります。今日の箇所も正にそうです。

つまり、出エジプト記1:22から2:22において、Jは主という神が登場しないモーセ誕生・亡命物語を書きました。それに対する応答がPによってなされたのです。Jは神を登場させないことで、人間の自由というものを描きます。正義が揺らぐような書きぶりです。良いことも悪いことも放置されているからです。エジプト王のひどい政策にヘブライ人が翻弄されていることに、Jは何の評価も下さないのです。それで良いのかという問いが起こるのは当然です。神はどこにいるのか、地上における正義はどこにあるのか。

23-25節には、5回も「神elohim」という単語が登場します。新共同訳は2回省いていますが、「思い起こし(24節)」「御心に留め(25節)」というところにもくどいぐらいに主語として「神」が登場しています。これはJに対するPの応答です。人間同士の生臭いドラマが繰り広げられる時に、別の計画が進んでいきます。人間の物語だけで世界の歴史を読んではいけないということです。十字架と復活もまさにそのような救いの計画でした。神は救いのために人間の歴史に介入する方です。こうして聖書は立体的になっていきます。JEDPの共同制作が「神と神の民の物語(=聖書)」を豊かにしていきます。そのような大まかな見取り図をもって、今日の箇所を読んでみましょう。

エジプトから亡命したモーセは「ミディアンの地」(15節)に住むことになります。ミディアンとはシナイ半島東南部と対岸のアラビア半島西南部とを合わせた辺りです。実はミディアン人はイスラエル人と親戚です。同じアブラハムを先祖とするからです。創世記25:1-6(38頁)には、アブラハムの三人目の妻ケトラと七人の息子が登場します。そのうちの一人がミディアンと言い、ミディアン人の先祖となりました。イスラエルはアブラハムの一人目の妻サラの子孫です。サラの息子イサクの息子ヤコブ(別名イスラエル)がイスラエル人の先祖です。両者は親戚です。周辺外国人はみな親戚という考え方が聖書の民の常識です。ミディアンの祭司レウエル(18節)という名前は、「神の隣人/同胞/友」という意味です。信じ方は違うかもしれないけれど同じ神をいただく、先祖の同じ隣人同士という大らかさがあります。今日の中東情勢を考える際にも、そのような大らかな構えが必要でしょう。レウエルに「七人の娘」が居たということを言及することは、読者にケトラの「七人の息子」を思い出させようとする仕掛けです。

このモーセの結婚物語はイサクの結婚物語(創世記24章。ここもJの筆)をも思い出させようともしています。イサクがリベカと結婚する際に、アブラハムの家来がリベカから水をもらい、しかも家畜(ラクダ)にも彼女が水をあげたことが、結婚のきっかけとなったのでした。家畜に水を与える者が結婚をするという筋立てが同じです。リベカは親戚ではあるけれども外国人のイサクと結婚し、寄留者としての人生を始めます。モーセの歩みは、リベカの歩みをなぞるものなのです。このように女性の族長たちを再評価する聖書の読み方も必要です。

レウエル(別名エトロ)は羊飼いであり(出3:1)、彼の娘たちも羊飼いでした。ヘブライ語底本は「彼女たちが父の羊を飼っていた」という一文を省いていますが、死海写本の一部とギリシャ語訳は、その一文を異読として保存しています。ここにもまた羊飼いという専門職をもった女性がいることは見過ごせません。これは「助産師」を描くEに対するJの応答です。「ヘブライ人男性を救った職業を持つヘブライ人女性」という図式に対する裏返しとして、エジプト人/ヘブライ人男性であるモーセが職業を持つミディアン人女性を救い出します。「エジプト人男性が男性羊飼いたちからわたしたちを救い出した」(19節)とあるとおりです。こうして、どの人が良いかが曖昧になりわかりにくくなります。エジプト人ならだめ、男性ならだめという硬直化から、Jは解放します。ちなみにギリシャ語訳聖書は、助産師シフラ(1:15)とモーセの妻ツィポラ(21節)を同じ綴りで記します。両者の共通点(職業人)を、ギリシャ語訳をした人は見抜いていたのでしょう。

またJは、女性は親切にもてなすのが当然という「女らしさ」からも読者を解放しようとします。男性であるモーセが水を飲ませ(19節)、女性であるレウエルの娘たちは必要な接待すら忘れてしまうからです(20節)。親切にもてなしたリベカの物語もひっくり返していることが分かります。こうしてさまざまな価値観を流動化させ、先入観を打ち砕き、善と悪を混在・混乱させて、「この結末で良いのだろうか」という問いをJは読者に抱かせていきます。こうして、モーセはミディアン人と結婚しミディアンの地に住むこととなります。読者のもやもやはモーセの心中のもやもやと重なるように仕組まれています。

モーセという人物も「自分が何者か」という問いの前に自分の存在自体が流動化しています。彼はヘブライ人奴隷として赤ん坊時代を過ごし、エジプト人王子として青年時代を過ごし、そしてミディアン人として家庭を持ったのです。自分は何人であるのかモーセは混乱しています。息子の命名において、その戸惑いが明らかです。ゲルショムという名前は、「そこでは寄留者」という意味です(22節)。「自分は、どこにいても外国人なのだ」という感覚は、一生涯モーセから離れなかったように思えます。

しかし、この物語は一つの光を差し込ませています。ゲルショムという名前にヒントがあります。「そこでは寄留者」ということは、「ここ(=ミディアンの地)では寄留者ではない」とも考えられます。先週までの話を思い出しましょう。ヘブライ人からも、エジプト人からも歓迎されなかったということがモーセの身に起こったのでした。それに対して、ミディアン人からはモーセは大歓迎されています。レウエルから思いがけず大歓待を受けて、モーセは本当に嬉しかったのでしょう。「モーセはレウエルと共に住む/座る決意をした」(21節、直訳)というところに、モーセの喜びが表現されています。つまり、「わたしは異国で寄留者となった」(22節、私訳)という発言は、エジプトでの体験を語っている場合があるということです。その人が歓迎されている場所ならばどこであれ、その人の故郷となりうるのです。「鳥」という意味の名前を持つツィポラと結婚して、モーセはミディアンの地で自由にはばたく翼を得たのでした。

さてモーセの亡命がハッピーエンドであったとしても、奴隷の民イスラエルの悲劇は続いています。エジプト王は長命でした。この長期間、ヘブライ人の男子は殺され続けていたのです。額面どおり考えるならば、この時点でヘブライ人男性は80歳以上しか存在しないことになります。エジプトの捕虜となった新奴隷や移民たちと、イスラエルの女性たちは結婚していく道しかなかったことでしょう。こうしてイスラエルは一つの民としての特質・同一性が奪われそうな危機に直面していました。

「労働」(アボーダー)という単語の原意は「仕えること」です。奴隷という単語と語根は同じです。アボーダーには「労働」という意味ともう一つ「神礼拝」という意味があります。仕えるという事柄は、人に対しても神に対してもありうるからです。エジプトにおいてファラオは神でした。ファラオへの奉仕は、同時に、ファラオへの崇拝をも意味します。ここにエジプト国家の狙いがあったように思えます。

「血を入れ替える」だけではイスラエルの特質・同一性は損なわれないのではないか、重労働だけでも効果は無いのではないか、神への礼拝を制限し、エジプトの神々を拝ませ、神の子であるファラオを拝ませるならば、礼拝共同体としてのイスラエルは解体するという目論見が、支配者の側にあったのだと思います。今日的な言い方で言えば、政教一致した国家による、信教の自由の抑圧です。強制的な重労働だけが問題ではなく、ファラオを礼拝させることで支配を完成させようとしたことも問題だったと推測します(出3:18参照)。

イスラエルの民の呻きや叫びが、労働の現場から・礼拝の現場から立ち上ります(23節)。助けを求める彼らの叫びは、労働/礼拝の現場から神へと上ったのです(岩波訳参照)。米国黒人教会の礼拝と同じです。奴隷だった彼らは教会に集まり、哀調を帯びた歌を大声で歌います。その歌は労働歌でもあり、讃美歌(黒人霊歌)でもあったのです。礼拝とはそのような嘆きを叫ぶことでもあります。詩編は全体が150編ありますが、そのうちの半分は「嘆きの歌」に分類されます。これらは実際の礼拝に用いられた讃美歌集です。

神はこのような正直な感情表現を聞く方です。神はご自分の立てた契約(民を救うという約束)を常に覚えている方です。神はイスラエルの民を見るお方です。神は知るお方です。Pは主語としての神を強調しています。そのことは救い主としての神がどのような方かを説明しています。人は救われるために何をすれば良いのでしょうか。何もする必要が無いと今日の箇所は語っています。大きな社会の仕組みの中で、重労働にあえぎ、信仰の自由すら脅かされている者たちは、これ以上何もしなくて良いのです。ただ呻くだけ叫ぶだけで良い。「苦しい」「助けて」と言うだけで良いということです。その声は必ず神に向けて上っていくからです。

ここでは悔い改めが救いの条件になっていません。しばしば西方教会は罪の悔い改めを救いの条件であるかのように伝えてきました。しかしイスラエルに悔い改める理由はありません。どう考えてもエジプトの国策の被害者だからです。救いはただ神の意志と行為にかかっています。先祖に対する救いの約束を実現しようとする意志、イスラエルの人々を「良し」と見る行為・全肯定する行為です。人間に求められているのは、素直に信頼して神に対して「わたしを憐れんでください」と叫ぶことなのです。その時神はあなたを全人格的に知ります。そして神へのあなたの信仰があなたを救うのです。

今日の小さな生き方の提案は、人を歓迎するということです。自分の存在が揺さぶられている人が教会を訪れることもあるでしょう。その時に晩餐のパンをもって歓迎することが、その人を救うのです。すべて親類・隣人です。信仰とは人間に信を置き、信頼し合うネットワークを広げることです。

もう一つの提案は、世の中の構造的悪を生活/礼拝という現場で嘆くということです。嘆くのだけれども、しかし神への希望を持ち続けることです。この世界の歴史は、目に見える人間たちの思惑と、目に見えない神の意志の交錯する大きな絵巻物なのです。それを救済史と捉えることです。信仰とは神に希望を置いてあきらめないという精神なのです。