神を欺くこと 使徒言行録5章1-11節 2021年1月10日  礼拝説教

1 さてアナニアという名前のとある男性が、彼の妻サフィラと共に、財産を売った。 2 そして彼は対価の一部を自分のために別にしておいた、彼の妻も共に知りながら。そしてある部分を持参して、彼は使徒たちの足の傍らに置いた。 

 アナニアとサフィラという夫婦がいました。二人は初代教会の信徒でした。二人の名前はギリシャ語由来のものではありません。アナニアは、「ハナニヤ」というヘブライ名の直訳ですし、サフィラはアラム語の「美しい」という意味です。おそらく生粋のユダヤ人でありエルサレム住民です。夫妻はバルナバと同じように、持っている不動産の売却と、売却対価を貧しい人々へ寄付することを行います。「自分たち夫婦の持ち物が、本当に自分たちのためのものであるのか」という問いに対して、真摯に応えています。二人は裕福だったように思います。売った不動産も全財産のうちの一部でしょう。

 アナニアはサフィラと十分に相談をして売った不動産の一部を自分たちのためにとっておくことにしました。二人ともに病弱であり老いていた可能性があります。ある程度の蓄えが必要だという判断は妥当なものです。夫婦は対等に話し合っています。夫婦で教会員の人たちならば想像しやすい図です。教会に多額の献金をする場合、打ち合わせをするはずです。自分たちのために取り分けなかった部分を、アナニアは貧しい人たちに寄付すべく使徒たちの管理下に置きました。ここまでで何も悪いことを行っていません。できる人ができる時にできる範囲の善いことをしているだけです。新共同訳「代金をごまかし」としていますが、この言葉にそこまでの否定的な意味はありません。ペトロの発言の強さに引きずられた、ペトロびいきの翻訳です。

3 さてペトロは言った。「アナニアよ。何ゆえにサタンはあなたの心を満たしたのか、聖霊をだますために、また土地の対価の一部を別にしておくために。 4 あなたのために残ったものは、残ったではないか。そして売ったとしても、自由はあなたの中に存在し続けている。なぜこの行為をあなたはあなたの心の中に置いたのか。あなたは人間をだましたのではない。むしろ神を(だました)」。 

 このペトロの言葉は残酷です。また主張が支離滅裂です。ペトロはアナニアをイスカリオテのユダと重ね合わせて非難しています。「サタン」はユダにも入っていました(ルカ22章3節)。そしてユダはイエスを売った代金でエルサレムに土地を買っていました(使徒1章18節)。アナニアが土地の対価の一部を別にしておくことは、ユダの裏切りやそれに基づく土地購入とはかなり異なります。しかしペトロにとっては両者は同じだというのです。奇妙です。しかも「聖霊をだます」という言い方は、自分は聖霊に満たされているという宗教的権威を振りかざしている点で嫌らしい言い方です。

 「一部取っておくならば売らない方が良い」と4節冒頭でペトロは言っているようです。「売らずに残せばそのまま残ったではないか」(新共同訳参照)と。1か0か。売った対価はすべて寄付しなければ意味がないという主張はかなり極端です。ペトロはアナニアの土地売却価額を知っているようです。エルサレムで有名な豪邸だったのかもしれません。あるいはアナニア・サフィラ宅でペトロも礼拝をしたことがあったので広さを知っていたのかもしれません。まさかこんなに安いはずがないと推測して非難しているのでしょう。このように人の財布を覗き込む態度は寄付者に対して失礼です。ペトロという人の短所が露骨に出ています。彼は軽率で暴力的でありライバルを蹴落とそうとする人物です。バルナバやアナニアが自分と競合している勘違いしたのでしょう。

 次の言葉「売ったとしてもそれを自由にできる」は、ペトロ自身の言葉に矛盾しています。売った代金はすべて寄付せよと、直前で言っているからです。売った場合には自由はないはずです。こうなってくるとペトロの言葉の信実性に疑いがかかります。さらに暴言は続き、宗教的権威を再び振りかざします。「なぜ大事なことを心の中に隠したのか。あなたは神をだました」。ペトロにこそサタンが入ったように思えます(ルカ22章31節)。

 アナニアとサフィラには老後の人生設計があったことでしょう。二人はやましいことを心に隠して教友や聖霊をだましたのではなく、良識としてこまごまとした個人的事情(持病も含めて)を黙って土地売却代金の一部を寄付したのです。「これが自分たちのできる最善だ」と納得して、「この事情を神は知っていてくださる」と信じて、できる限りを神のために・貧しい仲間たちのために捧げたのでした。「もっと高く売ったはずだ。神をだますな」となじられるのは、あまりにも不当な非難であるとアナニアは感じました。アナニアの血圧が急激に上がります。

5 さてアナニアはこれらの言葉を聞いて、倒れて、息絶えた。そして大きな恐れがこれらのことを聞いた全ての者たちの上に臨んだ。 6 さて立ち上がって、若者たちが彼をたたんだ。そして運び出して、彼らは埋葬した。

 アナニアにはもともと持病があったのだと思います。ペトロから突然のハラスメント発言を受け、心臓発作か脳内出血かの急病を患ったアナニアは倒れ、そのまま亡くなりました。ペトロは若者たちに埋葬を命じました。ユダの事故死と重ね合わせて見ているペトロは、教友であるアナニアの急病死に対して実に冷たい態度です。葬儀すら行わないのです。この点でアナニアとサフィラの埋葬はイエス・キリストの埋葬に似ています。若者たちはアナニアに同情していたかもしれません。しかし年齢差と教会内における力関係のために、ペトロに歯向かうことはできません。彼らの上には「大きな恐れ」が生じていました。ペトロの力の濫用は、恐怖による支配です。

7 さて三時間ほどの間隔があった後、彼の妻も、起こったことを知らないままに、入って来た。 8 さてペトロは彼女に向かって答えた。「あなたは私に言え。あなたたちはその土地をこの通り(の価額で)売ったのかどうか」。 さて彼女は言った。「はい。この通り(の価額で)」。 9 さてペトロは彼女に向かって(言った)。「なぜ主の霊を試すために彼はあなたと同意したのか。見よ、あなたの夫を埋葬した者たちの足が扉に接している。そして彼らはあなたを運び出すだろう」。 

 サフィラは夫が中々帰ってこないので様子を見に来たのだと思います。「ペトロさんと話し込んで、大切な使徒の仕事の邪魔でもしていないか」などと心配して連れ戻そうとしたのかもしれません。彼女は良識的です。

 何も知らずに屋内に入って来たサフィラに対して、ペトロは言葉の剣で切りかかります。「あなたは私に言え」(8節)。居丈高です。そして目の前にあるアナニア持参の袋の中にある銀貨を見せながら、「土地の代価はこの通りか」とペトロは聞くのです。サフィラは見覚えのある袋の中を見て、覚えのある金額を確認して、正直に「この通りです」と答えます。昨晩二人で祈って話し合って決めた額に間違いありません。「これが自分たちにできる最善だ」と。

 突然ペトロは激怒しサフィラを怒鳴り上げました。9節は「言った」という言葉を省略しています。臨場感がある叙述です。ペトロはサフィラが答えると同時に、発言の最後を呑み込むようにして怒鳴り上げたのです。

 「なぜあなたは主の霊を試すために夫を唆したのか。あの土地はもっと高く売れたはずだ。気づかれなければ良いだろうという心持で、夫アナニアを丸め込んだのはあなただ」という断罪の言葉。女性に対する憎悪感情(misogyny)がむき出しの暴力となっています。創世記3章をペトロは頭に置いているのでしょう。サフィラは凍りつきました。

 ペトロの激怒に理由があるとすれば、夫妻が売却代金の全額を知らせずに、一部の金額を全部であるかのように知らせたということだけです。しかしここまで怒ることでしょうか。むしろ感謝をして寄付を受け取るだけで良いと思います。先週申し上げた通り、すべての物が家を売り払ったら礼拝する場所に困ってしまうのですから、一部をとっておく信徒はいたはずです。それは教会にとっても助かることです。ですから「売却金額の内訳まですべて知らせよ、知らせないことは悪だ」とまで言うのは酷です。

 追い打ちをかけてペトロは「アナニアはここで死んだ。若者たちが埋葬を済ませた」ということを全く牧会的な配慮なしに配偶者であるサフィラに告げます。「なぜ妻である自分に夫が倒れたこと、亡くなったことを知らせないのか。他人の手で勝手に埋葬したのか。同じ教友なのに。あまりにも酷い」。

10 さて彼女はすぐに彼の足に向かって倒れた。そして彼女は息絶えた。さて入って来て、若い人たちは死んでいる彼女を見出した。そして運び出して、彼らは彼女の夫に向かって埋葬した。 11 そして大きな恐れが教会全体の上に、またこれらのことを聞いた全ての者たちの上に臨んだ。

 かわいそうなサフィラは反論できないまま悲憤の中、持病を悪化させて死んでしまいます。聖書は「神が夫妻を撃った」と言っていません。ペトロの発言の直後に、つまりそれを直接の原因としてそれぞれは死んだのです。あえて言えば、ペトロが夫妻を「言葉によって殺した」ということです。そこまで強く言わなくて良いところを、使徒の権威と権力を濫用して、病弱な夫妻を脅かし恫喝して、死に至るまで悩ませたのです。

 知らずに部屋に入って来た若い人たちはさらに恐怖に怯えます。しかし彼らは最低限の良心を示し、せめてもの手向けとしてサフィラをアナニアの傍に埋葬するのです。11節は5節を単語レベルでなぞっています。この物語の鍵語です。「大きな恐れ」が、その場にいる信徒たちだけではなく、アナニアとサフィラの同日の急病死を聞いた者すべてに起こります。ペトロを怒らせてはいけない。この後、寄付をする信徒は使徒言行録に報告されません。そしてここで初めて「教会(エクレシア)」という単語が使徒言行録で用いられます。

 ペトロという岩の上に立ち上がったエルサレム教会を、ルカはやんわりと批判しています。「筋の通っていない情緒不安定な基礎のもとエルサレム教会は設立された。指導者の顔色を伺う群れだ。だから友人パウロに対しても不義理を働き、見殺しにしたのではないか」。ルカはペトロに殺されたアナニアとサフィラを記念し、エルサレム教会の醜聞をあえて記載します。ペトロがまたもやイエスを殺した出来事として。これは6章の「反十二使徒運動」の予兆です。

 本日の小さな生き方の提案は、ペトロを反面教師とすることです。ハラスメントが起りやすい業種は、芸能界・スポーツ界・宗教界と言われます。皮肉なことに愛を説く教会でこそ、上下関係を悪用した力の濫用が起こりやすいというのです。神という権威、神の権威を振りかざしうる牧師という存在があるからです。アナニアとサフィラの叫びが、教会の基礎の下から湧き上がり揺さぶっています。わたしたちはイエスの赦しを信じながら、悔い改めて実際に生き直さなくてはいけません。イエスはペトロが何度失敗しても生き直すことを求めて赦し続けました。この愛に後押しされて、隣人を尊重しましょう。不適切な言葉を控えましょう。「舌は疲れを知らない悪で死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3章8節)。人の内心に踏み込むことを止めましょう。お互いは距離を保って、イエス・キリストにのみ黙々と仕えていきましょう。