神を畏れる者 使徒言行録10章1-16節 2021年8月29日礼拝説教

1 さてカイサリアにおけるコルネリウスという名前の男性(は)、イタリア隊と呼ばれる軍団からの百人隊長(は)、 2 敬虔であり、彼の家の全てと共に神を畏れ続けており、かの民に多くの寄付し続けており、そして全てを通して神に祈り続けている。 3 彼は幻の中に明確に見た、昼間の九時ごろ。神の天使が彼に向かって入って来て、そして彼に言った。「コルネリウスよ」。 4 さて(彼は)彼を凝視して、そして(彼は)恐れるようになって、彼は言った。「それは何か。主よ。」さて彼は彼に言った。「あなたの諸祈祷とあなたの諸寄付は神の前の記念のために昇った。 5 そして今あなたはヤッファの中へと遣わせ。そして、ペトロと呼ばれている人物、シモンを招け。 6 この男性は皮なめし人シモンの傍らに滞在している。彼の家は海の傍らにある。彼は、あなたが何をすべきかを、あなたに言うだろう」。 7 さて彼に語っている天使が去った時に、(彼は)家の者二人と彼についている敬虔な兵士を呼んで、8 (彼は)彼らに全てのことを説明して、彼は彼らをヤッファへと送った。

 本日の箇所は二つの同時進行の物語です。8節までがコルネリウスの幻、9節から16節までがペトロの幻です。物語の舞台は地中海沿岸のカイサリアとヤッファという二つの港町です。両者の距離は50㎞ほど。健脚の古代人でも丸一日かかる旅程です。新共同訳聖書の巻末地図10にある「ストラトの塔」がカイサリアの位置です。

 カイサリアはローマ総督官邸がある大都市です。ピラトはここに住んでいて適宜エルサレムに行っていたのです。ローマ軍が常時駐留しています。そのローマ軍の中にイタリア隊と呼ばれる軍団がありました。このイタリア隊は実在しており、後69年にシリア地方に駐屯していたことが碑文(聖書外資料)で確認されています。「ローマ市民の、志願兵のイタリア第二部隊」が正式名称です。本日の出来事はそれよりも30年前ですが、この部隊がカイサリアに駐留していた可能性はあります。この部隊の特徴は解放奴隷の志願兵からなるというものです。百人隊長のコルネリウスはその名前から彼自身解放奴隷のルーツを持つことが推測されています(前82年のローマ共和国執政官ルキウス・コルネリウス・スッラによる一万人の奴隷解放)。また、少なくとも百人隊長であるコルネリウスはローマ市民権を持っていたであろうと言われます。

 コルネリウスは家族もまた家の者たちもみな敬虔で神を畏れていたと評されます(2節)。この敬虔さはギリシャ・ローマ神話における神々に対する信心深さではなく、ユダヤ人たちの信仰に対するものです。神を畏れる人々という表現は、ユダヤ教徒ではないけれども、ユダヤ教に好意的である人々のことを指します。この後の物語でもしばしばこの意味の「神を畏れている」人々が登場します。だから冠詞のついた「かの民」(2節)はユダヤ人のことです。コルネリウス一家は会堂で礼拝を捧げながらその会堂に寄付を捧げ続けていたのでしょう。ルカ7章に登場するカファルナウムの百人隊長と似ています。ちなみにカファルナウムはシモン・ペトロの自宅がある町です。ペトロやイエスはガリラヤの民として軍隊の駐留というものや、軍人の中にもさまざまな人がいるということをよく知っています。十字架上のイエスを「神の子である」と信仰告白したのは、ローマ軍の百人隊長でした。

 コルネリウスは当時のユダヤ教正統の会堂には通っていますが、フィリポの家の教会(ユダヤ教ナザレ派)については知らない様子です。神の天使は、フィリポの頭越しにヤッファにいるペトロを指名します。意外な選びです。しかし神には確かな計画があります。前後の文脈からペトロの成長のためにコルネリウスが用いられていることが分かります。ペトロの回心(民族主義者から国際派へ)が重要だからです。この事柄無しに、15章の「使徒会議」の決議内容(非ユダヤ人伝道の公認)はありえないのです。神はフィリポを呼ばずにペトロを呼びます。それによって神が歴史を導きます。さらにはペトロとフィリポとの歴史的和解がカイサリアでコルネリウスを通して起こったと思います。ペトロが来ても、フィリポが移動しないからです。

コルネリウスが祈っている午後の三時に神の天使は明確なかたちで現れ、命令をします。シモン・ペトロをカイサリアに招けというのです。天使は何も理由を告げていません。緊急な用事がコルネリウスにあるわけでもありません。ただ皮なめし人シモンの家に滞在しているという情報だけです。コルネリウスの頭には疑問符ばかりが浮かんだと思います。

それでもすぐに彼は敬虔な家の者二人と兵士を呼んで遣わします。配下には数十人いますが、しかしその中でもたった一人の兵士が指名されます。この兵士も会堂でコルネリウス家と共に礼拝をしていたからでしょう。ヤッファまでは50㎞、今は午後三時。「どこかで一泊し、明るい時に皮なめし人シモンの家を探り当て、すぐにユダヤ人ペトロと呼ばれるシモンを呼んでこい」という指令をコルネリウスは出します。三人はすぐにカイサリアから南へヤッファへと旅立ちます。この瞬発力がコルネリウスの優れている点です。祈っている最中だったからかもしれません。いつも気にかけ気になっている事柄であれば、わたしたちはすぐに行動できるものです。

コルネリウスがいつも気になっていることは、ユダヤ教会堂で礼拝をし続けている中で感じる疎外感です。ユダヤ人が持つ非ユダヤ人に対する蔑視です。非ユダヤ人は汚れているという思想を、多かれ少なかれ誰もが持っていて、込み入った話題になると「アラム語で話そう」と閉ざされてしまうことです。「非ユダヤ人の割には良い人」のような位置づけが「神を畏れる者」に含まれます。どこまで行ってもユダヤ人になれない。割礼を受けるところまでいかなくてはユダヤ人ではないのです。低俗な連中とどこかで蔑まされていることを、コルネリウスは敏感に感じ取っています。

9 さて次の日に、これらの人々は旅をして、そして町に近づき続けている時に、ペトロは祈るために屋上に上った。六時あたりに。 10 さて彼は空腹となって、そして彼は食べたくなり続けた。さて彼らが準備をしている時に、彼の上に恍惚が生じた。 11 そして彼は開かれた天を見る。そして何かの器が降り続けているのを(見る)、四隅(で)地面に下に行かされ続けている大きな亜麻布のようなものを(見る)。 12 その中に全ての四つ足たちと地を這うものたちと天の鳥たちが存在し続けていた。 13 そして声が彼に向かって生じた。「ペトロよ、起きて、あなたは殺せ。そしてあなたは食べよ。」 14 さてペトロは言った。「ご無体な、主よ。というのもわたしは俗なものや汚れたものをすべて食べたことがないのだから。」 15 そして声が再び二度目に彼に向かって(生じた)。「神が清めたものを、あなたは俗なものにしてはならない。」 16 さて、このことが三度生じた。そしてすぐに器は天へと取り上げられた。

ペトロは長期間皮なめし人シモンの居候になっていたと採ります。9章43節「しばらくの間」(新共同訳)は同23節「かなりの日数」と同じ表現です。23節の時に、この期間をサウロのアラビア伝道の三年間と推測しました。そうであれば、ペトロも三年ほどはヤッファのシモンにお世話になっていたと考えられます。ヤッファにはタビタの家の教会があり、またシモンの家の教会があります(10章10節。また23節「ヤッファの兄弟」)。この二つの教会は、職業的専門技能を地域の人々に提供しています。服を作る技能、革製品を作る技能です。独特の強いにおいを吹き飛ばすためにシモンの家は海辺にあったのでしょう。カファルナウムの漁師シモン・ペトロも、この立地を生かして漁師たちと交わりをもったかもしれません。ペトロにとってヤッファは居心地の良い所でした。一点を除けば、シモンの家の教会は良い場所でした。

ペトロが気になっていることがありました。それは割礼を受けていない非ユダヤ人も教会員になっていることです。そして主の晩餐(愛餐も同時)では何でも食べていることです。教会員は気をつかってペトロ用の料理を取り分けてくれますが。ヤッファの教会は国際派フィリポの流れを汲んでいます。エチオピアの宦官に割礼を経ないでバプテスマを施したことが、「良い証」として流布されている教会です。ペトロは、エルサレムの民族主義者たちに批判を強く持ち始めましたが、そしてまた、フィリポ系列の教会員とも交わりを深くし始めましたが、その点においてまだ国際派に切り替え切れていません。「ユダヤ人が先・非ユダヤ人が後、割礼によってまずユダヤ人になるべき、その後バプテスマ」。このような図式が頭にかぶさって離れないのです。心のどこかで「フィリポは間違えている」と思っています。

ペトロは上で祈ります。下ではペトロ用の皿と自分たちの皿を分けてシモンたちが料理を作っています。するとペトロは恍惚の預言状態になり幻を見ます。コルネリウスと同じです。天が開け、地上のすべての被造物が乗っている器が下りてきたというのです。ノアの箱舟が蓋を開けたような器です。神の声は「獣を食べよ」とペトロに命じますが、ペトロは拒否します。「自分は一度も宗教的に汚れているとされた獣を食べたことがない、どんなに空腹でも」。14・15節「俗なもの」(ギリシャ語コイノス)としました。ペトロの中にはギリシャ・ローマ世界で普通となっている通俗的なものは、すなわち汚れているものであるという意識があります。それは「ユダヤ人である自分は普通ではない選民なのだ、世俗的ではない聖なる民なのだ」という自意識の裏返しです。神の声は、ペトロの「俗なもの」差別を打ちます。「神はすべての獣や、ギリシャ・ローマ世界に普通に暮らしている人々を清いと言っている。すべては極めて良い。それをあなたが勝手に通俗的・低俗的と決めつけてはいけない。選ばれて救われた箱舟の中にすべての被造物が乗りこんでいたことを思い出せ」。

このやりとりが三回ありました。つまり三度の話し合いでもペトロは頑として自説を曲げなかったのです(16節)。コルネリウスの反応との違いが対照されています。どちらが優れているかは歴然です。神の言葉に対してはそそっかしいぐらいに素早く反応した方が良いのです(かつてのペトロのように!)。ペトロの心の殻は、最終的に三人の客によって外から砕かれます。

本日の小さな生き方の提案は、ずっと心に留まっていることがらというものは「祈りの課題として正しい」ということを知るということです。それは肯定的な良い思い出かもしれません。また逆に自分の負の感情を呼び起こすことがらかもしれません。コルネリウスとペトロの心に沈殿している思いは、礼拝とは何か、神を中心に集まる民とは何かという問いです。礼拝共同体はどのような人々によって成るものなのでしょうか。あえて言えば「ただの人」「ただの動物」「ただの植物」ならば誰でも礼拝できるのでしょう。なぜならそれらすべてを神が創られ、神はすべてを清い・良いとしているからです。実に人間だけが生命のランク分けをする罪を犯しています。この国にいまだに「包括的差別禁止法」がないことを憂えます。政府がその制定に躊躇しているからです。教会はすべての生命の「祈りの家」です。誰もが構成員・会衆となれる礼拝をしながら、その実践を通してすべてが清いことを示していきましょう。