神を畏れる 出エジプト記1章15-21節 2015年1月4日礼拝説教

今日は、横暴なかたちで力を奮うエジプト王をヘブライ人の助産師二人が出し抜くという物語です。聖書はこのような「詐欺師的英雄」をしばしば肯定的に描きます。古代社会において「痛快な物語」は、現代社会に生きるわたしたちに何を教え・何を促しているのでしょうか。

バビロン捕囚下(前587年-前539年)、五書を生み出したイスラエルの人々には四つの思想集団がいたと推測されています。五書は彼ら・彼女らの「書き込み行為」(旧約学者並木浩一の言葉)によって、現在の分量まで成長しました。現在ある本文はモザイク模様に四種類の思想が交錯したかたちで保存されています。J・E・D・Pなどと学問上あだ名を付けられている思想集団です。この四種の集団については煩雑にならない程度に、その都度紹介していきます。聖書の民が画一的な集団ではなく内部で多様性を認め合っていたことを肯定的に評価しているので、わたしはモーセ単独著者説を採りません。

今日の箇所はE集団の筆によると大方の学者は同意しています。神を「エロヒーム(神の意)」と記すので(主/ヤハウェと記さない)、エロヒームの頭文字を取ってEと呼びます。この集団の思想の特徴は、「急進的な神への服従」にあります。大元は預言者エリヤの思想(王上17章以下)であり、「レビ人」と呼ばれる急進的放浪者たちや、預言者ホセア・エレミヤなどに継承されたものです。多神教世界の中で一つの神を選び、権力に抵抗してでも信仰を全うせよという教えです。「神への畏れ」が鍵語となる思想です。神以外のものは恐れないからです。まさに今日の箇所の全体は、Eの思想と整合します。

エジプト王(ファラオとも呼ぶ)はイスラエルの民を減らそうとする政策が上手くいかないことに苛立ちました。そこで、今度はもっとひどい政策を思いつき実行に移します。「医療事故に見せかけてヘブライ人の男の子だけを死なせていき、それをもって人口減少させよう」という政策です(16節)。16節の「殺し」は直訳「死なせる」です。直接に殺すことにファラオといえども躊躇があるので、医療事故に見せかけて死なせるという含意です。何とも残酷かつ乱暴な人口減少政策です。

ここにも性差別があることは見逃せません。女の子たちを生かす理由は、女性たちが男性たちたちよりもエジプト国家にとって脅威とならないと見くびって判断されているからです。しかしこの性差別を前提にしたファラオの政策は、皮肉なことにヘブライ人女性の助産師たちによってひっくり返されます。

出発点はシフラとプアの憤り(正しい怒り)でした。ヘブライ人のみを差別して虐待して人口を減らそうとすることへの憤りです。二人はヘブライ人なのです。そしてヘブライ人の男性のみを性差別に基づいて死なせようとすることへの憤りです。二人は女性だったのです。さらに、専門職への侮辱に対する憤りです。シフラとプアは助産師という専門職を持っていました。助産師という職業は、女性が職業を奪われていた(それゆえ女性の貧困は有史以来のものなのですが)古代社会における大きな例外です。出生率が極めて低かった時代にあって、助産師は人々から尊敬を集める職業でした。エジプトの王が二人のヘブライ人女性と直接に話していることから、その高度な専門技術が高く評価され高い地位にあったことが伺えます。エジプト人も彼女たちのお世話になっていました。その専門技術を逆に人を死なせる方向で用いよ、わざと専門技術を鈍らせて任務懈怠をせよと命じられたのですから、当然に二人は憤ったのです。ちなみにシフラという名前の意味は「公正」というものです。「ファラオの政策は公正ではない」。この憤りが彼女たちを立ち上がらせます。

二人は王宮からの帰り道に相談したのでしょう。ここは蛇のように聡く、鳩のように素直であるべきです。ファラオの命令や言い方に付け入る隙がないかどうか、うまく命令違反をする道を探るべく、吟味をしたのです。

「殺せ」と言わずに、「死なせよ」と言っていることに隙があります。この言い方にファラオの躊躇を読み取ることができます。医療事故で死なせることは良心の呵責に耐えることですが、完全に生まれた後に、その男の子を殺すことはファラオといえども良心の呵責に耐ええないのではないか。二人はここに付け入る隙を見出したのです。

物語はエスカレートし、この後ファラオは全ての男の子をナイル川に投げ込めと命じます(22節)。しかし同様の隙は継承されています。直接に赤ん坊を殺すことは命じられていないので、ナイル川で生き延びる可能性が排除されないのですから(2:3)。

なぜこのような隙が生じるのでしょうか。ファラオも同時代人だからです。「いのちへの畏敬」というものを助産師たちと共有しているからです。言い換えれば、良心というものがファラオにも当然に存在しているということです。あるいは、「いくらヘブライ人に対してでも赤ん坊を殺すことはしてはいけない」という世論があり、ファラオですらそれを無視できなかったということです。この「隙」ないしは「同時代人が共有する良識」を徹底的に利用した知恵を二人は思いつき、ヘブライ人の男の子たちのいのちを救い出すのです。

なお、前回の段落まで「イスラエル人」と呼ばれていた人々は、今日の段落では「ヘブライ人」と呼ばれています。後者がより古い呼び名であり、元来は蔑称でした。エジプト人から見て「流れ者」「川向こうから渡ってきた者たち」という意味合いの呼び方です。それは血の繋がりによる呼び名というよりも(たとえばイスラエル)、むしろ職種・社会階層や生活様式などによる呼び名です。シフラもプアも、専門技術を利用して様々な土地を放浪していくヘブライ人であった可能性があります。

シフラとプアは上手い言い訳を準備しました(19節)。「ヘブライ人の女性たちは丈夫なので、助産師が呼ばれて自宅に行く前に生んでしまうのです」という言い訳です。「一旦生み落とされたいのちを殺害せよとはファラオは絶対に言わない」という正確な読みがあったからこその弁明でした。ファラオから見れば「ぎゃふん」という場面です。お産の現場を知らないファラオはまんまと論破されてしまったのでした。

「神は助産師たちに良くした」(20節直訳風)とあるのは、ファラオからの懲罰がなかったということです。エジプトという国にとっても彼女たちは貴重な人材でもありました。助産師たちは妊婦がエジプト人であれ、ヘブライ人であれ堂々と赤ん坊を取り上げ続け、結果としてヘブライの民は増え続けました。またもやファラオの移民政策は失敗に終わったのでした。

さて21節は週報にも記したとおり聖書本文に異読があります。ギリシャ語訳聖書は、「彼らは彼ら自身のために家々を造った」とし、神が助産師たちに報いたとしません。そもそも、「彼らのために(冠詞無し)家々を造った」を「彼女たちにも子宝を恵まれた」(新共同訳)は、あまりにもジェンダーまみれの翻訳です。「女性にとっての幸せとはこういうものだ」という社会的思い込みを基に翻訳されすぎです。助産師たちに夫がいたかどうかは、この文脈で何らの興味の対象になっていません。またヘブライ語本文は「彼女たちのために」ではなく(それまでの文脈では逐一「彼女たち」としているのにも関わらず)、「彼らのために」としているので、その点でも新共同訳は強引です。

ここはやはり「彼ら(ヘブライの民)は(不特定多数の)家々を造った」という本文を採用すべきでしょう。それによって、神は助産師たちに報酬を与えたのではなくなります。「かの助産師たちが神を畏れたので、ヘブライの民は家々を造った」という文章です。つまりあの英雄的な助産師たちの行為を模範として、ヘブライの民は家々を創生していったということです。

強大な権力をもち、神の子/神自身と崇められていたファラオに対しても恐怖しないで、むしろ「いのちの神」だけを畏敬し、ヘブライ人たちのいのちを救ったシフラとプアが、民全体の模範として評価されていることは間違えありません。彼女たちはその英雄的な行為によって報いを望んでいたのでしょうか。報酬があるから神を畏れたとも思えません。そのような打算や天秤なしに彼女たちは、自分たちの頭で危機を切り抜ける知恵を編み出し、その知恵を実行する勇気を出したのです。これこそ、「新しい家」を創出する、きわめて創造的な行為でした。新しい家とは、「奴隷の家」ではなく「自由人の家」です。シフラとプアに倣うのですから、ジェンダー意識から解放された共同体です。「女性は家事育児を担うのが当たり前」「男性に仕えるべき」という固定観念から解放され、男と女という二分法が無い交わりです。シフラとプアのようになろう、高度な専門技術や「手に職」を持とうという女性たちが励まされる共同体です。男性たちは確かに奴隷の重労働に駆り出されているけれども、それは別の好機も生んでいます。男性たちは死の危険にさらされているけれども、それは女性たちに活躍の場を与える好機でもあります。女性たちの活躍こそ出エジプトの大前提であり原動力なのです。シフラとプアに倣って、エジプト王に対しても対抗できる神を畏れる交わり・真の礼拝共同体が、ヘブライの民の中に増えていったのでした。その中から、来週登場するミリアムという指導者が生み出されていきます。ここに教会の原型があります。

今日の小さな生き方の提案は二つです。一つは為政者の良心に語りかけるロビイングです。昨秋から「市民に選挙をとりもどすプロジェクト」という市民運動に携わっています。1925年にできた現行公職選挙法が市民から選挙を遠ざけている現実を抜本的に改め、法改正を10年越しで成し遂げようとする企てです。超党派の政治家たちと協力をしようと考えています。政治は打算と妥協の産物です。その中で信仰者が政治に取り組む意義は、相手の良心に期待するという姿勢でしょう。それが世間の良識と重なる時に、市民が法改正の核になりうると考えます。ファラオでさえ反対できない法律構成をシフラとプアが編み出し、相手の良心を逆用し、勇気をもって対話したことが模範です。

もう一つは教会という「新しい家」を共に造りましょうというお勧めです。ヘブライの民という原型から導き出される教会像は、民族主義的な集まりではありません。わたしたちは「日本人優先の礼拝実現」のために集まっていません。「外国人枠」などの考えも採りません(日本のスポーツ界は狭小)。すべてのいのちの造り主である神を畏れるので、わたしたちは礼拝をするのです。その礼拝は必然的にすべてのいのちに開かれたものでなくてはなりません。

ヘブライの民という原型から導き出される教会像は、ジェンダーを超えた集まりです。男性権力者が女性専門職に出し抜かれる物語は、この世の「らしさ」を克服しています。「らしさ」で縛ろうとする人々を批判し、「らしさ」に縛られている人々を解放しています。イエスの信頼のネットワークで起こった逆転劇が、ヘブライの民にも起こっています。このような痛快な物語を共有し追体験することが教会に求められています。教会は世の中の当たり前を問い直し、世の中よりも自由な雰囲気を持つものです。それは世の中で期待されない人々を励ましていく行為につながります。子ども・女性・性的少数者・外国人・被差別部落の人・しょうがいを持つ人などを力づける群れとなりましょう。