神を見て食べる 出エジプト記24章9-18節 2016年3月27日復活祭礼拝説教

今日はキリスト教の暦で言うと復活祭の日です。世界中の教会で新約聖書のイエスの復活記事が取り上げられていることでしょう。おそらく出エジプト記を読んでいるのはわたしたちだけでしょう。めげずに今日の箇所をキリストの復活と重ね合わせて読みたいと思います。特にイエス・キリストが復活された後に、エマオで二人の弟子と夕食をとられた出来事と(ルカ24章30-31節)、また、ガリラヤ湖畔で七人の弟子たちと朝食をとられた出来事と(ヨハネ21章12-14節)、重ね合わせます。

なお来週からはルカによる福音書を最初から最後まで説教でとりあげていく予定です。おそらく2年ぐらいかけてルカ福音書を読了することでしょう。その後旧約聖書(箇所未定)をとりあげ、さらにその後、使徒言行録に進もうかと予定しています。

先週の物語において、雄牛たちを犠牲にして神と民は和解の契約を結びました(第一の契約)。しかし契約というものは儀式だけで終わるものではありません。しばしば共に食事を食べることによって完成します。おそらく和解の約束と、共に食事を食べることは分けることができないものなのでしょう(創世記26章26節以下、同31章45節以下)。

雄牛たちと同じように十字架で神の子イエスが犠牲とされ、それによって神と世界は和解の契約を結びました(第二の契約)。第一の契約と同じように、これだけでは契約は完了しません。その直後に食事を共にするということが必要です。十字架で殺されたけれども、神によってよみがえらされた神の子イエスと共に食べることが、和解の約束にとってどうしても必要になります。ルカ福音書24章で二人の弟子と復活のイエスは食事をとります。そして、ヨハネ福音書21章で七人の弟子と復活のイエスは食事をとります。それらによって、和解の契約の手続きが完了するのです。

出エジプト記24章に戻りましょう。9節に「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った」とあります。この行動は、1節にある神からの命令を忠実に行うものでした。長老というのは、十二部族の指導者です。能力によって選ばれた指導者ではなく、おそらく家系によって選ばれた長男たちです。部族の下に氏族、氏族の下に家族があるという階層の中の「氏族の長」ぐらいの位置づけでしょう。

ナダブとアビフは、モーセの兄アロンの長男と次男です(6章23節)。ただしこの二人は後にモーセに反乱を起こし粛清されます(レビ記10章)。そのために大祭司アロンの直系は、三男エルアザルの子孫が引き継ぐこととなります。単純な家父長制ではない「弟・妹優位の原理」や、最後の晩餐にユダも居たこととも重なるのですが、これらは今日の本筋ではありません。ともかくレビ部族で祭司の家系の四人が、七十人の長老とは別枠で食事に加わっています。

モーセの従者ヨシュア(13節)はエフライム部族の長老の一人だったかもしれません。また、フル(14節)はユダ部族の長老の一人だったかもしれません。17章8-16節の物語に、ヨシュアもフルも登場しています。ヨシュアはモーセの後継者となります。だからモーセだけが登らなくてはいけないはずなのに、ヨシュアもモーセに同行します(2・12・13節)。フルはユダヤ人の伝説によればモーセの姉ミリアムの夫です。だからモーセの留守の際の代理を行うことができるのでしょう(14節)。

このような構成で成人男性だけで74人の食事が行われます。この人たちが「イスラエルの子らの代表者たち」です。彼らは特権的に神を見ることができました(10-11節)。「神を見ると死ぬ」と信じられていたにもかかわらずです。実際には直視することはできなかったのだと思います。よく読んでみると、彼らが見たのは、神の足の下にある「天」(サファイアの敷物のような物、大空のように澄んでいるもの)です。微妙な言い回しで、聖書は彼らが神を「見たようで見ていない・見ていないようで見た」と語っています。

「見たようで見ていない・見ていないようで見た」という事態は、ルカ24章を思い出させます。二人の弟子はエマオという町に行く途中で復活のイエスに出会い長時間話し合っています。しかし、イエスであると気づきません。見えているようで見えていないのです。ただし夕食の場面でイエスがいつもの仕草でお祈りを捧げ、パンを裂いて彼らに渡した時に、見えたのです。ところが逆に、見えた瞬間にイエスが見えなくなります。

その後の二人は、もはやイエスを見えない状態であっても信じ続けることになります。彼らは神を見ないけれども見ています。晩餐のときにパンを分け合うときに、毎回復活のイエスを見ているのです。見ているようで見ていない・見えていないようで見ている。これが復活のイエスへの信仰です。

この和解の契約の後の食事は、神の赦しを示すものでした。出エジプト記24章11節に、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので・・・」とあります。ヘブライ語「手を伸ばす(手を投げる、手を派遣する)」という言葉の意味は、この文脈では「殺す」ということです。聖書の神は正義・公正の神です。自分が創り・救ったイスラエルの民もまた、正義の神の前では全員殺されなくてはならないほどに罪深いわけです。しかし同じ神は自分が創り・救った民を惜しむ神でもあります(ヨナ書4章10-11節)。それを愛と呼びます。聖書の神は一人二役です。正義を貫き、同時に愛を貫く神です。和解の契約後の食事は、神の赦しや、神からの無条件の肯定(大いなる然り)、神の前に立つことができないほど恥ずかしい者たちを、神が認めて再出発させるという性格のものです。

ガリラヤ湖畔でイエスと朝食を共にした七人の弟子たちは、自分たちを本当に恥ずかしい存在と思っていました(ヨハネ21章)。特にペトロという弟子は十字架の前夜、三度も「イエスを知らない」と否定しました(同18章15-24節)。逮捕され殺されるかもしれないことが怖くて、ペトロは信仰告白ができなかったのです。ペトロは自分がイエスを見殺しにした罪を思い知っています。謝罪すべき相手が亡くなってしまった場合、自責の念はさらに強まります。

イエスはそのペトロのために先にガリラヤへ行き、ペトロを待ち構えて和解の食事を用意しておられました。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」(同21章15節)。ペトロは「はい」と答え、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」=「教会という交わりの指導者となりなさい」という使命をペトロに与えます。この問答は三回繰り返されます。ペトロが三回否定したので、イエスは三回肯定させたのです。しかもペトロが謝る前に。赦しというものは、そのままで良いという面だけでなく、新たに生き直すという面も含みます。悔い改めを含まない赦しは、安価な恵みです。

イスラエルの民に手を伸ばさず赦した神は、イスラエルを遠くまで派遣します。エジプトに戻すのではなく、前へと放り投げます。イスラエルもまた支配されたがるという罪を持っていますし、内部で支配欲を持つ者もいます(16-17章)。神は和解の食事で罪深いままのイスラエルを派遣します。ファラオと奴隷の関係・主従関係・上下関係ではない共同体を「約束の地」で創るように、「わたしの羊を飼うように」と派遣します。

わたしたちの毎週行う主の晩餐についての示唆が、今まで申し上げてきたところにあります。十字架前夜の「最後の晩餐」だけではなく、復活のイエスとの夕食(晩餐)と朝食も、主の晩餐の模範例であるということです。見えるようで見えない復活の神を、会衆という交わりを見ながら、見ずに信じることが大切です。復活の神は、大いなる然りをもって、わたしたちに新しい生き直しの道を毎週与えています。和解の食卓は、神と人を結びつけ、人と人を結びつけ、人と被造世界とを結びつけることを象徴する儀式です。十字架の釘跡を持つイエスの手は、パンと杯を持ち上げ祝し、パンと杯をわたしたちに渡し、そのような仕方でわたしたちを外へと放り投げます。「教会で行っている、互いに仕え合う愛を、外でも行なえ」と促します。

さて出エジプト記24章12-18節の読み解きにおいては視点を変えます。この箇所は、モーセの歩みと復活後のイエスの歩みとを比べると分かりやすいと思います。ここでモーセはただ一人神と出会うためにシナイ山を登り(準備期間六日)、四十日四十夜神と共に過ごします(18節)。その後、山を降りるときに、従者ヨシュア(ギリシャ語風に綴るとイエス)から、アロン率いるイスラエルの民が反乱を起こしていることを聞きます(32章)。反乱の鎮圧後、もう一度律法が渡され再契約がなされます(34章)。つまり和解の食事の直後に契約破棄と再契約がなされているということになります。アロンとフルを信じて留守にした結果、民は契約違反を犯しました。

復活後のイエスはゴルゴタの丘を降りて三日目に復活させられ、四十日間弟子たちと共に過ごします(使徒言行録1章3-5節)。その後、イエスは天に上げられ、雲に覆われ見えなくなります(同9節)。そしてペンテコステ(五旬祭/七週の祭)の日に、聖霊が弟子たちに降り教会が誕生します(同2章)。モーセとイエスの動きが逆であることに気づきます。民を離れるモーセと、民と過ごすイエスの違いです。

モーセも神も油断しているとでも言えましょうか。あるいは人間の罪というものが予測不能なほどに深刻であるとも言えましょうか。人間の群れは指導者を見失うと飼う者のいない羊のようにばらばらになりやすいものです。どんなに平たい組織にも、責任を負う人は必要となります。水平な結社であるバプテスト教会でさえも牧師を置き、無政府主義を採らない理由でもあります。自由と平等を手にした瞬間に、混沌と混乱が起こる場合があるので、必要最低限のルールや組織や長がどうしても必要となるのです。

第一の契約の際の失敗を、神は第二の契約において修正しています。羊の大牧者である神の子イエスの不在期間をなるべく短くしているからです。神は、なるべく早く、具体的には十日以内にイエスの霊を派遣します。そうでなくては、信仰共同体はばらばらになり、内部での争いによって自己崩壊していくことを、神はご存知なのです。そしてこの四十日をイエスは、ペトロやマリアやトマスら後の教会指導者たちの研修期間としています。「わたしの羊を飼いなさい」と命じ、「なぜ泣いているのか」と問い、「見ずに信じる者は幸いである」と諭して、教育をしています。モーセの従者ではなく、モーセの主であるヨシュア(イエス)が、これをなします。

イースターを迎え、丁度2015年度をしめくくり、2016年度を始めようとしているわたしたちは、復活のイエスの伴いに感謝すべきです。毎週の晩餐において、神はマメに臨在しておられます。罪深いわたしたちと契約を再更新し、わたしたちを養い・励まし・慰め・諭しておられます。復活のイエスと共に毎日生き直して歩く人生に、すべての人が招かれています。