祭司の王国 出エジプト記19章1-9節 2015年10月25日礼拝説教

出エジプト記19-24章はモーセ五書の中心です。そして全旧約聖書の中心とも言えます。旧約という言葉は、旧い契約という意味です。これはキリスト教徒の考えに基づいた言い方です。キリスト教会は、イエス・キリストによる恵みとそれに対する信者の応答を新約(新しい契約)と呼ぶから、それ以前の恵みと応答を旧約と呼んでいます。その旧い契約が、出エジプト記19-24章に記されている、シナイ山の上で神とイスラエルが結んだ約束です。

旧約という表現はユダヤ教徒の目から見ればまったく失礼な言い方です。彼ら・彼女たちにとっては、シナイでの契約だけが唯一無比の契約だからです。特にホロコースト後の時代を生きるわたしたちは、ユダヤ人虐殺の温床ともなった旧約聖書軽視の姿勢を反省すべきです。だから聖書全体を、二つの中心を持つ楕円形として考え直す必要があります。シナイ契約とキリストによる契約です。シナイ契約は、十字架と復活によって廃棄されたのではなく、その独自の意義を持ち続け、聖書の中に今も刻まれています。その構えによってキリスト教徒はユダヤ教徒と(さらにはイスラム教徒とも)、「経典の民」として同じ正典を共有する友人・隣人になりうるでしょう。

またはもう一つの尊重の仕方もありえます。旧約を新約の核とするという考え方です。ユダヤ教からキリスト教は生まれたのですから、新約の中心に旧約があるというのは自然な考えでもあります。新約聖書の教えの根っこに旧約聖書があり、教会はイスラエルの伝統に根ざしていると考えるのです。こう考えると、旧いことは悪いことでもありません。イエス・キリストによる救いの中心部分は、すでに旧約に語られています。まさに今日の個所は、旧約の中心であり、それゆえに全聖書の中核でもあります。キリストの恵みと、それに対する教会のなすべき応答がここに語られています。「わたしにとっての救いとは何か」、「わたしたちバプテスト教会はどのように生きるのか」も、その核となる部分が教えられています。今日はこの視点で読み解きます。

神とイスラエルは何を約束したのでしょうか。神の側から言えば「わたしはあなたたちの神となる」という約束であり、民の側から言えば「わたしたちはあなたの民となる」という約束です。具体的には、神は民を自分の宝物として大切に守るということを約束したのです(5節)。常に共に居て救い出すこと、イスラエルがどのような状況でも、無条件に愛して守り抜くこと、特にイスラエルが困っているときに救うことを、神は誓いました。奴隷であったイスラエルを自由に解放したことは、神が自分の約束に忠実であったことを示します。

この救いを美しい詩的表現で、「あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来た」(4節)と神ご自身が語ります。ここでの鷲は複数形です。だから、一羽の鷲が180万人を乗せているのではありません。一羽が一人を乗せているイメージです。そして「わたしのもと」というのは、神の山・シナイ山のことでしょう。エジプトの奴隷はレンガづくりをさせられ、地べたを這いつくばるようにして働かされていました。そしてファラオを現人神として拝ませられていました。そこから、自由になることは一人一人が鷲の翼に乗って空を飛ぶような心地になるということです。低みから高みへ、イスラエルは軽やかに飛翔したのでした。

キリストの救いは空を飛ぶ自由に似ています。「イカロスの翼」というギリシャ神話や、「翼をください」という歌にもあるように、空を飛ぶことは人類の永遠のあこがれです。自分では飛べないので、あこがれにとどまるものです。神が遣わした鷲によって空を飛ぶことは、キリストによって解放された一人一人の自由な生き方に似ています。イエスによる救いとは、日常生活を自由に暮らすことと言えます。

救いとは、今までは何かの奴隷であった者・名前を奪われ個性を無視されていた者たちが、個人として尊重されたという実感を持ち、個人として穏やかに堂々と生きることです。確かに職場も家庭も学校も環境は変わらないかもしれません。しかし、何かが変わる経験です。名前のない「その他大勢」に過ぎないと思い込まされていた自分が、実はかけがえのない存在であり、「宝」とまで評価されていることに気づく。聖書を読む時・教会につながる時・礼拝に参加する時、そのような実感を持つならば、わたしたちはエジプトの奴隷から、神の山に連れ出され自由になったイスラエルと同じ経験をしています。

日本社会は自己肯定感を持ちにくい社会です。ここでの福音は、「あなたが神の宝だ」という無条件の肯定です。尊厳の賦与または尊厳の快復です。尊厳を傷つけられている人は素直になれません。「豚もおだてれば木に登る」とあるように、鷲の翼に乗せ・天にも昇る気持ちにさせる言葉と行いが、人を生かすのです。無条件の救いという恵みとはそのようなものです。まず先に神が恵みを与えておられます。

その神への応答として、イスラエルの民は「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(8節)と約束しました。「主が語られたことをすべて」とは、シナイ山で神が延々と述べる律法のことです。出エジプト記20章から始まり(時々物語が挟まるとしても基本的には)申命記にまで及ぶ長大な法律を、主は語られました。この律法を守ることが民の側の約束です。恵みを施す約束と、恵みへの応答を果たすという約束。この双方があって契約が成立します。欧米は契約社会と呼ばれますが、その根っこには聖書があります。約束についての厳密さは日本社会に馴染みが薄いのですが、それだからこそこの契約という考え方そのものが福音となります。約束を守ることで個々人が人間として「引き上げられる」からです。

順番が大切です。律法を守ることが条件となって神が奴隷から自由民へと救い出したわけではありません。一方的に神はエジプトからイスラエルを脱出させました。イスラエルがしたことは、ただ神に向かって叫んだだけです。神は奴隷の叫びと呻きを聞いて降りて行って、鷲の翼に乗せて救い出したのでした。「ナザレのイエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ人々を、イエスが「あなたの信があなたを救った」と言って救い出したのと同じです。

このようにして救われた人は恵みへの応答を必ずします。どんな人も恩義のある人に何かをお返ししたくなるでしょう。それは義理のお返しなどとはわけが違います。または恩人から、「これだけは守りなさい」と言われたら、その助言に喜んで従うはずです。神とイスラエルに起こったのはそのような関係性です。恵みへの応答として律法を聞いて行うという約束です。

イエスはこの長大な律法を、三つの命令にまとめました。一つ目は「神を愛しなさい」、二つ目は「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マルコ12章28節以降)、そして三つ目に「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)です。神を愛することとは、礼拝をするということです。礼拝は神のために時間と体をささげる行為です。そして裏を返すと神のみを畏れ・拝むことは、人間を恐れない・拝まないということです。隣人を愛することとは、自分から倒れている人を助けることです。困っている人を見たら、見て見ぬふりをしないで介抱することです(ルカ10章25節以下)。互いに愛し合うということとは、お互いに仕える教会という交わりをつくること、その輪に加わることです。

この恵みへの応答を今日の箇所は「祭司の王国」をかたちづくることと表現しています(6節。Ⅰペトロ2章9節も参照)。この言葉はバプテスト教会の特徴の根っこを言い当てています。今日の箇所では、モーセが神と民の間を走り回っていることが目を引きます(3・7・8・9節)。このような人を祭司と呼びます。神と民の仲介者・民の代理人です。一人しか仲介者がいないという状態は、理想の交わりとは言えません。モーセ自身も後に言っているように、彼は全ての人が自分のような仲介者になってほしいと願っています(民数記11章29節)。住民全員が祭司である国を「祭司の王国」と言います。全員が「聖なる国民」です。古代国家にこのような形態はありませんから、祭司の王国は理想として描かれています。

祭司の王国ではすべての住民が直接に神を礼拝できます。仲介・代理の者を立てる必要がありません。個々に自由とされた元奴隷は、今や神の子の尊厳を与えられ、神を自分の最大の保護者として祈ることができます。祭司が作成した祈祷文ではなく、自分の言葉で「アッバ(お父ちゃん)」と祈ることができます。祭司からの判定によって、「あなたは清い」または「汚れている」などと言われる筋合いがありません。自分の確信によって「救われている」と感じる限り、その人は救われているのです。按手礼を受けた牧師による儀式によって救われるのではありません。イエス・キリストが直接その人を救うのです。神が清いと言っているのに人間が汚れていると決めつけてはいけません(マルコ7章16節、使徒言行録10章15節)。万人祭司とはこういうことです。

祭司の王国には人間の王がいません。神だけが王です。だから人間社会のピラミッドはありません。礼拝の場面で神だけが拝まれることは、その他の被造物はすべて平等であるということを意味します。人間の王の奴隷ではなく、神という唯一の王の礼拝者として、すべてのいのちが「イエスは主である」と告白する、これが礼拝です。

このような交わりをつくることが、恵みへの応答です。礼拝を毎週続けながら、教会の外の困っている人を助けながら、互いに仕え合うことを、救い主に対する約束として行うのが新しい契約です。

今日の小さな生き方の提案は、神との契約関係に生きるということです。

一つは自分に恵みが注がれていることに気づくことです。誰からも尊重されていないという思いで悶々と暮らしている人にも、不条理の苦しみによって日々苦労している人にも、いや正にそのような人にこそ、神は「あなたがわたしの宝」と語りかけています。教会の中でも外でも神はそのような人を直接救い、神の子としての尊厳を快復します。その救いが、苦しい毎日を生き抜く力となります。この恵みに、今気づくことをお勧めいたします。教会に来るとほっとすると思っている人・自分が大切にされていると感じている人には、それがキリストの救いであると気づいてほしいのです。

二つ目は恵みへの応答です。応答なしの恵みはアヘンです。神への愛・隣人への愛・内部の相互愛を実行することです。これらの行いは救いの条件ではありません。救われたと思う人が喜んでなす行いです。いのちの恩人にせめてものお返しをするという行いです。またいのちの恩人にあたかも遺言のように言われた教えを、忠実に守るという行いです。

さて三つの愛のうちで最も簡単なものは相互に愛することです。具体的には教会員になるとこと・祭司の王国の住民となることです。死ぬまでずっと礼拝できるか自信はありません。隣人愛をするのも勇気と体力が要ります。教会という交わりの一員になり互いに尊重することをお勧めいたします。