聖霊によって ルカによる福音書10章13-24節 2017年6月4日礼拝説教

今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)という祝祭日です。復活祭から七週目にあたる日曜日は、教会の創設記念日としてお祝いされています。教会暦においては、「三位一体節」という季節の始まりでもあります。この三位一体節は、待降節(アドベント)が始まるまで続く、教会暦の中の最後の、そして一番長い季節です。神から、またイエスから派遣された聖霊が降り教会が生まれたことは、三位一体の神の出来事です。今日は、ペンテコステと三位一体の神を意識しながら、聖書を読んでいきたいと思います。

13-15節は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤ地方の三つの町に対する、厳しい言葉です。「お前は不幸だ」(13節)とあります。もう少し厳しい表現です。「あなたがたに災いがあるように」というほうが直訳調です(田川建三訳参照)。16節を含めると、この三つの町に住んでいた住民が弟子たちの言葉を聞かなかったから呪われているように読めます。学者の多くは、イエスもしくは初代教会の宣教が失敗した町に向けての呪いの言葉と理解しています。

しかし、そうなると今までのガリラヤでの活発な活動は何だったのかという問いが起ります。特にカファルナウムは、イエスの活動を受け入れており、教会の創設も推測されています。ペトロとアンデレの家に集まる人々がペトロの義母に導かれていったことがカファルナウムで起こっています。イエスの出身の町ナザレが叱られる方がよっぽど自然です(4章参照)。

むしろ16節は20節までの一塊を形成しているように思えます。ルカ福音書だけが16-20節の部分を伝えていることも、そのことを示唆しています。七十二人の弟子たちが「悪霊まで従った」と喜んで報告することと、弟子たちの言葉を聞く人は弟子たちを遣わした神を受け入れているとの話が重なるからです。

では13-15節は誰に向かって何を語っているのでしょうか。わたしは、「イエスの神の国運動に参与している人々に向かって、イエスが語っている悔い改めの勧め/警告」と捉えます。マタイは悔い改めなかった町への叱りつけとしていますが(マタイ福音書11章20節)、ルカにその部分はありません。歓迎しなかったサマリア人の村に寛容な姿勢で臨んだイエスの姿と矛盾してしまうからでしょう。悔い改めるべきは外部の人々ではなくて、内部の弟子たちなのではないでしょうか。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の中で、さらに言えばテュロスやシドンの町の中で(6章17節参照)、神の国運動に関わっている人々ではないでしょうか。つまり、イエスの発言は、神の国運動内部の自己批判と自浄作用です。

神の国運動に参与している人には独特の高揚感があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえわたしたちに屈服します」という達成感です(17節)。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」(19節、なおマルコ福音書16章17-18節も参照)とイエスは弟子たちに言いました。この言葉をもとに自分たちは特別な存在であると思い上がってしまう場合がありえます。「天にまで上げられるとでも思って」しまうという過ちです(15節)。バベルの塔を建てた人々の支配欲と大差ありません。天にまで昇る心持ちで舞い上がることは良くないのです。むしろ、弟子たちは徹頭徹尾地上に生きなくてはいけません。天には名前が記されているだけで良いのです(20節)。

地上には何があるのでしょうか。地上には天から落とされたサタンがいます(18節)。「見ていた」は未完了過去時制の動詞で、過去の一定期間の繰り返し動作を示します。イエスが誘惑に打ち勝ち追い出したサタンは(4章1-13節)、何回も天の宮廷で、誰かに誘惑をすることを神に願い、神からの許可を得て(ヨブ記1章6節-2章10節)、天から地に稲妻のように落ちています。イエスに従う弟子たちは、このサタンの誘惑に地上で面と向かわなくてはいけません。なぜなら唯一天に昇ることができる方(イエス・キリスト)でさえも、その誘惑を受けたからです。

キリスト教信仰は非信者への優越感を得ることではありません。むしろキリスト教信仰は、自分を省みる力を養います。自分の信念を持つことは良いことです。しかし、「もしかすると自分の信念は間違えているかもしれない」と常に思うことは、さらに良いことです。信念は容易に自己絶対化を生み、神ならぬ神を造りだしてしまうからです。悪霊祓いに成功することは、この類の自己絶対化という誘惑を引き起こします。だから「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」(20節)のです。むしろ、誘惑者として登場する蛇やさそりを常に克服していく祈りが必要です(創世記3章参照)。わたしたちの敵とは、結局のところわたしたちの内側にある「自分を神とする」誘惑です。それを罪と呼びます。

七十二人はサマリア地方から身を翻して、ガリラヤ地方のコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町や村も巡回したと思います。それらの町で悪霊払いが成功し、人々が福音を聞き、弟子たちを受け入れたとしても、思い上がってはいけません。正にその得意の絶頂の時にこそ、弟子たちは誘惑に直面するからです。イエスの名前に力があるのであって、自分の名前に力があるのではありません。わたしたちの支配欲に従って神の国は広がるのではありません。むしろイエスの名前を通して祈る時に、神がこの地上にみ心を行うのです。

このように神の国運動は非常に逆説的なものです。貧しい時にこそ幸いであり、富んでいる時にこそ不幸なのです(6章20・24節)。誰からも相手されないときにこそ神はわたしたちの近くにあり、誰からも喜ばれるときにこそ悪魔は近くにおり、罪は戸口で待ち伏せしています。教会は、イエスが開始し、十二弟子によって広げられ、七十二人の弟子によってさらに広げられた神の国運動の継承者です。わたしたちが教会を形作り福音宣教をする時の注意は、常にこの逆説を保持し続けなくてはいけないという点にあります。「好事魔多し」です。逆に、「今日も順調に問題だらけ」(浦河べてるの家)という、逆説的にあっけらかんとした態度こそ、教会に相応しいものです。

わたしたちの教会は長く苦労をしてきました。礼拝人数も一桁台まで落ち込んでいました。その時にこそ神は近くにおられたのです。今ありがたいことに一頃の深刻な「消滅の危機(教会解散)」はなくなりました。このような時には注意が必要です。人間を賛美したり、己を誇ったりするのではなく、ただイエスの名前をほめたたえることが必要です。

支配欲に負けがちなわたしたちが逆説を身に付けるために、イエスは模範として一つの祈りを教えています(21-22節)。「天地の主、父(アッバ:お父ちゃんの意)よ。あなたをほめたたえます」。聖霊によって喜びにあふれて、イエスは祈るのですが、その第一声は神へのほめたたえでした。この祈りが、悪魔の誘惑に打ち勝つものです。地上を離れて天に昇ることや、地上に階段を作って隣人より高い段に登ることではなく、天地の主・天から地までの全世界を支配しておられる神を覚えるべきです。

そしてこの主を「お父ちゃん」と親しく呼びかけるべきです。こうすることで、わたしたちは童心に帰ることができるからです。逆説は知恵ある者や賢い者には隠されています(コリントの信徒への手紙一1章18-24節)。幼子のような者だけに示された真理です。神を「お父ちゃん」と呼びかけることができる素直な心が、わたしたちの模範です。ここに自然な形での謙虚な生き方が示されているからです。

こうした自己浄化システムをもって傲慢にならない集団、低みを目指す群れ、仕え合う神の子どもたち、「平和の子」の交わりは、旧新約聖書を貫く理想の共同体です。多くの預言者や王たちは、政治権力を用いて、このような共同体を形作りたいと願って努力をしてきました。しかし、それはイエスの周りに形成された「神の国」が来るまで達成できなかったのです(23-24節)。

イスラエルと教会の歴史は、政治権力による神の国建設の挫折を示しています。国家滅亡後、ユダヤ人たちは捕囚の地で信仰共同体を形成して、「ユダヤ教団=神の民」という道を歩きます。イエスの神の国運動の特徴は完全に任意団体であるということにあります。キリスト教会はこの道をさらに広げました。ユダヤ人以外にも信仰共同体(神の民)に入ることを認めたからです。ペンテコステの意義はそこにあります。長い教会史の中で教会は政治権力そのものになったこともありました。教皇が皇帝よりも強い権力を握った時代すらありました。十字軍などを見る時に、それは過ちだったと明言できるでしょう。そこでバプテストは完全に国家の庇護を離れて任意団体となりました。政教分離原則です。

国家はそのままの姿で神の国になることはできません。もしそのようなことが起れば、神の国を自称する国家は、自分自身を偶像化した「獣」となります。そうではなく、任意団体としての神の民が、来るべき神の国の模範例を世界に示すのです。そして任意で教会の仕組みを学びたい人々が増え、教会の自治組織を真似る団体が増えるにつれ、徐々に世界は「教会化」していき、より良い政治権力を作るようになります。

より良い政治権力の模範としての教会の模範は、ペンテコステにおいてはっきりとした三位一体の神の交わりにあります。神はイエスを派遣し、自分の代理として全権を委任しています(16・22節)。両者の信頼は強いものです。その信頼をさらに強めるものが聖霊です(21節)。聖霊が両者の対話(祈り)を促します。この聖霊も、神から派遣され、イエスからも派遣されています。こうして三者は入り組んで、相互に平等であり、相互に代理し、相互に尊重し、相互に浸透して、相互に関わり続け、時に建設的な相互批判をしながらも、対話的信頼を強めています。キリスト教信仰は、唯一神信仰ではなく三一神信仰です。三一神の交わりが、多様な人々によって成る教会と、色々な生命を含み、多元的な思想に寛容な民主社会の模範です。

このような交わり、相互に信頼するために対話する共同体が、神の似姿である教会の姿です。多くの預言者や王たちが望んでいたのに見ることも聞くこともできなかった神の国です。さまざまな価値観を包容する民主社会の一員として教会は、世界の中に存続しています。キリスト教信仰という一つの価値観を共有していますが、それ以外は全くばらばらな一人一人が集まり、三位一体の神に倣う、公正・平等・相互尊重・相互浸透した自治の交わりを形作っています。このような教会という制度が、会社や、自治体や、家庭や、国家や、最終的には国家間連合、国際連合に取り入れられていく時に、神の国は完成します。

今日の小さな生き方の提案は、聖霊を宿すこと、自己浄化システムを自分自身の内に持つことです。罪を知り、神を賛美することです。そして自分がほめたたえ承認した三一の神に倣うことです。上下支配関係ではなく、相互尊重関係へと、それぞれの生きている場所で交わりを深化させていきましょう。