腰をすえて ルカによる福音書14章25-35節 2017年12月3日 待降節第1週 礼拝説教

本日よりアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストがこの世界に来られたということを記念し、ルカ福音書を読み進めながら、四週間にわたり神を待ち望む希望を強めていきましょう。アドベント第4週のクリスマス礼拝は、「放蕩息子の譬え話(前半)」になる予定です。

本日の箇所には繰り返されている表現があります。「わたしの弟子ではありえない」(262733節)という言葉です。この言葉をもう少し直訳調にして、「わたしの弟子であり続けることはできない」と柔らかめに解釈します。逆に、「わたしの弟子となることはできない」とヘブライ語に遡って厳しめに訳す人もいますが、ギリシャ語話者ルカの気持ちに立って、「あり続ける」とします。

本日の箇所は、キリストに従い続けることについての教えです。この短い範囲の中に、五つの教えが含まれています。しかもそれらは、お互いに無関係であったり、お互いに矛盾するのではないかと思われたりするものでもあります。言わば、「星座的な教え」です。個々の星はかなり距離があって、無関係に見えますが、遠くから見ると一塊なのです。多元主義pluralismとも言います。真理は一つではないという考え方です。キリストの後ろをついて歩いていく際に、いくつもの従い方があるということを、ルカとルカの教会は主張しています。

安息日の午後、食事を終えてファリサイ派の指導者の自宅を出ると、イエスの後ろには大勢の人々がついて歩いていました(25節)。弟子になるということは、イエスの後ろを歩くということですから、この人々はイエスの弟子となっています。ご自分の弟子たちに向けて、イエスは語りかけます。

父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に自分の命であろうとも、それらの価値を軽いと評価しなければ、わたしの弟子であり続けることはできない(26節)。これが第一の従い方です。イエス以外のものを第一のものにしないという考えに立って生きることです。十戒の第一戒・第二戒に忠実な生き方です。どんなものも偶像としない、神のみを絶対とする、それによってすべてのものは相対化され、大したものではなくなります。殉教をも促す強さが、この第一の従い方に示されています。

しかし、続けざまにそれとは正反対ともとれる従い方をイエスは示します。「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子であり続けることはできない」(27節)。自分の十字架とは人生の苦難のことです。人生の苦難を背負い続けるということは、自分の命を大切にする。絶対に死なない、あきらめない。自分の命を憎まないという生き方です。自分の命の価値は最大限に高められているので、第二の従い方は第一の従い方とかなり緊張関係が強いものです。もしこれが、「イエスの十字架を背負え」という教えならば、他者のために命を捧げよと言っているようなものですから、第一と第二は近くなります。しかし、「自分の十字架を背負え」と言っているので、両者はほぼ矛盾します。

十字架は苦難だけではなく使命をも意味します。そうなれば、「自分がやりがいをもって打ち込んですべきことに集中せよ」という教えにもなります。その使命が、狭い意味の教会のための奉仕であるかは不問です。自分が背負いたいものを、各人は背負うべきです。キリストのために死ぬことではなく、自分のために生きることが、逆説的に「キリストに従う」ということになります。

第三の従い方は、また別の視点です。塔を建てる者の譬え話(2830節)はルカにしかありません。この譬え話は、計算高くあれ、計画をきちんと立ててから実行せよという教えです。キリスト者であり続けることは、まず座ってじっくりと計算することなしに完成しないというのです。

教会が会堂の建築計画をする際にも、資金繰りや借金の返済計画を立てるはずです。キリスト者であり続けることは熱狂的な感情だけでは完成しません。ある種の冷徹な醒めた目が必要です。「あなたの後ろにどこまでもついていきます、牢獄までも従います」と言った弟子が、十字架前夜に散り散りに逃げたことが思い起こされます(22章)。

すべての法律の前提に、「人間は自己の計算の上に合理的な判断をする存在だ」という考えがあります。人は利己的で打算的だということです。自己中心を罪とのみ捉え、それを否定することや、常に否定的に取る必要はありません。打算はキリストに従う、第三の道です。礼拝に来るために体を壊してはいけません。自分のために休むべきです。無理して来て一ヶ月入院するよりも、二回休んで三週目に来た方が良いでしょう。そうして、一生通い続ける方が良いでしょう。完成することの方が、より重要だからです。

「完成する」(エクテレオー)は新約聖書中ここでしか使われない特別な言葉です。意味合いとしては、「完全にやり切る」ということです。細く長くキリストに従うことは尊いのです。医者ルカの牧会姿勢が垣間見えます。教会で体を壊してはいけません。こういうわけで、第三の従い方は、第一の「イエスが一番」よりも、第二の「自分の人生が一番」に近いものです。

第四の従い方は、「王の戦いの譬え話」に示されています。これもまた別の視点を提供しています。第四の従い方は、まず座って熟慮するという点で、第三の従い方と似ています(2831節)。第一と第二は、考えることよりも意思の強さに重きが置かれています。第四の従い方は、状況に応じて妥協して生きることです。相手の方が確実に強い場合、近寄って戦うよりも遠くにいる間に仲良くなった方が良いと言うのです。自分の弱さを悟られる前の和解です。

相手が神の場合もあるし人間の場合もあるでしょう。宗教religionとは「(破れた関係の)結び直し」を意味し、キリスト教の場合は「神との和解」として表現されます。神には敵わないと知り、和を乞うこと、降伏すること、「あなたの勝ちです」と参ることが、キリストを信じること・キリストに従うことです(エレミヤ書207節)。

さらに相手が人間の場合にも、無理して葛藤しないことも第四の従い方に含まれます。ヤコブが、双子の兄エサウと対面する前に、遠くにあるうちから和解に努力していたことが思い起こされます(創世記3233章)。対立構造をつくることは不毛ですし、あえて自分から十字架を背負い込むこともありません。人間社会の中で様々に譲歩することもまた、キリストに従うことの一形態です。「一億総玉砕」のような思想はなじまないわけです。むしろ、譲歩や妥協は、将来の計画を立てるということにつながります。31節の「考える」(ブーレウオー)をパウロは、「計画する」という意味で使っています(コリントの信徒への手紙二117節)。よく考えて、敵を作らずに回り道をする行為も、キリストに従うということなのです。

第五の従い方は、所有物に対する態度です。「自分の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子であり続けることはできない」(33節)。「一切捨てる」と翻訳されているのはアポタッソーというギリシャ語動詞です。ここでのこの言葉の意味は、「自分自身を離して置く」というものです。「一切」という動作を強める意味はありません。「自分の持ち物と自分自身を離して置かないならば、わたしの弟子であり続けることはできない」。

ここでは所有物に対して距離をもって接しなさいと言われています。だから2732節を飛び越えて、第一の従い方と呼応しています。神が第一であれば、肉親も自分の命も第二以下のものになります。「だから、同じように」(33節)、所有物も第一のものにはなりえないのです。キリストに従う者は、所有物を神としてはいけないということです。神と富とに兼ね仕えることはできません。

この第五の従い方は、打算的であれ(第三の従い方)、妥協的であれ(第四の従い方)と、かなり方向性が異なります。同じ段落にまとめて、五つの従い方を一つの小見出し「弟子の条件」と括ることは、かなり困難です。弟子の条件というよりもむしろ、ここには、ルカ教会に集う人々の多様性が映し出されています。「教会に連なり続けている人々の現実」とでも言えば、小見出しとしてふさわしいのでしょう。

五種類の従い方を、まとめるためにルカはここで「塩の譬え」を配置します。マタイによる福音書・マルコによる福音書では同じ塩の譬え話が全然違う文脈に置かれているので、この譬え話も当初ばらばらに伝承されていたものでしょう(マタイ513節、マルコ950節)。それを、ここに置いたのはルカの手によるものです。弟子であり続けることと、塩気を失わない塩であり続けることが重ね合わせられています。

「塩は良い。しかし塩も塩気がなくなれば、捨てられるだけだ」(34節)。塩であり続けることが尊いのです。では、塩としてのキリスト者について、マルコとマタイの箇所をも参考にしながら、深掘りしてみましょう。マタイによれば、塩は光との対比で地味だけれども大事なものの譬えです。マルコによれば塩を内側に持つ人は、人間社会で平和を作り出すことに役立つ人です。

キリストに従い続けることは、社会にとって役立つ行為です。第一の生き方のように「思想・信条の自由」を体現する人が、地味ではあっても社会に必要です。人権の中核をなすからです(憲法1921条)。ただしその強い信念も、本人の命を損なうものであっては批判されるべきです。第二の従い方は、個人の幸福追求権(憲法13条)と呼応しています。これも地味ですが、「我がのままである人」の存在も、社会にとって塩味のように必要とされています。第一と第二の従い方は、社会の塩として少数者が居るということを思い起こさせます。その人たちがどのように遇されているかが社会の成熟度を示します。

第三の生き方は熟慮を促すので、軽薄短小かつ煽られやすい短絡の世相の中で、貴重です。計算できない人は騙されやすい人でもあります。未明の北朝鮮のミサイル発射によって誰が得するのでしょうか。トランプ大統領が来日して、税金で武器を買う羽目になることで、誰が得をするのでしょうか。租税回避をしている大金持ちでしょうか。わたしたちは税金の使い道について計算し計画すべきです。賢く判断する行為がキリストに従うことです。「塩気をなくす」という言葉の直訳は「愚かになる」です(ローマ122節)。

第四の従い方も地味です。対立が起こる前の予防だからです。互いに平和に過ごすことは本当に大事なことです。敵とも味方とも適切な距離を保つことが必要です。料理の味をまとめる塩になる、主役ではない引き立て役がキリスト者の役割です。それは自分の所有物に対しても言えます。所有物に所有されること、つまり物欲という誘惑に飲み込まれない必要があります。自分の所有物を他者のために用いる(離して置く)ことで、欲望にブレーキがかかります。キリスト教世界の「寄付の文化」は、世界をまとめる塩としての貢献です。

今日の小さな生き方の提案は、所与の条件下で自分なりにキリストに従うということです。模範例が五つ示されています。いつも全部の塩味ではなく、時々どれかの塩味で構いません。いずれにせよ細く長く、この礼拝に繋がり続けましょう。わたしたちは種々雑多な群衆です。主を中心に座り、それぞれは星のように置かれています。互いに尊重し良い距離を保って星座を形作りましょう。