自分の家に帰りなさい ルカによる福音書8章26-39節 2017年2月5日礼拝説教

今日の箇所は先週の続きです。「(ガリラヤ)湖の向こう岸に渡ろう」(22節)というイエスの言葉に促されて弟子たちは「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」にたどり着きます(26・37節)。さらに言えば、この後、もう一度ガリラヤにイエスは帰ってきて、一人の女性の病気を癒し、もう一人の女性を蘇生させます(40-56節)。ここまでが一連の出来事です。マルコ福音書と同じようにルカも、嵐を静め、ゲラサ地方の男性を癒し、二人の女性を癒す物語を一つの出来事として報告しています。一貫した主題は、「復活」にあります。先週取り上げた「嵐の中で起き上がるイエス」は(24節)、「亡くなった少女を起こす」復活の主です(54節)。このような見通しのもと、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という物語を読んでいきましょう。

ゲラサという町は、ガリラヤ湖から南南西に50-60kmも離れた場所にあります。デカポリス(「十の町」の意)の中心都市として栄えた町です。「ゲラサ人の地方」は、「ゲラサの町」という狭い意味ではなく、「デカポリス周辺地域」という広い意味で使われています。そうでなければ、湖岸を舞台にした物語と文脈的に合わなくなってしまうからです。豚が一日の間に60kmも走破して湖に入ったとは考えにくいものです。デカポリスは、ガリラヤ地方に住むユダヤ人たちの入植・移住も増えていたようですが、全般的には非ユダヤ人が住んでいた地域です。「向こう岸」という言葉使いは、地図上の対岸という意味以上に、ユダヤ人から忌み嫌われていた地域という意味を含んでいます。つまり、「宗教的に汚れた土地」という意味です。

だから豚が登場します。ユダヤ人にとって豚は反芻しないので宗教的に汚れている動物です。モーセの律法は、豚を食べてもいけないし、豚の死体に触ってもいけないと命じています(レビ記11章7-8節)。だから放蕩息子の譬え話で、弟息子が豚の世話をする破目になったのは、誰も引き受けたがらない仕事をせざるを得ないほどに、非常に落ちぶれたということの喩えなのです(15章15節)。そしておそらくペトロが見た夢の中の「汚れた物」には豚がいたことでしょう(使徒言行録10章12節)。この場合豚は非ユダヤ人の喩えです。ゲラサ人の地方は、異文化に満ちた非ユダヤ人の多い地域であり、敬虔なユダヤ教徒にとってはできれば行きたくない場所です。

さらに、悪霊の名前自体にも、ゲラサ人の地方の特色が出ています。「レギオン」はローマ帝国の公用語ラテン語の単語です。軍隊の単位で「軍団」という意味です。「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」(30節)という説明は、こう考えて初めて意味が通ります。1レギオンは、5000人から6000人程度の歩兵と、120騎の騎兵を足し合わせた軍団だったそうです。一つの属州に2軍団から3軍団ほど配置されていたそうですが、デカポリスを含む属州シリアは東側で競合する敵国と隣接しているので、全体で3軍団ほどの大軍が配備されていたようです。ゲラサ人の地方に1軍団のローマ帝国軍がいたとしても不思議ではありません。ゲラサ人の地方は軍隊の駐留する地域なのです。ガリラヤと同じです。だからガリラヤ人もあまり行きたくない場所です。ローマ兵は、属州の民と出遇うと突然その場で重い荷物を運ばせることも(23章26節)、そのために「一ミリオン行くように強いる」(マタイ5章41節)こともするからです。ゲラサ地方の人々が、レギオンを街の中から排除していたということは、ゲラサ地方の人々がローマ軍を歓迎していなかったことの喩えなのかもしれません。

弟子たちも含めて多くのユダヤ人が行きたがらない場所に、イエスはあえて向かいます。その目的はただ一つ。長い間悪霊にとりつかれている男性を救うためです。実にたった一つの命を救い出すために、嵐の中を舟で向こう岸に渡り、行きたがらない土地に上陸したのです。その人がユダヤ人であるかないかということは、関係ありません。

ここで悪霊について考えてみましょう。今日の箇所で「悪霊」(27・29・30・32・33・35・36・38節)や「汚れた霊」(29節)と言われているものは何なのか。また、「悪霊に取りつかれている」ということはどういう状態を指すのでしょうか。悪霊はあらゆる病気の原因とも考えられていました。しかし、この特定の文脈では、特定の意味を表しています。それは、「人間を非社会的な行動に駆り立てるもの」です。

例えば、この男性は衣服を身に着けていません。人前では服を着るという社会的ルールが守れないのです。家に住まないで墓場に住みます(27節)。現在の言い方で言えばホームレスです。誰も好き好んで野宿をしません。やむにやまれず路上で暮らすのです。彼の場合は、おそらく街の中・自宅の中、「鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていた」(29節)のですが、自分の意思とは反する力によって、荒れ野・墓場へと駆り立てられていました。そして自分に会おうとする人に向かって、大声で「かまわないでくれ」とわめき散らすのです(28節)。その人に社会を形成させない力、その人に非社会的な行動をとらせる力が、悪霊という言葉で言い表されています。

古くから精神疾患・精神障害の古代流の表現と言われている「悪霊」ですが、もう少し広い意味で取ったほうが良いでしょう。精神障害を「癒されるべき病気」と考えるべきでないからです。また、いわゆる「健常者」であっても、自分の真の意思と反して非社会的行動に駆り立てられる場合もあるからです。たとえば貧困等によって必要な教育を授けられない場合、傷害・殺人など重大犯罪に手を染めてしまうことがありえます。「その人に社会を形成させなくする要素全般を悪霊と呼ぶ」という程度の定義で良いと思います。

社会とは何か。人と人との関係です。悪霊に取りつかれるということは、社会から孤立してしまうこと、そしてその方がましだと思い込まされることです。この男性はイエスに「かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」(28節)と言います。孤立が良いという人にとっては、他人と関係を持つことそのものが苦痛です。何度も人間関係を築こうとしたけれども、その度に理解されず、かえって嫌われた経験を持つ人にとって、関係性を持つことは恐怖なのです。本心は社会の一員であろうとしていても、自分の努力では何ともできないところで苦しんでいるわけです。

そして人間の社会は関係を持つことが苦手な人を、社会的に存在しないものとみなします。自らの意思ではない十字架を背負わされ、孤立に追い込まれた人は社会的に抹殺されてしまいます。墓場に居て目の前に登場しない方が、街の人々にとって都合が良いのです。この人を無視してこの人と関係を断つ街の大多数の人々も、ある意味で悪霊に取りつかれています。

「かまわないでくれ」(28節)の直訳は、「何がわたしとあなたに(あるのか)」です。関係ということと救いということは深く結びついています。わたしとあなたに何もないときに、人は滅びます。わたしとあなたに何かがあるときに、人は救われます。いなくなっていたものが見つけられ、死んでいたものがよみがえるのです(15章)。イエス・キリストによる救いは、この類の復活経験です。誰とも関係を持てない人も、誰からも理解されない人も、「わたしとあなた」という関係をキリストとならば持つことができます。礼拝の中で、祈りの中で、賛美の中で、聖書を読む中で、キリストとの交わりを経験できます。今、「わかってもらった」と感じたなら、それが救いです。

悪霊につかれた人の救いは、その周辺の住民たちに大きな問題を引き起こしました。多くの豚がガリラヤ湖に飛び込んで、豚飼いたちに甚大な損害を与えたからです(31-34節)。悪霊にとりつかれた豚が、自らの意思と異なる行動をとって人間との関係を絶ったわけです。豚がいなくなった成り行きと、「服を着、正気になってイエスの足もとに座っている」男性を見て、人々は分かれ道に立たされました。

一つの道は、イエスの悪霊祓いを評価しイエスの活動に参与していくことです。もう一つの道は、豚を大量に殺し損害を発生させたイエスを追い出すことです(35-36節)。そして人々は後者を選び、「自分たちのところを出て行ってもらいたいと、イエスに願った」(37節)のでした。ここには「神か富か」の問いがあります(16章13節)。ローマ帝国の庇護のもと繁栄を享受しているゲラサの人々は富を選びました。また、少数の犠牲の上に多数の幸せがあって良いという思想も見え隠れします。沖縄の負担と同じように、大量の悪霊は一人の人に集約させるべきだというのです。こうしてわたしたち一人一人の救いは小さな出来事でありながら、国のあり方を問う出来事でもあります。

驚くことにイエスは、この住民たちの意思を尊重し、すごすごとガリラヤ湖の対岸へと戻ろうとします(37節)。住民たちに押し付けがましいことは一切言っていません。こうなると当然、悪霊を追い出してもらった人は同行しようとします(38節)。豚飼いに会うのも気まずいことでしょう。今までも救われた者たちが弟子に加わっていったのだから自然な申し出です。

ところがさらに驚くことにイエスは、この申し出を拒否します(39節)。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。弟子たちの中から彼を手伝う「株分け」もいたしません。「ただ一人ゲラサ地方に残された弟子として福音の宣教をしなさい」と命じて、自分たちはガリラヤに帰るのでした。大多数の住民はイエスを拒否し富を選んだのですが、その姿勢を悔い改めさせるのは一人の住民から始まるというのがイエスの確信です。

悪霊を追い出してもらった男性にとっての「自分の家」は、長い間帰ったことのない実家です。建物というだけではなく、三・四世代が共に暮らす大家族という人間関係も「自分の家」です。広くとれば大家族を囲む地域共同体も「自分の家」と言えます。かつて断たれ、追放され、今の今まで関係が無い社会に戻れ。そこで、イエスと自分が関係を結んだということ証言せよ。そうすることによって、ずたずたに裂かれた関係を結び直せと命じられたのです。

「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた(宣教した)」(39節)。彼は愚直に勇気をもって宣教しました。社会的に復活したことが本当に嬉しかったからでしょう。イエスの復活後、この男性を中心にゲラサ地方初のキリスト教会が創設されたことでしょう。教会は一人でも始まるし、一人から始まるものです。一人の熱意が人々を悔い改めの道に導いていくものなのです。ゲラサ地方の教会のモットーは、「関係こそ救い」というものだったことでしょう。

今日の小さな生き方の提案は神と人、人と人との関係を結ぶことです。復活のイエスはこの世の十字架を負わされ、世界の中で埋没させられがちな一人一人のところへすでに来ておられます。この方に心を開くことで、神と人との関係が結ばれ・救われ・よみがえらされます。見よ、今は恵みの時・救いの日。この礼拝からわたしたちは自分の家に帰り、足もとから関係を結び直します。そのような人々の小さな実践が「邪で曲がった時代」を救うのです。