自分の言葉で話す ヨハネによる福音書9章13-23節 2013年12月29日礼拝説教

先週はイエスが因果応報を否定したということ、そして目の見えない人の目を見えるようにしたというお話をしました。今週はその続きです。新たな事情が明かされ、新たな論争が起こるという筋書きです。

今まで読者には明かされていませんでしたが、目が見えるようになった日は「安息日」でした(14節)。この物語の手法は、すでに5章で見ています。38年間病気だった人が治療された後に、実はその日は安息日だったと著者は明かします(5:9)。聖書記者それぞれには個性があります。ヨハネ福音書の著者はこういう描き方が好きな人です。文体に愛着を持つぐらいに聖書が好きになることは良いことです。講解説教の一つの利点でしょう。

ユダヤ人にとって安息日は神聖な日です。毎週の金曜日の日没から土曜日の日没までの24時間は、「時間にそびえる宮殿」とされます。現在は金曜日の夜と土曜日の朝に礼拝を行なっています。「礼拝の日=休む日」とされているので一切の労働は禁じられます(出35:2)。医者が薬を作ったり、医療行為をしたりすることは労働です。

イエスが彼の持つ粘土を唾でこねて塗り薬を製作したことは労働とみなされます。また、その薬を両目に塗った医療行為も労働とみなされます。そういうわけで人々は、当時のユダヤ教ファリサイ派の人々のところへ「前に盲人であった人」を連れて行ったのです。人々はファリサイ派の安息日解釈を確認したかったのでしょう。そしてその上でイエスが誰であると考えるのか、ファリサイ派から聞きたかったのでしょう。

ファリサイ派の人々の間で意見が分かれます。「安息日を守れないから、神からの者ではない」という意見と、「奇跡を行うのだから、神からの者だ」という論争に発展します(16節)。ファリサイ派の中に統一見解が無いということを知ると人々は、目が見えるようになった男性に直接意見を尋ねます。「あなたはあの人をどう思う(原文は「言う」)のですか」(17節)。彼は応えます。「あの方は預言者(の一人)です」。定冠詞が付いていないので「とある一人の預言者」という含みです。また、心の中で思うというよりも公然と語る・告白するという含みです(22節参照)。

目の見えない人は自分の頭で一つの答えを出し、堂々と自分の意見を言いました。自分に良い知らせを告げ(因果応報の否定)、自分の目を見えるようにしたナザレのイエスは、旧約聖書に登場する預言者の中の一人であると、彼は結論づけました。この「預言者の一人」という答えは、サマリア人の女性も行なっています(4:19)。この答えは、「キリスト告白」の一歩手前の良い答えです。

他の人々は冠詞付きの「あの預言者」というようにイエスを誤解します(6:14、7:40)。「あの預言者」というのは申命記18章15節以下に登場が予告されているモーセの再来のことです。目が見えるようになった人は、世間一般の考えに乗りません。狭く特定しないで広く考えます。モーセと、自分の出会ったイエスが異なるからです。

モーセは律法の授与者です。レビ記21章17節以降には、目の見えない人も含む「障害」者差別規定が記されています(旧約196頁)。当時の人々は、レビ記も含めすべてモーセがこれらの律法を書いたと信じていました。モーセは「障害」者を祭司職から締め出した人物です。目の見えない人は宗教的意味で「清くない」というわけです。そこから罪の原因さがしが始まります。「この人が神に呪われているのは本人のせいかそれとも両親のせいか」という問い立ての出発点にモーセがいます。

それに対してイエスはすべて神の創ったいのちは「清い」と言われました。そして因果応報を否定しました。だからイエスがモーセの再来であるはずがない、それが「元盲人」の確信です。イエスはあの預言者ではありえないのです。文字は人を殺し霊は人を活かす。モーセは律法の文字によって自分を排除し、イエスは当意即妙の言葉かけによって自分を解放してくれた、そして実際に目を見えるようにしてくれた、イエスはモーセの再来である「あの預言者」ではないということです。

それでは誰なのか。旧約聖書の預言者の中には、たしかに「奇跡的な治癒行為」を行う人々がいました。エリヤやエリシャはその代表です。ここで奇跡的な治癒行為が行われている以上、この人が想定しているのはエリヤもエリシャも含むでしょう(30節以降参照)。しかし、この二人は目が見えない人を見えるようにしたことはありません。死者を復活させたり、ハンセン病の人を治したりはしましたが。

そうなるともっと広い意味で預言者というものを捉えていたと考えたほうが良いでしょう。預言者の仕事は多岐にわたっています。たとえば裁判官や弁護士です。ある時は魂を看取るカウンセラーでもあり、祭司職を持っていた人もいます。時に権力者たちを見張る批判者・ジャーナリストであり、別の時には政治権力の顧問役でもありました。街頭で演説をふるう弁舌家でもあり、また巻物に自分の思想を書き込み世に問うこともする思想家でもあります。これらすべては常に神の意志を問い、神の意志を伝えるという使命感に根ざした仕事でした。そのようなわけで、人々が繁栄に浮かれている時には警告を発し、人々が絶望している時代にあっては希望の良い知らせを告げる仕事です。週報の四面・今週の一言で取り上げてきた預言者たちは、今申し上げた特徴のどれかを持っている人たちです。

目が見えるようになった人は、ナザレのイエスのことを数多くいる預言者の一人であると言いました。正しい答えです。イエス・キリストは確かに預言者であり、預言者以上の方だからです。より正確に言えば、今申し上げたすべての預言者の特徴を備えた方、それがイエス・キリストです。だから、「預言者の一人」としか言えないし、この一人の人にすべての預言者が入っているのです。味のある答え、よく考え抜かれた答えであると思います。

18節の「ユダヤ人」には定冠詞が付いていますので、13節のファリサイ派の権力者であるユダヤ人と同じ人々のことです。この人々は元盲人の答えに反発します。そして生まれつき目が見えなかったという事実が虚偽であることを論証しようとします。元盲人の両親を証人として呼び出して、「彼が生まれつきの盲人ではない」事実や、「彼は時々目が見えるようになる」事実などの、有利な証言を引き出そうとしたのです。ここで行われていることは裁判です。そして誘導尋問によって自分たちに都合の良い判決を引き出すための、嘘まみれのでっち上げ裁判です。十字架前夜イエスが受けた裁判の虚偽性・問題性がここで予告されているのです。

「この者はお前たちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」(19節)。両親はもちろん事情を知っています。ナザレのイエスが息子と自分たちの名誉を回復し、息子を見えるようにしたということを、息子から聞いていたことでしょう(11節)。12節と13節のあいだには数日の間があるようにも読めます。しかしこの事実を率直に言うことは、ファリサイ派を刺激することも知っていました。イエスを賛美すること、イエスに感謝すること、イエスをキリスト(救い主)と告白することは、会堂追放という重い処罰に値する重罪と彼らの町ではみなされていたからです(22節。5:18も参照)。

会堂追放とは今で言う公民権の剥奪です。ユダヤ人社会で普通に暮らす権利を奪われることです。会堂は、礼拝の場・交わりの場・教育の場・裁判の場、ありとあらゆる意味での公共の場だったからです。両親は会堂追放の処罰を恐れました。

そこでよく考え抜かれ知恵に満ちた証言をします。「この者は自分たちの息子である」という事実や「生まれつき目が見えなかった」という事実についてはそれを認める旨の証言をしますが(20節)、どのようにして見えるようになったか、特にイエスという人名を出さないように注意します。「どうして見えるようになったのか、知りません。誰が目を開けてくれたのかも知りません」(21節)。これは偽証です。そして痛快な欺きです。

確かに形式的にはあらゆる偽証は十戒の第九戒違反です(汝偽証するなかれ)。しかし、相手方権力者たちの方がもっと大きな偽りと欺きをしているのは明白です。この裁判そのものがイエスを陥れるためのもので、決して真実の発見を目指すものではありません。ファリサイ派の人々が力を濫用して「権力による犯罪」を強行している以上、庶民としてその横暴・暴力を切り抜ける知恵を発揮しても悪いことではありません。聖書にはこの類の詐欺師的英雄が多く登場し、しかも肯定的に評価されています。何事も形式的にとらえて判断するのではなく、実質をよく吟味しなくてはいけません。

さらに両親は権力者たちに反撃すらしています。「息子はもう大人です。本人に聞いてください。自分のことは自分で話すでしょう」(21節)。「障害」を持つ息子を持つ両親の思いがにじみ出ています。今まで息子は「大人」としてみなされていなかったし、裁判で証人となることも期待されていませんでした。職にもつけないし、人間扱いをされていなかったのです(8節)。加えて、宗教的な意味づけをされて、「本人か両親かが罪を犯したから、神の呪いに遭った」と言われ、迷信に苦しめられていました。

もしも迷信が正しいとして仮に目の見えない人を目の見える人が差別しえたとしても、今や息子は見えるのです(7節)。なぜ、本人の語る言葉を信用しないのでしょうか(15節)。目が見えるようになっても息子を貶めるあなたたちは何者か。なぜ見えるようになったことを「神の祝福」と言わないのか。なぜ今までの聖書解釈を訂正しないのか。わたしたちに謝罪をしないのか。なぜ因果応報からの解放を共に喜んでくれないのか。なぜ、息子をダシにして息子の恩人を陥れる嘘っぱちの裁判を開くのか。

「盲人は人間扱いしなくてよい=晴眼者は人間扱いしなくてはいけないというのがあなたたちの作ったルールなのだから、晴眼者である息子本人から聞く言葉で十分でしょう。ついでに言えば、息子は子どもでもありませんしね」。両親は自分たちの身も守りながら、相手方ファリサイ派権力者たちにとっての痛いところを衝いています。彼・彼女も、自分の頭で考えて言葉を発しています。この家族は真に迷信から解き放たれ、思考停止という呪縛から解放され、何によって苦しめられていたのかを知り、もはや同じ道を歩かなくなったのです。権力者たちの法律解釈の独占、これが構造的な罪です。

法律の解釈を権力に委ねていることがわたしたちを思考停止に導きます。敗戦後の日本の歩みは解釈改憲の歩みでした。イエスは聖書を大胆に独自に解釈し、「アーメン、わたしは言う」と公に発表しました。自分の言葉で話したのです。イエスの弟子たちはその態度を身につけていきました。一人二人と自分の頭で考え発言する人、自らと隣人を解放する聖書解釈を行う人が増えていったのです。ファリサイ派はそれを恐れました。わたしは憲法9条を、すべての暴力の放棄と解釈しています。共に自分の頭で考えてみましょう。