良いもので満たし ルカによる福音書1章39-56節 2016年4月24日礼拝説教

今日の箇所は、天使ガブリエルのお告げを受けたマリアが、親戚のエリサベトの家を訪問するという場面です。38節までで、マリアは半信半疑ながらも救い主を産んで育てる決意をしました。天使の言葉が真実であるかどうかを確かめるためには、親類のエリサベトが妊娠しているという奇跡を自分の目で確認する必要があります。それによって、「神にできないことは何一つない」ということを信じることができます(35-37節)。

マリアもザカリアと同じく、天使の言葉を素直には信じていません(20節参照)。しかし、天使はマリアを見逃して、懲罰を下しません。見逃すひとつの理由はマリアに対する偏愛でしょう。以前も申し上げたとおり、ザカリアは高齢者であり、男性であり、既婚者であり、地位のある人、富んでいる人でした。それに対して、マリアは年若く、女性であり、非婚者であり、社会的地位を奪われていた人、貧しい人です。神は貶められている人を偏愛する方であり、そのような仕方で普遍的な愛を不公平な世界で示す方です。不信のマリアを過ぎ越す神です。

天使がマリアを見逃す、もうひとつの理由は、マリアとエリサベトが出会うことに意味があると考えたからでしょう。庶民同士のとても小さな出会いですが、ここには計り知れない大きな出来事が用意されていると天使は考えます。政治家たちが料亭で密かに一体一の会合をして国の大事なことを決めることと正反対の会合がここにあります。お酒ではなく、聖霊に満たされて女性たちが良い言葉を語り合うという会合です。

著者ルカは「ザカリアの家」(40節)と名指ししながら、一家の主人とみなされていたザカリアを一切登場させません。ここには著者の意図があります。女性たちだけが言葉を発するという演出です(22節参照)。その言葉群は、聖霊に満たされているので、すべて良い言葉です(ガラテヤ5章22-23節)。それは「挨拶」であり(40・41・44節)、「祝福」であり(42節)、「幸いなるかな」という語りかけであり(45・48節)、神への賛美です(47-55節)。

「祝福する」というギリシャ語は、「良いeu」という部分と「言うlegeo」という部分から成ります。他人に「おめでとう」と言う行為は、相手をほめたたえるために言うのですから、基本的に良い言葉です。別の場面ですが、英語で弔辞のことをeulogyと言います。これも「良い言葉eu-logos」が語源です。死者を悼む葬儀の場面で、良い言葉で死者を褒めながら振り返ることは当たり前でしょう。弔辞で悪態をつく人はいないものです。

挨拶の際にgood morningと英語で言いますし、ヘブライ語でも同じように「boqer(朝) tob(良い)」と言います。挨拶もまた「良い」という単語を混ぜて、「良い言葉」であろうとしています。挨拶で悪態をつく人は、人間関係を悪くさせようとしている人以外にはいません。

神への賛美も、神をほめたたえる行為ですから、当然に良い言葉です。さらに興味深いことに、ヘブライ語表現においては、「神を祝福する」という言い方があります。日本語としては上下関係が狂ったように思えるので(祝福する行為は上から下への語りかけと考えられがち)、「神を賛美する/崇める」などと翻訳されます。賛美は正に神への良い言葉です。47-55節の賛美歌も、神への良い言葉です。

今日の箇所は聖霊に満たされた二人、エリサベトとマリアという女性たちによる良い言葉の共鳴・こだま・反響で満ちています。わたしたちは、この共鳴をさらに別の聖句とも響かせ合っていきましょう。それによって、ふたりの出会いの独特の意義が浮かび上がってくるからです。

一つはルカ福音書11章27-28節です(新約129ページ)。大勢の群衆の中から、名も知られぬ一人の女性がイエスの母マリアをほめたたえるという場面。ルカにしかない小さな物語です。「幸いなるかな」「胎」という言葉や、「神の言葉を聞き、守る」という表現が、今日の箇所と響き合っています。この女性も「良い言葉」を用いる聖霊に満たされた人です。そして著者ルカの意図は、マリア・エリサベトという名前が紹介されている女性たちと、名前が紹介されていないこの女性を同列に並べることにあります。

世界を動かすのは名のしれた大人物たち、例えばローマ皇帝アウグストゥスたちではありません。歴史は大きな物語ではないのです。世界の片隅に押しやられ、名前すら埋没させられがちな小さな人々による、小さな物語の集積こそが歴史というものの真相です。しばしば大きな者たちは勘違いに基づいて傲慢に振る舞い、傲岸不遜な言葉を吐きます。彼らの勘違いは、神しか偉大な方はいないということを無視して、自分たちこそが大きいと思い込むことにあります。だから思い上がった言葉を吐くのです。しかしわたしたちは良い言葉を用い続けなくてはいけません。それこそ聖霊の導く歴史を形成するからです。

神が大逆転を起こすという救いはどのようにして起こるのでしょうか。思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、富める者を空腹のまま追い返す救いの歴史は(51-53節)、どのようにして導かれるのでしょうか。わたしたち無名の小さくされている者たちが、良い言葉で対抗することによって、神は大逆転を起こすのです。より高い倫理で、傲慢な者たちに礼儀正しく警告するときに、悔い改めという逆転が起こります。さまざま抗議声明が権力者たちに寄せられるゆえんです。良い言葉の共鳴が、悪口雑言や悪行を呑み込むまで、わたしたちの小さな取り組みは続きます。神を賛美する礼拝は続き、自己肥大する者たちへの良い言葉による抗議・警告・忠告は続きます。

もうひとつの聖句は、サムエル記上2章1-11節です(旧約429ページ)。この「ハンナの祈り」と呼ばれる賛美歌が、今日の「マリアの賛歌」と響き合っていることがお分かりだと思います。特に社会的強者と弱者の大逆転を謳うところがよく似ています(同4-8節)。また、傲慢な態度の典型例としての「思い上がった言葉」を、口にすることが禁じられていることも示唆深いものです(同3節)。

ハンナも女性です。そしてエリサベトとよく似た境遇の女性です。夫は名門の家系で裕福でした。彼女には長らく子どもが与えられず、そのために辛い思いをしていました。あるとき神の憐れみにより彼女に子どもが与えられます。その後イスラエルの指導者となるサムエルという男の子です。ハンナは神への感謝の応答として、息子サムエルを祭司の家にささげます。その時に歌った賛美歌が「ハンナの祈り」です。

エリサベトの息子ヨハネは祭司の家系に生まれながら、そこから飛び出て修道生活をします。それはハンナの息子サムエルが、祭司の家へと養子にされることの裏返しです。サムエルがダビデ王に油を注いで王に任命したことは(同16章)、ヨハネがダビデの子イエスにバプテスマを施しメシアに任命したことと重なり合っています(ルカ3章)。北のガリラヤからマリアは、南のユダまでエリサベトに会いに来ました(ルカ1章39節)。胎児のイエスが、胎児のヨハネに出会いました。この南下の道のりは、サムエルがダビデに会いに来たのと同じような道であり、ただし登場人物を裏返しているのです。

ここにマリアとエリサベトの出会いの独特の意義があります。胎児のヨハネがおどることは、胎児のイエスをメシアと任命する行為、またはその前ぶれなのです。こう考えると、「マリアの賛歌」を歌うべき人は、マリアよりもエリサベトの方がふさわしいことに気づきます。エリサベトがハンナに似ており、ヨハネがサムエルに似ているからです。

新共同訳が底本としている写本は紀元後4世紀のものですが、それ以前の教父の中でエイレナイオス(2世紀)やオリゲネス(3世紀)が46節の主語を「マリア」ではなく「エリサベト」としていることも示唆に富みます。少なくとも彼らの教会では、エリサベトがこの賛美歌を歌ったと信じていたのです。ルカ1章はヨハネ宗団が保存していた伝承を著者が用いたものです。その事情も考えると、ヨハネの母である「エリサベトの賛歌」であったものが、カトリックの教理(マリア崇拝)に合わせて「マリアの賛歌」とされたのでしょう。以上は、留学時代にコトレル・リック・カーソン教授が教えてくれた学説です。

わたしはどちらの歌でも良いと考えます。もっと肯定的に言うならば、マリアが歌ったことも、エリサベトが歌ったことも、どちらも真実と捉えます。どちらの立場も古代教会が認めているからです。むしろ、多くの女性たちが感情移入してこの賛美歌をこだまさせ、歌い継いでいくことにこそ意味があります。賛歌作者問題を未決にしておくことが、さまざまな立場を認めることや、社会の片隅に押しやられた無名な人々こそが尊重されるという考え方を後押しします。それは、より多くの人が共鳴してこの「良い言葉」を歌い継ぐことを、積極的に推進します。「歌は世につれ、世は歌につれ」です。

ハンナはエリサベトやマリアを著作権侵害で訴えたでしょうか。そのようなことはありませんでした。エリサベトもマリアも気にしないでしょう。良い歌は誰が作っても、誰が歌っても良いものです。また、「誰が作ったのか」などを詮索せずとも誰もが歌える歌こそ良い歌です。そのような歌が世界を変える力を持っています。マリアの賛歌の歌詞を基に、数多くの賛美歌が生まれました。主の晩餐の際に歌う「テゼ共同体の歌」13番もその一つです。わたしたちはハンナや、エリサベト、マリア、ミリアム、名も無き女性に共感しながら、歌声をこだまさせたいものです。

この歌にある良い言葉は、「神のみが大いなる方である」ということであり、「神が大逆転を起こす救いの神である」ということです。長年不妊の女性として貶められていた女性に起こった大逆転、父親知らずの子どもを産むことで後ろ指さされていた女性に起こる大逆転。共に歌い継ぐ時に、同じ救いがわたしたちに起こります。

エリサベトを訪ねたマリアは急いでいたのでほとんど空手でした(39節)。到着した時には飢えてもいたでしょう。猜疑心による魂の飢え渇きもあったことでしょう。しかし、三ヶ月の滞在の後(56節)、非常に豊かになってナザレまで帰りました。彼女たちにこの歌があったからです。飢えた人を良いもので満たし、貧しい人を満腹で帰される神への賛美は、事実マリアを良いもので満たしたのです(53節)。良いものとは、良い言葉です。神への良い言葉である賛美です。また、その良い歌を共に歌う交わりです。マリアは神と人とを信じる人に成長しています。

今日の小さな生き方の提案は、良い言葉を常に使うということです。人に対しては祝福であり、神に対しては賛美です。同じ口から賛美と呪いは同時に出ません。汚い言葉は世界を変える力を持ちません。良い言葉を使う良い賛美歌を共に歌うときに、神と人とを信じる信頼の輪が広がります。小さな者たちが世界の変革に用いられます。共に歌いながら歩みましょう。