苦難の僕 イザヤ書53章1-12節 2022年4月10日 礼拝説教 

苦難の僕

イザヤ書53章1-12節

2022年4月10日

 

受難週となりました。イエス・キリストの十字架の苦難を覚える一週間です。ルカ福音書・使徒言行録によると、十一人の弟子たちや百二十人の老若男女の弟子たちが復活のイエスによって十字架の意味について旧約聖書から教えられたことが分かります。その中心的な聖句はイザヤ書53章です。イザヤ書53章に書かれている「苦難の僕」がナザレのイエスであるという「復活者からの啓示」=「弟子たちによる聖書研究の結果」が、ユダヤ教ナザレ派(キリスト教)を発足させました。イエスは裏切り者の自分たちの罪のせいで殺されたということ、しかし同じイエスが裏切り者の自分たちの罪の代わりに死んでいったということ。「罪のために」という言葉には二重の意味があります。「罪が原因で」と「罪の代償として」という二つです。

贖罪信仰と言います。キリスト教教理の一つの中心です。これなしにはキリスト教は誕生しなかったでしょう。中心の一つですが全てではありません。非常に特殊な状況に置かれた弟子たちによくあてはまる信仰です。イエスを実際に裏切った者。自分が殺したイエスに自分が赦されるという体験。贖罪はこの強烈な体験がない人々には少々共感しにくい信仰です。ユダヤ人が贖罪のための犠牲獣を捧げていたという習慣もわたしたちには縁遠いものです。旧約聖書のイザヤ書53章を改めて読み直す中で、贖罪信仰への共感を呼び覚ましたいと思います。それによって初代教会の信仰に共感を寄せたいのです。

1 誰がわたしたちの聞いたことを信じるだろうか。そしてヤハウェの腕は誰の上に示されるだろうか。 2 そして彼は若枝のように彼の前に成長する。そして乾いた地からの根のように。彼のための形がない。そして輝きもない――しかしわたしたちは彼を見た――。そして美観ではない――しかしわたしたちは彼を慕う――。 3 彼は軽蔑された。そして男たち(に)拒否されている。諸々の苦痛の男。そして病が親しまれていた。そして彼から諸々の顔が隠される者のように彼は軽蔑された。そしてわたしたちは彼を評価しなかった。 

 イザヤ書の著者は複数います。53章は紀元前6世紀にバビロンに居たユダヤ人たちが書いた部分です。40-55章の主要部分を書いた「第二イザヤ」と呼ばれる預言者を師匠とする弟子集団が、53章を書いたと推測します。「わたしたち」(1・2・3節ほか)は第二イザヤの弟子たち、「彼」(2・3節ほか)と呼ばれる人物は、非業の死を遂げた師匠・預言者イザヤのことと解します。

 預言者は生まれつき病気がちの人です(3節)。彼は見栄えがよくない人物でした(2節)。さまざまな意味で「弱い人」は男性中心社会では軽蔑されます。「男たち」は普通の単語の形ではありません。ここに男性中心社会という意味を込めたいと思います。たとえば背の低い男性、きゃしゃな男性は馬鹿にされがちです(ルカ19章3節)。「諸々の顔が隠される者」は社会から隔離されたハンセン病患者を想起させます(レビ記13章46節)。

 弟子たちはナザレのイエスの外貌や背の低さを思い出し、イエスがハンセン病の人に自らの腕で触れ自ら「汚れた者」となったことを思い出します。そのような弱いメシアを、弟子たち自身も評価しなかった。それゆえに裏切ったのでした。しかし神の腕はイエスに現れたのでした。2節をあえて語順通り、接続詞(そして/しかし)ごとに訳しました。ここには関係代名詞はありません。形・輝き・美観はない。しかし弟子たちは彼が神の子であると見て彼をこそ慕う。その信仰へと53章を読んで導かれたのでした。

4 確かにわたしたちの病(を)彼こそが持ち上げた。そしてわたしたちの苦痛(を)彼はそれらを担った。そしてわたしたちこそは彼を評価した。神(に/は)打たれ続け撃たれ続け、そして彼は苦しむ。 5 そして彼は痛み続ける、わたしたちの背反により。砕かれ続ける、わたしたちの罰により。わたしたちの平和の懲らしめが彼の上に。そして彼の打ち傷において彼はわたしたちのために癒された。 6 わたしたち全ては羊のように各々さまよう。わたしたちは彼の道に向く。そしてヤハウェは彼においてわたしたち全ての罰を執り成させた。

 実は預言者イザヤの病は弟子たちの身代わりの病だったのだと弟子たちは気着想します。着想のきっかけがあります。イザヤの弟子たちも保身のために師匠を見殺しにしたのでしょう。新バビロニア帝国内を、それぞれがばらばらに逃げるという経験をしたのでしょう。イザヤだけが預言者共同体全体の責任を負って、当局に逮捕され、首都バビロンで裁判にかけられ鞭打たれ処刑されたのでしょう。なぜなら、イザヤが新バビロニア帝国の敵国ペルシャ帝国のキュロスを救い主(メシア)と呼んでいる「非国民」だったからです(45章1節)。イザヤは弟子たちを庇い自分だけが殺される道を選びます。

 イエスの弟子たちも保身のために師匠イエスを見棄てました。そしてイエスは裁判にかけられ鞭打たれ十字架で虐殺されます。弟子たちがイエスに苦痛を負わせました。それは弟子たちの罪(アヴォン)です。本来ならば弟子たちも負うべき罰(アヴォン)です(5節)。ガリラヤから行動を共にしてきたからです。ナザレのイエスはわたしの罪のせいで殺されました。

そのイエスがよみがえらされて弟子たちに現れた時に、「わたしの罪のために」のもう一つの意味が立ち上ります。弟子たちは彼を評価し直します(4節)。「彼はわたしたちのために癒された」(5節)。イエスがわたしたちを救うために復活させられた神の子なのだという信仰です。復活から遡れば、十字架は弟子たちの身代わりの死であるととらえられます。イエスは卑劣な弟子の死ぬべき死を代わりに死んで、復活の生命を配った神の子でした。4節の原文は「てにをは」が曖昧です。神によって撃たれ続けたのか、神ご自身が撃たれ続けたのか、どちらの意味もありえます。人の子イエスが神の子キリストでもあるならば、この両義性・曖昧さがあるままに意味が通ります。神が神によって懲らしめられるという事態が十字架で起こりました。それは「わたしたちの平和」(5節)のための神の行為です。わたしたちが「彼の道を向く」、悔い改めて福音を信じるための「執り成し」です(6節)。

7 彼は抑圧された。そして彼こそが苦しんだ。そして彼は彼の口を開かない、捧げられる雄羊のように。彼は導かれる、そして彼女の毛を刈る者の面前の雌羊のように。そして彼は彼の口を開かない。 8 投獄により、また裁判により彼は取られた。そして彼の一族を誰が思うだろうか。なぜなら、彼が生けるものたちの地より切り落とされたのだから。わたしの民の背反により打撃が彼に。 9 そして彼は彼の墓(を)悪い者たちと共にまた富める者たちと共に彼の死の際に与えた。彼が非・暴力をなしたゆえに。そして彼の口の中に非・欺瞞。 10 そしてヤハウェは彼の粉砕(を)喜んだ。彼は病ませた。

 預言者イザヤもイエスも、裁判の席上沈黙を貫きました。この沈黙を「非・欺瞞」と評しています。弟子たちは戦々恐々としていたはずです。師匠がもし弟子たちの名前や居場所を話してしまったら、自分たちも逮捕投獄され殺されかねないからです。しかし、イザヤもイエスも弟子たちのために沈黙を貫きました。黙ることは誠実の証だったのです。ペトロたち男性の弟子たちは不誠実な自分たちに対してさえも誠実であり続けたイエスに、謝罪と感謝をし、悔い改め・生き直しを誓います。自己否定をくぐりぬけた自己肯定です。

「非・欺瞞」に並んで「非・暴力」があります(9節)。雄弁かつ粗暴は、「男らしさ」の特徴です。興味深いことに、「苦難の僕」は男性でも女性でもありえます。なぜなら「雄羊」「雌羊」が共に登場しているからです(7節)。これらすべては男性中心社会への批判です。ナザレのイエスは、「マッチョなメシア」ではありえません。

 欺瞞ではない誠実な生き方、力に頼らない着実なあり方は、非業の死に帰結することがあります。イザヤにもイエスにも起こった悲劇です。長男イエスが殺された時、「大工のヨセフ家」という家が断絶しました。母マリアはイエスの弟ヤコブと共に家を継いでいくべきか、それとも個人としてイエスの弟子となるべきか、選択を迫られました。マリアは命の危険を冒してイエスの十字架刑死を見届け、そしてイエスの墓が空だったのを確認し、イエスの弟子となる道を選びました。ここには長男を軸にした家制度への批判もあります。「見ることしかできなかった」という女性弟子たちの悔恨を、イエスの十字架と復活が解消しました。マリアら女性弟子たちの悔恨の解消のためにもイエスは殺され、よみがえらされたのだという信仰が生まれたのです。

 唐突な「わたしの民」(8節)は10節後半「もしもあなたが」の布石です。ここで53章は語り手を変えていきます。「わたし」は神ですから、神の子を苦しませた神自身の語りかけに10節後半から移ります。

「もしもあなたが償い(に)彼の全存在を据えるならば、彼は子孫を見、彼は日々を長くする。そしてヤハウェは喜ぶ。彼は彼の手において進む。 11 彼の全存在の苦難(を)彼は見る。彼は満足する。彼は彼の知識において義とする。わたしの僕は多くの人のために義である。そして彼らの罰(を)彼こそが担う。 12 それゆえにわたしは彼のために多くの人々を取り分ける。そして彼は強い者たちを戦利品として取り分ける。そしてその代わりに彼は死に彼の全存在(を)注ぎ出し、背く者たちと共に彼は数えられたのだが。そして彼こそが多くの者たちの罪(を)持ち上げた。そして背く者たちのために彼は執り成した。」

 鉤括弧をつけて神の発言であることを示しました。預言者イザヤの弟子たちが神の意思として信じた内容が10節後半から書き連ねられています。

 「わたしの僕」(イザヤ、イエス)は苦難を受け、全存在を注ぎ出し、殺され、義人であるのに「背く者たち」のように名誉までも奪われました。しかし、それは実は加害者たちの「罪/罰」の代わりに背負った苦難です。背く者たちに対する僕の執り成し行為、代償の死です。もしもあなたが、僕の全存在の注ぎ出しを、神への賠償の捧げ物と信じるならば、彼はあなたの心に復活し、あなたは永遠の命を得ます(11節)。こういう形で苦難の僕は命を投網として投げ打ちながら、多くの人々を獲る「人間の漁師」です。

 「ああ、心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこれらの苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか」(ルカ24章25-26節)。復活のイエスは、イザヤ書53章を基に、贖罪信仰を弟子たちに教えます。これは彼ら彼女たちにとって時宜にかなった福音でした。

 今日の小さな生き方の提案は自分のもつ弱さや悪さを足りないところや行き過ぎたところをすべて神の前にさらけ出すことです。人生の「悔い」と言っても良いでしょう。あの時こうすべきだった/すべきでなかった。あの人に悪いことをした/良いことをしなかった。わたしたちには悔いが多くあります。そのようなわたしたちの前に十字架の傷跡のついたままの復活者が現れます。「あなたのせいの十字架・あなたの代わりの十字架を信じなさい。わたしがあなたの傷を癒す。平和を与える。悔い改めて福音を信じなさい」。