葬儀説教

今回、葬儀をこの場所でこのようなかたちで行うことは、Aちゃんの発案によって生じました。「お母さんを神さまの国に送ることを城倉園長に頼んだら」と、家族の中の話し合いでAちゃんが言われ、それを受けてご家族でわたしのところに依頼に来られたのです。亡くなられた朝のことでした。出来事そのものは悲しいことがらですが、この依頼を名誉なことと受け止め、いづみ幼稚園・泉バプテスト教会全体のこととしてお引き受けいたしました。だから、こども目線で行うことをめあてに、「Bさんを送る会」といたしました。

「荒野の果てに」という讃美歌があります。クリスマスキャロルの一つです。みなさんも聞いたことがある歌だと思います。「荒野の果てに夕日は落ちて/妙なる調べ/天より響く/グロリアインエクセルシスデオ」という歌詞は、ルカ福音書の2章に記された天使たちの歌声を基にしております。この歌はご家族にとっての思い出の曲なので、後で動画の上映をいたします。グロリア・・・の部分はラテン語です。日本語に直すと、「いと高い所には栄光が神にあるように」という意味になります。

夜に光は目立ちます。真っ暗闇の中だからこそ、辺りを照らす光に効果があります。静まり返る夜だからこそ、天使の歌声は良く聞こえます。荒野の果てに夕日が落ちた、だからこそ闇の中の光/栄光を実感できます。

荒野に放り出されたような孤独感、目の前が真っ暗になったような絶望を抱えるわたしたちにも、この逆説が必要です。逆説とは、一見するとおかしな話におもえるものが、よくよく考えてみると本当にそのとおりだとおもえる事柄のことです。

今日選んだ聖句は逆説的な真理を示しています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。

古代人は、種が割れて芽を出すことを、種としての命が死ぬことと考えていました。そして根を持つ芽や茎を備えた新しい命が生まれると考えていたのです。死ぬことは命の終わりです。しかし、それは同時に新しい命の始まりとなります。一粒の麦の種籾が死に、一本の麦となり、麦の穂が垂れ、一本の麦としての命が死に、その穂から多くの種籾が新しい命として生まれます。命の終わりが命の始まりであるということ。これは逆説です。

Bさんの死にあたって、わたしたちは「彼女は今どこにいるのか」ということと、「神はどこにいるのか」という問いの前に立たされています。Bさんは大変論理的な方でした。頭脳明晰、理詰めで道理の通っていることを好みました。憲法や人権の話をわたしがした時、積極的に応答してくださいました。きわめて理性的で、お互いに議論を楽しむことができました。だからこのような哲学的な問いだてや神学議論をも喜んでくださるでしょう。ここに逆説を信じることが必要です。絶望の只中に希望の光が差し込んでいることを信じるということです。

「お母さんはどこにいるのか」という質問に、わたしは「こどもたちの心にいつまでもいる」と答えます。もし肉体を備えていれば、ばらばらの場所に同時にはいられません。しかし、今やお母さんはみなさんがどこにいても、そこに共にいられるようになったのです。これは逆説です。

「神はどこにいるのか」という質問に、わたしは「神はお母さんと共にいつまでもいる」と答えます。聖書には神の国のイメージが語られています。それは食卓のイメージです。いづみ幼稚園が大切にしている「共に食べる」というイメージです。「神の懐に居る」という言葉があります。食卓を折り重なるように囲んで食べていた当時の西アジアの食卓風景と重なる表現です。大人も子どももお互いを懐に入れ合いながら、胸襟を開いて共に食べ物を分かち合う交わりが、神の国のイメージです。

だから、わたしたちはここで安心すべきです。Bさんは今、楽しく神の食卓を囲んでいるからです。わたしたちにできることは精一杯の哀悼の意を誠実にあらわすこと。それだけで良いのです。Bさんのからだとのお別れを今行うためにわたしたちは集まっています。きちんとしたいし、心を込めてすべきです。からだというものは命のシンボルとしてあるのです。神さまが招待している折角の晴れのパーティーなのですから、きれいに着飾らせて、神の国に送るべきです。その一方で、ほんの少しだけ安心材料として覚えてほしいことがあります。Bさんは霊のからだとして、神さまのもとにおられて、そこで安らかに過ごしているということです。

また、わたしたちはここでこれからの生き方を方向づけられています。Bさんは優しい方でした。いづみ幼稚園の先輩保護者仲間から受けた親切を、後輩の保護者仲間たちに喜んで行うきっぷがありました。Pay back ではなくPay forward です。そのようなBさんは、今わたしたちに「活き活きと生きるように」と命じているように思えます。お母さんからいただいた命、助けられた命(二人のお子さんは彼女の医学的見識によって命を救われたと伺っています)を輝かせて生きることが大切です。友人から受けた親切を、別の友人にほどこすことが大切です。

しかも、Bさんは「わたしと共に活き活きと生きるように」と命じているように思えます。生きているわたしたちが、和気藹々と食卓を囲むときに常に必ずBさんがそこにいます。神の国はそのようなわたしたちの只中にあります。彼女は楽しい食卓の中に復活をします。

その時麦の種は勢いよく辺り一面に撒かれるのです。この逆説的な真理に希望をおいて、共に前を向いて歩いていきましょう。