血を流してはならない 創世記37章12-27節 2019年11月10日礼拝説教

「そして彼の兄たちはシケムで彼らの父の羊を飼うために行った。そしてイスラエルはヨセフに向かって言った。『あなたの兄弟たちはシケムで飼っているではないか。あなたは行け。そうして私はあなたを彼らのもとに投げる』。そして彼は彼のために言った。『私はここに』。そして彼は彼のために言った。『どうかあなたが行ってください。あなたの兄弟たちのシャロームを、また羊のシャロームを見なさい。そして事柄を私に戻しなさい』。そして彼はヘブロンの谷から彼を投げた。そして彼はシケムへと来た」(12-14節)。

父ヤコブはヨセフが兄弟たちの間で「浮いている」ことを心配します。全員にシケムでの放牧を命じたのに、ヨセフだけは残っています。「あなたも行け」と個別の声掛けをします。それに対して、ヨセフは悪びれず「私はここにいますが、何か問題でも」と答えます。「それが問題だ」とはヤコブの心の声。もう一度ヤコブは、ヨセフにお願いするように言い直します。「どうかあなたも行ってください」。ヤコブは、子どもたち全員で羊を飼う仕事をする中で、ヨセフが他の息子たちと仲良く混ざっていくこと/兄弟間のシャロームを願っています。それが戻ってほしい事柄、協働によるシャロームの回復です。

シケムはヘブロンから直線距離で75km。ヤコブ一家がかつて住んでいたところです(34章)。ヨセフも知っている場所であり道のりです。ヤコブはシケムまでの道のりならば大丈夫と考え、偏愛しているヨセフに危険な一人旅をさせます。「あなたは行け」「投げる」はこの後も鍵語となります。

ヨセフはシケムに着き、かつてヤコブ一家がシケム周辺で羊に草を食べさせていた場所を巡ります。しかし、兄弟たちは居ませんでした。そこに一人の男性が現れ、その人からの情報をもとにヨセフはドタンへ向かいます。ドタンはシケムよりもさらに25km北方です。ヨセフは兄弟たちの飼う羊の群れを遠くから見つけました。それと同時に兄弟たちも遠くからヨセフを見つけました。様々な色を使った派手な上着をヨセフが着ているので遠くからでもはっきりと分かります。兄弟たちの嫉妬が燃え上がります。そもそも一人だけなぜ遅刻が許されているのかという不公平感もあります。

「そして彼が彼らのもとに近づく前に、彼らは彼を死なせるために企み、彼らは互いに言い合った。『見よ、あの夢々の主人が来つつある。そして今、あなたたちは行け。そうして我々は彼を殺し、彼を穴々の一つに投げ、「悪い獣が彼を食べた」と言い、彼の夢々がどうなるのか見よう』」(18-20節)。

この暗殺計画の発案者は、シメオンとレビではないかと考えます。二人はシケムでの虐殺事件の首謀者です(34章25節)。ヤコブの息子たちがシケム周辺で放牧を続けることができなかった理由は、シケム住民があの虐殺事件を覚えていたからではないでしょうか。シケムからドタンへの移動は兄弟たちがシケム事件を思い出すきっかけにもなりました。二人はまた殺気立っていきます。ヨセフの姉ディナはこの一群にはいなかったと思います。彼女にとってシケムに行くことはあまりにも過酷だからです。

シメオンとレビは最大最強の「レアの天幕」の次男・三男です。だから他の兄弟たちに対して「あなたたちは行け」と言える支配力を持っています。特に同じレアの息子たちで少し年の離れた弟であるイサカルとゼブルンは、上下関係があるのでシメオンとレビに逆らえません。ビルハの息子たち(ダンとナフタリ)・ジルパの息子たち(ガドとアシェル)は、ヨセフをかばいません。彼らの悪い噂をヨセフが父に言っていたからです。

そしてヨセフと同じ母を持つベニヤミンでさえも、ダンとナフタリが賛同することに反対することはできません。ビルハの天幕でお世話になっているからです。本心は嫌だったかもしれませんが黙認するしかない。反論すれば、自分も殺されるかもしれないからです。そしてすべての兄弟は、ヨセフがとくとくと二つの夢を披露したことに不快感を持っています。こうして個々に温度差がありながらも、全体がヨセフという少数者に対する人権侵害へと動きます。

もしもヨセフを殺す場合、その後に父ヤコブに対する言い訳が必要です。兄弟たちの本心は父ヤコブの愛情がほしいということにあります。ヤコブに怒られ嫌われることだけは避けたいものです。ヨセフの存在を消すことの目的は、ヤコブが公平に残る兄弟たちを愛するということにあるからです。そこで、やむを得ない事故を装うという悪知恵が生まれます。「ヨセフは原野で獣に食われた」という事故を偽装するのです。

暗殺計画の首謀者シメオンとレビに対抗できるのは、長男ルベンと四男ユダだけです。この四人の関係はほぼ対等です。レアが立て続けに生んだ四人だからです(29章31-35節)。

「そしてルベンは聞き従い、彼らの手から彼を救い、言った。『我々が命を撃つべきではない』。そしてルバンは彼らに向かって言った。『あなたたちは血を注ぐな。荒れ野の中にあるこの穴に向かって投げ込め。そして手(を)彼の中に投げるな』。彼を救うために、彼らの手から彼を彼の父のもとに戻すために(21-22節)。

ルベンもヨセフのことは好きではありません。二人は直接のライバルでもあります。一方は正妻レアの長男、他方は正妻ラケルの長男だからです。最もヨセフを邪魔者と考えやすいのはルベンです。しかしルベンはヤコブを悲しませることを望んでいません。彼が欲しかったのはヤコブの愛情だったからです。ヤコブもヨセフが兄弟の間で浮いていることは知っています。まさか殺そうとしているまでは知らないでしょうけれども、ある程度嫌われていることは知っています。そこにルベンがヨセフを助けたという手柄を立てれば、ヤコブは自分にも愛情を注いでくれるかもしれません。

父ヤコブの妻ビルハ(ダンとナフタリの母親)と寝たことで、ルベンはヤコブの信頼を失っています(35章22節)。なんとか名誉を挽回したいと考えています。ルベンの提案は折衷案です。直接は殺さないけれども、いつかは死ぬのだからそれで同じだという案です。カインのように弟アベルを直接殺してはいけない。血を大地に注いではいけない。そんなことをすれば、カインと同じように共同体から追放される。「あなたの兄弟の血が大地から叫ぶ」ことになる(4章11節)。ルベンは弁舌をふるいます。本心は兄弟を出し抜くことであっても、天の声に聞き従う、この演説がヨセフの命を救ったのでした。

「そして次のことが、ヨセフが彼の兄たちのもとに来た時に起こった。すなわち彼らは、ヨセフを・彼の外套を・彼に接している様々な色の外套を、剥ぎ取り、つかまえ、彼をかの穴へと投げ込んだ(23-24節)」。

兄弟たちはルベンの提案どおりにヨセフを生きたまま穴に投げ込みます。その前の行動に彼らの憎しみが示されています。彼らが剥ぎ取ったものは、三つ並べられています。ヨセフ、ヨセフの外套、ヨセフの様々な色の外套、この三つが同格で並べられ、すべて「~を」という前置詞が付けられています。外套を剥ぎ取る行為に込められた意味が示されています。その外套が兄弟たちの嫉妬の対象だったということもその一つです。また外套はその人の人格をも象徴しています。兄弟たちが剥ぎ取ったのはヨセフという個人の尊厳です。ヨセフは裸にされ拘束され、表現の自由と行動の自由が同時に奪われました。十字架のイエスが衣服を剥ぎ取られ釘付けられたことと重なります。外套を剥ぐことは、ヨセフの死期をも早めます。強い殺意を伺わせます。

「助けてくれ」とヨセフは叫び声をあげました。兄弟たちはそのヨセフを嘲り、「お前が見た夢のとおりなら、お前自身を救え」と冷たく言い放ちます。「俺たちにひれ伏すことはないはずなのだから」。

外套を奪うことは「野獣に食われた」という言い訳を使う可能性を残すためでもありましょう。つまり、ルベンに反対してヨセフを今すぐにも殺したい強硬派もまだ居たということです。ルベンが外套について何も指示をしていないことを良いことに、まだ殺したい者が外套を剥ぎます。それはシメオンとレビだけではありません。ビルハの息子たち、ダンとナフタリもそうです。二人は母のことでルベンを恨んでいます。ルベンの提案には反対したいのです。

ここで彼らは食事を取ります。人望のないルベンはその場にいません。ルベンがいない食事の場は再び殺害計画の会合となります。その場を仕切っているのは四男のユダです。イシュマエル人の隊商がエジプトへと移動するのを見て、ユダはルベンと別の方法でヨセフ殺害を未然に防ぎます。

「『我々が我々の兄弟を殺し、彼の血を隠すことの利益は何か。あなたたちは行け。そうして我々は、かのイシュマエル人に彼を売り、我々の手が彼の中に起こらないようにしよう。なぜなら我々の兄弟、彼こそ我々の肉だから』。そして彼の兄弟たちは彼に聞き従った」(26-28節)。

ユダは殺意を持っているシメオン、レビ、ダン、ナフタリに向かって言います。「損得勘定をしよう。殺しても兄弟殺しの罪や罰を負うだけだ。要するにヨセフがいなくなれば良いのだから、売り飛ばしたほうが儲けになる。損はなく得だけが残る」。みなヤコブの息子たち、損得勘定は得意です。だからこその説得力があります。「あなたたちは行け」というユダの命令に、シメオンもレビも、ダンもナフタリも、ルベン以外の兄弟はみな聞き従います。こうしてユダはルベンの密かな計画(自分だけが父に気に入られたい)を防ぎながら、ルベンの語る理想(殺人はすべきではない)については実現させます。暗殺計画の首謀者(レビ、シメオン、ダン、ナフタリ)にも、追従者(イサカル、ゼブルン、ガド、アシェル)、黙認せざるをえない者(ベニヤミン)にも、納得が調達されます。ユダは政治家であり、ダビデ王の先祖です。この説得がヨセフの命を救いました。

もちろんユダの行為も、その他の兄弟たちの行為と同様に免罪されません。殺害(未遂)であれ、傷害であれ、人身売買であれ、重大な人権侵害です。兄弟であるかどうか、あるいはヨセフ自身に嫌われる要素があるかどうかも関係ありません。どんなに嫌いであっても、その人の衣服を剥ぎ、その人を穴に突き落とし、監禁し、売り飛ばしてはいけません。むしろ、兄弟たちは父ヤコブに「不公平な扱いをしないでほしい」と訴えながら、嫌いなヨセフとどのようにシャロームができるのかを真剣に考えなくてはいけなかったのです。とは言え、ルベンとユダの言葉はかろうじてヨセフの命を救いました。ここにわたしたちの生き方に対する示唆があります。

今日の小さな生き方の提案は、大きな流れに対抗する小さな言葉を発することです。多数が一つの方向に流れていくとき、「否」を言うことは非常に困難です。イサカル、ゼブルンのように従ったり、ベニヤミンのように黙認したりしてしまう弱さがわたしたちにあります。多数派から嫌われる人にも人権があります。その人を庇う言葉が必要です。別角度から複数の弁護があればさらに救われます。嫌いな人を好きになれとは言いません。嫌いな人に対しても最低限の尊重をせよ、貶められていたら弁護せよ。それがシャロームを造る愛です。