言うべきこと ルカによる福音書12章8-12節 2017年8月20日礼拝説教

今日の箇所には三位一体の神が登場しています。三位一体とは、神の子イエス、イエスがアッバと呼んだ神、イエスの霊であり神の霊である聖霊の神が、一つの神であるという教理です。

「人の子」(8・10節)は、イエスの一人称です。イエスは「わたし」と言う代わりに「人の子」という言葉をよく用います。ややこしいのですが、神の子イエスは、自分を人の子と呼び慣わします。「神の天使たちの前で」(8・9節)とあります。この言い方は、「神の前で」の婉曲表現です。「神」を直接呼ぶことは不敬にあたるという理由で、ユダヤ人たちは「み名」「天」「天使」などを用いて回りくどく呼んでいました。だから今日の箇所にも神はいます。聖霊はそのままずばりの名称で登場しています(10・12節)。

今日は、三位一体の神について、それぞれの違いや、三者の関係について考えていきたいと思います。場面はキリスト者に対する迫害です。キリスト教徒であるという理由で不利益を被るとき、わたしたちの信じる三つで一つの神は何をなさるのか、どのような働きかけをしてくださるのか。戦争と平和について思いをいたす季節に、三一の平和の神について考えてみます。

「仲間であると言い表す」という言葉が二回繰り返されています(8節)。この言葉は、ギリシャ語でわずか一単語の動詞なので(ホモロゲオー)、少し訳しすぎです。そしてキリスト教の歴史の中では重要な宗教用語です。原意は、「一つ(ホモ)」と「言葉(ロゴス)」の合成からなり、「一つの言葉を言う」というものです。ここから派生して「同意する」「認める」という意味になり、さらにキリスト教の世界では、「告白する」「信仰告白を述べる」という意味にまで発展しました。

ほぼ同じ言葉を使っているフィリピの信徒への手紙2章11節の場面が分かりやすいと思います。一同が「イエス・キリストは主である」と外に向かって信仰告白を述べる場面です(エクソモロゲオー)。このように一つの信条を大勢が声を合わせて和する行為が、ホモロゲオーをするということの典型例です。礼拝の中で使徒信条を唱和したり、教会の信仰告白を一部唱和したりすることは、この伝統の上に立っています。

「人々の前でわたしを告白する者を、わたしも神の前で告白する」と、イエスは言っています。また、「人々の前でわたしを否定する者は、神の前で否定される」とも言っています。ここに、神の子イエスと、アッバと呼ばれる神の親しさと違いが表されています。

神は信者を否定するかもしれない方です。イエスを否定する者が、神の前で否定されるからです。ここで、イエスが神の前で信者を否定すると書いていないことが重要です。イエスは自分を否定する者をも否定しません。

神は自分を否定する者については何も反応しません。この限りで無神論(神を信じないという考え)もまた赦されます。しかし、神は神の子を尊重しているので、神の子を否定する者を否定します。ここに神の愛があります。それは他者の痛みを自分の痛みとする共感です。他人を否定することだけは赦さないという姿勢です。人権思想の萌芽がここにあります。人権尊重は、他者の尊厳が否定された時に痛み共感する技術です。神を無視し否定することを神は黙認しますが、神の似姿(創世記1章26-27節)である者たちをないがしろにすることは認めません。この意味で神は愛であり、愛は技術です。

ところで神の子は神と異なる意見を持っています。神の子は、自分を否定する者を否定しません。9節は注意深く読まなくてはいけません。繰り返しですが、イエスを否む者は、イエスによって否まれていません。神の前で神によって否まれています。それが自分を人の子と呼んで、あくまでも人々と肩を組んで連帯した方の誠実さです。三度イエスを否定したペトロを否定しなかったことが、ここで思い起こされます(22章54-62節)。

神の子は人間仲間と対等です。だからイエスを告白した者を、イエスも告白します。ホモロゲオーという言葉の重みを知る今、この相互の告白は驚くべき連帯感です。イエスを信じて従う者に、イエスも信じて従うのです。仮に弟子が間違えた道を歩いた場合ですら、イエスはその間違えた道につきあいます。迷った子羊と同じ道を神の子羊も歩みます。イエスは自分の意見を押し付けて人々を支配しません。

ここに神の子の愛があります。それは敵をも愛する愛です。こうしてイエスに向けてのあらゆる言葉が赦されます(10節)。原文は不思議な表現です。「人の子の中への(英語のintoに当たる前置詞)言葉を言う全ての者は赦される/そのままにされる」が、直訳です。ぐさっと刺さる言葉という意味でしょうか。心に留めておいて欲しい言葉でしょうか。イエスに共感して欲しい魂の叫びでしょうか。どんな言葉もイエスは自己の中へと留めます。

イエスはわたしたちの言葉をすべてそのまま心に収めて思い巡らしてくださいます。そして人生の苦しみに直面しているわたしたちに深く共感し、わたしたちと同じ言葉を告白してくださいます。わたしたちはイエス・キリストを通して神に祈ります。悔い改め、願い求め、感謝します。それはイエスが同じ言葉を神に持ち運んで下さると信じているからです。これが弁護士としての神の子の愛です。

さて聖霊はまた異なる意見を持っています。聖霊は神ともイエスとも異なり、人々が聖霊を冒涜する場合、それを決して赦しません(10節)。神は神を冒涜する者を黙認します。神の子は神の子を冒涜する言葉でさえも容認します。しかし、神の霊は神の霊を冒涜する者を決して赦しません。なぜなのでしょうか。

その理由は、聖霊が信徒に常に「言うべきこと」を与えているというところにあります(12節)。特に迫害の場面において顕著です。身に覚えのない逮捕が突然に降りかかった時、取調室や法廷でわたしたちは言葉を失います。もちろん黙秘権もありますから、弁護士が来るまでは話さない方が良いことは多くあります。逆に言えばそれだけに「言うべきこと」が厳密に精査されなくてはならないのです。相手の挑発的言動に乗って、同様に喧嘩腰になるべきでしょうか。特定秘密保護法と共謀罪が施行されている今の時代、わたしたちは突然の不当逮捕も想定しなくてはいけません。これは「言い訳」レベルの思い煩いではありません(11節)。

聖霊はわたしたちが困った時に、良心的な言葉を教えてくれます。自分の品位を保つ「言うべきこと」を授けてくれます。それによってわたしたちの全存在を支えます。品位を保つことは、人間にとってとても大切です。相手がわたしたちの存在を冒涜している場面で、特に大切です。わたしたちは敵を論破し支配するために生きているのではありません。わたしたちは敵を愛するために生きています。その具体は、敵が憎悪をむき出しにしてわたしたちの存在を冒涜している正にその時に、品位ある言葉で相手を諭すことにあります。それこそ聖霊が与える「言うべきこと」です。

迫害の場面でなくても、わたしたちの日常の「人々の前」(8・9節)でも、「言うべきこと」は重要です。聖霊には自負があります。「一人一人の中に住んでいて、その人の言うべきことを一々与えているのは神の霊である自分なのだ」という自尊感情です。「神の似姿」という外見だけが問題ではありません。「神の息」が吹き込まれ(創世記2章7節)、一人一人が聖霊の宮(主の家=神殿)となっているという中身も重要です(コリントの信徒への手紙一6章9節)。聖霊は尊い働きを担っているという自己評価のもと、ご自分の仕事を愛しています。そして自尊の感情をもってご自分を愛しています。

聖霊はわたしたちの良心を育てる教育者です。良心的な行動や言葉を出せるように、生まれながらの罪人であるわたしたちを導くのです。伝統的な言い方で言えば「聖化」と言います。聖霊が教える良心的な振る舞いの中に「冒涜」という行為は含まれません。教育の過程で、教育の目的と反する言動がある場合に、教育者は子どもを叱ります。だめなものはだめなのです。教育の目的とは人格の完成です。他者を冒涜する行為(差別がその代表例)は、完成され成熟した人格には見られない行為です。だから教育者としての聖霊は、自身が人々に冒涜されることを赦しません。

言うべきことを教える聖霊は、言われるべきでないことを赦しません。そうでなくては一貫しないからです。ここに聖霊の神の愛があります。それは未熟な者を育てる愛であり、その一環として間違えを正す行為があります。聖霊は自分の働きを愛しているので自尊心を保ちながら、言われるべきではない冒涜の言葉に対しては、教育的にそれをそのままにしておきません。ここに聖霊の神の愛があります。

三者三様ですが、三一の神は愛です。神・神の子・神の霊それぞれの意見は、それぞれに重要な教えを含んでいます。隣人に共感する愛、自ら隣人となる愛、隣人を諭す愛です。また、寛容を貫く愛と正義を貫く愛です。他者の尊厳を保つ愛と自分自身の尊厳を保つ愛です。いずれにせよこれらの愛は成熟した姿を示しています。それぞれの愛を個別に見ても品位を保っている行為です。

これらの個別に意見の異なる三者が一つの交わりの中にいることも成熟さの表れです。神・神の子・神の霊は、相互の違いを認め合い、尊重し合い、多様性を喜んでいます。お互いを必要とし、誰かを排除したり、自ら脱退しようとしたりしません。この交わりそのものが愛です。愛は、「会い」であり、「合い」です。他者と出会うことであり、他者と合流することです。

さて権力者たちはイエスをはじめ弟子たちをなぜ裁判所に連れて行き、殺していったのでしょうか。恐怖がその原動力だったように思います。愛の反対語はさまざまに思いつきますが、その一つは恐怖ではないでしょうか。愛を教える人、愛を体現する共同体、これらは権力者にとって恐ろしいものです。恐怖による支配が通じないからです。完全な愛が恐怖を締め出すからです。下品な者たちは品位を保つ者たちを本能的に恐れます。迫害や弾圧は恐怖心の表れであり、ある種の劣等感の表れです。

教会と民主社会の土台と模範は三位一体の愛の神にあります。愛のない教会・社会は、自己否定をしている人間集団です。赤の他人が苦しんでいることへの共感、自ら隣人となる行為、適切な距離を保ってお互いの尊厳を大切にする交わり。これらがなければ、それはもはや教会・人間の世ではないのです。多様性を喜び出会いと合流を楽しむ愛が、わたしたちの人生を豊かにします。

今日の小さな生き方の提案は、わたしたちの神にならって何か一つ小さな愛の行いをすることです。成熟を目指し言うべきことを語り良心を育てるのです。痛めつけられている人のために祈ること、困っている隣人の代弁をすること、ダメなものはダメと諭すこと等々。相手の反応は怖いものです。しかし、愛によって恐れを締め出しましょう。愛はすべてを完成させるきずなです。