証人となる 使徒言行録1章6-11節 2020年8月30日礼拝説教

6 それから、彼らが共に来て、彼に尋ね続けた。曰く「主よ、この時機にあなたはイスラエルのために王国を復興しつつあるのか」。 7 そこで彼は彼らに向かって言った。「父が彼自身の自由において据えた時間や時機を知ることは、あなたたちのものではない。 8 しかしながら、あなたたちは力を受けるだろう、聖霊があなたたちの上に臨むと。そしてあなたたちは私の証人となるだろう、エルサレムにおいてもまたユダヤとサマリアの全土においても、さらに地の果てまでも」。 9 そしてこれらの事々を(彼は)言いながら、(彼らは)見ながら、彼は上げられた。そして雲が彼らの目から彼を隠した。 10 そして彼らが天の中へと行きつつある彼を凝視し続けていた時に、見よ、白い服の二人の男性が彼らの傍に立っていた。 11 彼らもまた言った。「ガリラヤの人々よ。なぜあなたたちは天の中へと見続けながら立ち尽くしているのか。天の中へとあなたたちから取り上げられたこのイエスが、天の中へと行きつつある彼をあなたたちが見た仕方で、そのように彼は来るだろう」。

 6節「それから、」(men oun)は原語では二語で書かれ、場面転換の時にルカが用いる表現です。5節と6節の間には、時間的にも場所的にも深い裂け目があります。5節と6節は同じ日ではありません。また5節までは屋内の宿屋の場面であり、6節は屋外の場面です。直後に天に挙げられるのですから。

 では6節の場所はどこでしょうか。そこはオリーブ山、ゲツセマネと呼ばれる祈りの場所でしょう(12節、ルカ22章39節)。イエスはそこで一人で祈っていたのだと思います。そこへ「彼ら」が大勢で連れだって押しかけて来たのです。似たようなことはルカ福音書21章37-38節にも記されています。

「彼ら」(6節)とは誰のことを指すのでしょうか。新共同訳は「使徒たち」(3・6・12節)と呼ばれる男性十一人と限定したがりますが、「女性たちやイエスの母マリア」も加えた「百二十人ほどの人々」(14-15節)であっても悪くありません。パウロの受け取った言い伝えによれば、復活のイエスは五百人以上の人々の前に同時に現れています(コリント一15章6節)。ガリラヤからイエスに付き従っていた「弟子の群れ」(ルカ19章37節)は、百二十人ぐらいの一団だったかもしれません。

その大勢の人々が、祈り終えたイエスにひっきりなしに尋ねるのです。「ユダヤ民族独立のための武装蜂起の機会は今ですか」という質問です(6節)。十字架で処刑されたと思われているイエスが、奇跡的な仕方で実は生きている。神によって復活させられた。この出来事をうまく宣伝に利用すれば、神殿貴族たちの支配するユダヤ自治政府を打倒し、ローマ帝国総督府のピラトの軍隊を一掃できるかもしれません。「ダビデの子」イエスによって、ダビデ王朝の復興が成し遂げられる大きな機会です(ルカ20章41節以下)。弟子たちの中には「熱心党のシモン」(13節)もいます。熱心党は、ユダヤ人たちの思想グループの中の極右勢力です。武装蜂起、武力によるクーデターを肯定しています。イスラエルのイスラエルによるイスラエルのための独立王国です。これは質問のかたちをとった強い要請です。ユダヤ民族主義者たちの悲願の実現について、「今でしょ」とイエスに要求しているのです。

イエスは無理解な弟子たちに答えます。「父が彼自身の自由において据えた時間や時機を知ることは、あなたたちのものではない」(7節)。弟子たちの一番の間違いは、時を支配する神を自分たちのものに支配しようとしていることです。ダビデの家を興し、ダビデ王朝を建て、またそれを滅亡させたのは、神の自由意思によるものです。しばしば「権威」と訳されるexousiaは、原意としては「~から」+「存在すること」であり、「自由」「権利」とも訳しえます。憲法の立憲主義重視という視点から、私訳においてはなるべく「自由」と訳すようにします。実際「神の自由」「自由なる神」は全聖書を貫く主題でもあります。神の自由を認めること、それはすなわち自分の小ささや弱さや頑なさや不自由さを認めることですから、信仰の第一歩です。「今でしょ」と神に迫ることそのものが不信です。神の導く歴史を自分のための時間であるかのように誤解してはいけません。

「しかしながら、」(8節)。この「しかしながら」allaは非常に大きな意味の逆接です。神の定める好機を知ることが許されていない弟子たちにも、ただしかし、許されていることがあります。大きな約束です。それは「聖霊が臨むと」「力を受ける」ということです。「力」dynamisはダイナマイトの語源です。爆発的な大きな力です。聖霊におけるバプテスマは、小さな一人ひとりにとてつもない力を授けるのです。そしてこのとてつもない爆発力は民族主義と正反対の方角に人を衝き動かします。

サマリアを除くユダヤをユダヤ人が支配するという力ではありません。ユダヤ人が忌み嫌っているサマリアの全土が含まれています。「ユダヤとサマリアの全土」が聖霊のバプテスマを受けた人々の活躍する場所です。「さらに地の果てまでも」とあります。ユダヤ人のための独立王国ではなく、ユダヤ人がサマリア地方を併合している姿でもなく、全世界が信徒たちの働く場所です。どのような働きでしょうか。イエス・キリストの証人となるという働きです。なお、ここでガリラヤが省かれているのは意図的です。ガリラヤ出身のユダヤ人がガリラヤを中心にしてユダヤ・サマリア全土を支配するという図を、弟子たちは想定していたかもしれません。しかしルカの描く復活者イエスは、そのような「ガリラヤ愛国主義」も採りません。もっと視野が広いのです。エルサレム、ユダヤ、サマリア、次は「地の果て」です。そして力点は「地の果て」にあります。なぜならルカが非ユダヤ人・非サマリア人だからです。エルサレム住民から見ればいささか侮蔑的に「地の果て」と呼ばれているギリシャ世界に住むルカが、「地の果て」からエルサレム教会の誕生を見ています。

学者の中にはこの「地の果て」がローマのことを指すのか、はたまたスペインのことかということを詮索し論じる人もいます。しかしそれはルカの本意ではありません。世界中、「中央」に対して「周縁」とされている場であればどこでも「地の果て」であるからです。世界の片隅に追いやられているこの私の叫び声に応えてキリストは現れてくださる。これがルカの伝える救いです。

この関連で全世界の片隅においてキリストの証人となるということが何をすることなのかが分かります。「証人」martusという言葉はルカ文書(ルカ福音書・使徒言行録を併せた呼び名)においては鍵語です。新約聖書全体で35回中用いられ、ルカ福音書で2回、使徒言行録で13回用いられています。ルカ文書の特徴は、イエス・キリストの復活を目撃証言する人という意味合いで用いられていることです(ルカ24章48節、使徒1章22節・2章32節・3章15節・5章32節・10章39節・13章31節)。証人とはキリストの復活を証言する人のことです。

復活の目撃証人の手本が「白い服の二人の男性」です(10節)。この二人はルカ福音書24章4節にも登場します。新共同訳「輝く衣」とありますが、10節の「白い衣」と同じ単語です。この二人が似たような反語表現を女性弟子たちにします。「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ24章5節)。本日の言葉とよく似ています。「なぜあなたたちは天の中へと見続けながら立ち尽くしているのか」(11節)。二人の男性は、世界の片隅で呆然とする人々、途方に暮れている人々の傍らに立ちます。キリストの墓の前で遺体を見失った人々や、ゲツセマネの園でイエスを見失った人々です。困っている人の傍らに立つことが証人の一つの仕事です。このことは相手に慰めを与えます。次に二人の男性は「イエス・キリストはあなたと共に見える形ではいない。彼が復活されたから」ということを語ります。これが証人の二つ目の仕事です。このことは相手をある程度がっかりさせます。さらに二人の男性は、「あなたはいつかキリストに会える。それがあなたの人生の希望だ」と語ります。これが証人の三つ目の仕事です。ここにおいてわたしたちは十全なかたちで目撃証人となることができます。

弟子たちに託された「復活のイエスの目撃証人となる」という任務は、世界で片隅に追いやられている人の傍らで、復活のイエスがあなたの希望となるということを静かに語ることです。「白い衣の二人の男性」は突然現れたわけではありません。原文はずっとそこに二人が居たことに後で弟子たちが気づいたような書きぶりです。静かに佇んでいたのでしょう。声高にイエスの昇天と再臨を語ったのではなく、実に静かに「なぜ立ち尽くして途方に暮れているのか」と問いかけています。あなたたちは復活の証人となるのに、なぜ。「なぜ」という二人の問いかけは天の中へと消えたイエスを見ていることに対してではなく、弟子たちが失望のあまり動けないことに対する働きかけととります。

さて、「凝視する」(10節)は新約聖書に14回しか用いられませんが、そのうち12回がルカ文書に集中しています。そのうちの凝視される対象がイエスであるのはルカ4章20節と本日の箇所だけです。ルカ4章はナザレの会堂でイザヤ書を開き解釈されたイエスを会衆が凝視した礼拝の場面です。イエスの昇天の場面もまた礼拝がイメージされています。なぜなら、もう一度同じ様子で天から来られる時、天上の者・地上の者・地下の者すべてが「イエス・キリストは主である」と信仰告白をして礼拝をするからです(フィリピ2章10-11節)。弟子たちはみんなで天を見上げながら、雲の向うにおられ、ベールに包まれたイエスを見ようとして凝視し続け礼拝しています。「天の中へと」という言い回しが4回も使われていることとも、礼拝のイメージを強化しています。「天にまします我らのアッバ」。

復活し、天に昇ったイエス・キリストを礼拝するということは、共に聖書の中へと入り込みどこにキリストがいるのかを凝視する作業です。共に賛美する中で、賛美の上に座しているキリストを凝視する作業です。共に祈る中で、私たちの祈りを天に持ち運ぶキリストを凝視し続ける作業です。こうして私たちはもう一度来られる方を迎える準備を毎週しています。そのような礼拝の人々はふと気づきます。自分たちの傍らに復活の証人が佇んでいます。何のことはない、隣で礼拝をしている人が復活の証人です。お互いです。

今日の小さな生き方の提案は、お互いがすでにキリストが復活したことの証人であることに気づくことです。と言いますのも、わたしたちは聖霊が降った後、「ペンテコステ以後」を生きているので、聖霊のバプテスマをすでに授けられているからです。わたしたちは力を受けています。神の歴史を支配していないことを知るわたしたちは「そんな大それた人間ではない」と否定したがります。しかし神はそのようなわたしたちに聖霊を授け、キリストの復活の命を配られました。それが分からなくなり呆然と立ち尽くす時には、隣人を見れば良いのです。そこに復活の証人がいます。お互いに見合えば良い。そこにキリストがよみがえった証拠があります。人生で「地の果て」の失望を感じる私たち一人ひとりがなぜ共に礼拝できているのか、その不思議を感じれば良いでしょう。すると視野が開けます。自由な神・聖霊がここに臨んでいます。