試すということ 創世記42章10-17節 2020年2月23日礼拝説教

10 そして彼らは彼に向かって言った「いや、私の主人、そしてあなたの奴隷たちは食物を買うために来た。 11 私たち全ては一人の男性の息子たち、私たちは。私たちは正直。あなたの奴隷たちは偵察ではない」。 

 先週までの話でヨセフは見込み捜査をする警察・検察のように、カナン人10人組を「偵察」と決めつけていました。今日の話はそれに対する兄たちの反論です。10節の主語は「彼らは」です。通訳越しではあっても、兄たちが口々に反論したことが伺えます。10-12節で目立つのは、否定の言葉です。原文では「ロー」という否定辞が三回も使われています。兄たちとヨセフの対話がまったく噛み合わないことが分かります。

 「あなたの奴隷たち」(10・11節)は謙譲語です。「私たちは」という意味で用いています。「私の主人」は、目の前にいるエジプトの総理大臣ツェファナト・パネア(ヨセフ)を指しています。尊敬語で、「あなた」という意味です。「奴隷たち」は「礼拝者たち」という意味でもあります。10人が土下座をしながら話していることも示しています。対等の売買交渉ではありません。主人と奴隷、エリート高級官僚と自営業の羊飼い、エジプト人とヘブライ人(渡り者)、この上下関係が歴然とあります。

10人からすると、なぜ首都まで連れてこられて、こんな偉い人に直接穀物を買わせて欲しいと言わなくてはいけないのか、よく分からないままの対話です。しかも単純に売らないと断られるのではなく、偵察であるという疑いまでかけられています。「なんとついていないのか。このまま処刑されるかもしれない」。通訳越しに聞いた総理大臣の発言は、10人を動揺させます。

彼らの慌てぶりが、言葉遣いからも推測できます。10節の「そして」は余計な言葉です(サマリア五書・ギリシャ語訳は削除修正)。11節の二回目の「私たちは」も無くても良いし、不自然な箇所に付け加えられています。さらに「私たちは」の綴り方が特別です。アナフヌー(私たちは)という言葉の、最初の文字「ア」にあたるもの(アレフ)が無いのです(サマリア五書は正しい綴りに付加修正)。ナフヌーという綴り方は、旧約聖書に3回しか使われていません。慌てて話すと、余計な言葉がついたり、語順がめちゃくちゃになったり、必要な文字が抜けたりするものです。10人がいかに慌てていたかが原文では表現されています。

ナフヌーという綴りに別のことを読み込む学者もいます。アレフというアルファベットの最初の文字は「一」という意味もあります。10人の兄たちは「私たち」を、一人の兄弟はここにいない(ヨセフの不在か、あるいはベニヤミンの不在か)という意味を含めて、あえてナフヌーと言っているという推測です。興味深い読み込みです。ヘブライ語を理解できるヨセフは、ナフヌーという言い方に込められた意味について考えを巡らせたことでしょう。「兄たちは、自分に対してした酷いことを悔い改めているかもしれない」とヨセフは言葉遣いから推測しだします。

11節にある三回目の「私たちは」は、「正直」という形容詞を伴っています。厳密には「正直な男性たち」という形です。全聖書中767回も登場する形容詞ですが、「正直な男性たち」という形では創世記42章にしか登場しません。鍵語です。本日の箇所の要点は、兄たちが正直であるということと、兄たちが信実と共にあるか(16節)ということとの判別です。後でその点を掘り下げます。

12そして彼は彼らに向かって言った。「いや、実際あなたたちはかの地の裸を見るために来た」。 

兄たちの反論をヨセフは、まったく聞こうとしません。9節の嫌疑をそのまま繰り返すだけです。「何か隠していることがあるだろう。正直者というのだったら、もっと正直に言わなければ信用しない。外国人は犯罪予備軍なのだから、あなたたちは偵察に違いない」という態度です。実はヨセフの方が偵察行為をしていて、自分の失踪について兄たちがどのように考えているのかということや、父ヤコブ・弟ベニヤミンの安否を知りたいとも考えています。

13 そして彼らは言った。「あなたの奴隷たちは十二人兄弟。私たちはカナンの地の一人の男性の息子たち。そして見よ、最も小さい者は私たちの父と共に(いる)、今。そしてもう一人、彼は存在しない」。 

 兄たちはもっと正直に言いました。その方が信用されるかと思ったからです。「実は、男兄弟は10人ではなく12人なのだ。なぜここにいないかと言うと今現在父と共にいるのだ。実は、父が末息子を可愛がっているからだ。実は、父にはもう一人可愛がっている息子がいたが、もう存在しない」。

 ヨセフは父ヤコブと弟ベニヤミンが無事であることを知ります。一安心です。そして、兄たちの本心を初めて知ることになります。彼らはラケルの息子たちだけがヤコブに依怙贔屓されていることに不公平感を持っているのです。ヨセフは、人の気持ちを察することができない個性の持ち主です。初めて本人たちの口を通して、自分がヤキモチを焼かれていたということを知るのです。13節「そしてもう一人」という表現は、聖書の中ですべて一対のものの「残りの一方」を指すときに用いられます。ベニヤミンとヨセフという一対だけが問題になっています。10人は数に入れられていません(ましてや娘たちに至っては物語の中でほとんど無視されています)。

 そして兄たちのもう一つの本心もヨセフは知りました。彼らは常にヨセフのことを忘れていないということです。やはりナフヌーという言葉は、ヨセフを欠いているという意味の「私たち」だったのです。ただしかし、忘れていないということと、悔い改めているということとは別のものです。ヨセフに対するあのひどい仕打ちを、当然の行動と考えるのか、それとも申し訳なかったと考えるのか、兄たちの本心はまだ分かりません。

14 そしてヨセフは彼らに言った。「それが、『あなたたちは偵察』と言って私があなたたちに語ったことだ。 15 このことにおいてあなたたちは試される。ファラオは生きている。ここからあなたたちが出て行く場合というのは、実際あなたたちの最も小さい兄弟がここへと来る場合だ。 16 あなたたちはあなたたちから一人を派遣せよ。そうすれば彼はあなたたちの兄弟を取る。そしてあなたたちは監禁されよ。そしてあなたたちの言葉が試されよ。信実があなたたちと共に(ある)だろうか。そしてもし(信実では)ないなら、ファラオは生きている、実際あなたたちは偵察だ」。17 そして彼は彼らを監視のもとに三日間集めた。

 もう一度ヨセフは「あなたたちは偵察だ」と決めつけ、兄たちを追い詰めます(14節)。最初に正直に言わなかった者の言葉は信用しないという態度です。ここからは言葉ではなく、行動で自分たちが偵察ではない・正直者だということを証明せよというのです。ヨセフは大仰に、誓約の定式を持ち出します。「ファラオは生きている」(15・16節)。王はエジプトでは現人神です。「生ける神の前で、取り消すことのできない言葉をこれから語るからよく聞いておけ」という意味です。

それは極めて難しい試験問題です。父ヤコブが依怙贔屓している弟ベニヤミンを、このエジプトまで連れてこいというのです。「そうでなければ、もう一人兄弟がいるという言葉は信用できない。自分たちの中から一人を選び出し、その一人に兄弟を連れてこさせよ。それができれば信実はあなたたちと共にあるが、それができないならばあなたたちは偵察だ」。

ヨセフは「試す」(バハン)という言葉を二回用いています(15・16節)。一体何を試そうと考えたのでしょうか。何が兄たちの合格点なのでしょうか。動詞バハンは聖書の中で全29回登場します。そのうち、誰が試すのかという主体で最も多いのは神です(21回)。意味合いは、「金を精錬するように、神が人の心を調べる」というものです。神による良心の吟味です。それは「正直」ということと「信実」ということの違いを調べることです。「正直」なだけでは不十分、合格点は「信実」です。

「正直」(ケン)という言葉の意味は、「その通り」というものです。悪く言えばわがまま。自らの意思を何でもその通りに行うことです。正直であることは、その人が善人であるかどうかを保障しません。何でも自分の気持ちに正直に、相手の心をズバズバと切り裂く人を想像すれば分かります。ある意味では、ヨセフもそのような正直者で、兄たちを深く傷つけていたわけです。「私たちは正直」という兄たちの主張は、「だからヨセフを成敗して良いのだ」という結論にもなりうるので危険です。

 ヨセフは兄たちの使う「正直」に対して、似ているけれどももっと意義深い言葉をかぶせてきました。「信実」(エメト)です。語源はアーメンと同じ。意味合いは、「信頼に値する誠実さ、確固とした真理性」です。お祈りの最後に言うアーメンには、「あなたの言葉は確かにそうだ、私もそれを願う」という相互の確認が含まれます。また相手との信頼関係も、ここには含まれています。良心というものは、神や隣人との信頼関係を基礎にした「良い心根」です。相互の信頼に基づく意思の方が自分のわがままよりも確固として揺るぎないものなのです。そこに真理があります。自分の気持ちに正直な行いから、一つ階段を上がって人間共同体にとって信頼に値する行動を取ることができるか。ヨセフは兄たちの良心に問いかけています。

 仮にヤコブやヨセフの振る舞いが兄たちを苛立たせたとしても、兄弟たちはヨセフに暴行を加え、外国に売り飛ばすなどという暴挙に出るべきではありません。そのことを父に隠すべきでもありません。兄弟たちは、ヤコブやヨセフを信頼して対話を試みるべきだったのです。そして全体にアーメンと言える結論を導くべきだったのです。いや今からでも遅くはありません。悔い改めて、心を神に試されて、「巻き戻し」を今から兄弟たちや、父ヤコブや、弟ベニヤミンがしようとするかどうか。「信実があなたたちと共にあるのかどうか」、ヨセフは見極めようとしています。ヨセフに対して謝罪し賠償する気があるのか、ヤコブに対して率直な話ができるのか、ベニヤミンに対して誠実であるのか、信実かどうかが試験の要点です・

 10人は監視下で話し合い、誰を遣わすべきか大激論を交わします。しかし決まりません。そして三日が経ちました。続きはまた来週。

 今日の小さな生き方の提案は、信実な行動をとることです。一対一の関係や、もっと多人数の交わり、人間共同体にとって信頼に値する行動をとることです。信実である神は、わたしたちに信実があるかないかを問い、さまざまな人や出来事を通して、私たちの良心を試しています。その神の試験を喜んで受けていくことが必要です。神の前に過去の罪を悔い改めているのか、現在隣人に心を開いているのか、将来にわたって隣人に仕えようとしているのか。ヨセフと共におられる神が、わたしたちの心を精錬しています。