試みと争い 出エジプト記17章1-7節 2015年9月27日礼拝説教

今日の箇所は裁判の場面です。被告はモーセ、原告はイスラエルの人々です。数名のイスラエルの長老が裁判官でしょう(5節)。裁判の場面であるということは単語から推測できます。

今まで登場しなかった「争う」という言葉が何回も出てきます。人々は単に「不平を述べた」(3節。15章24節、16章2節ほか参照)だけではなく、争訟を起こしています。動詞リーブには、訴訟で争うという意味があります。その名詞形であるメリバにも、争訟の意味があります(7節)。

さらに「試す」ニサーという動詞も、裁判に使われることがあります(2節)。「証明する/論証する」という意味です。だから「試す」ニサーの名詞形マサも(7節)、「証明」と訳しても良いのです。これも裁判用語です。

そして、人々はモーセを石で打ち殺そうとしました(5節)。石で打ち殺すことは、イスラエルの公式の処刑方法です。人々は裁判によってモーセが死に値する罪を犯したことを立証し、死刑判決を出させ、公式に処刑しようとしたのでしょう。

人々の訴えの中身は、モーセが人々をだましてエジプトから連れ出したこと、または無責任な連れ出し方をしていることにあります。訴えをまとめて言えば次のとおりでしょう。

「モーセは、約束の地があたかもすぐ近くにあるような言い方で、巧みにわたしたちをたぶらかしている。または間違えた旅程を組み立てて、飲み水が無い道に導いている。そのためにわたしはのどが渇き、子どもも家畜も死のうとしている。モーセは主なる神を伝言していると言うが、本当にそうなのか。誰も見たことがないではないか。モーセは主が共にいることを立証すべきだ。彼は神の名をみだりに唱えているのではないか。立証に失敗するのならば死刑判決を求める。彼によってわたしやわたしの家族やわたしの家畜が殺される前に、彼を処刑すべきだ。」

ひとびとは各人が自分の頭で考えて自分の損害を賠償するようにと訴え、損害を未然に予防しようとして訴えています。「わたし」(3節)という主語にそのことが表れています。裁判または行政交渉は、「わたしはある」(3章14節)という志がなければできません。今日の箇所はしばしば否定的な箇所と考えられています。それは一面正しい評価です。ただしもう一方で、この箇所は肯定的にも読まれるべきだとも考えます。ひとびとが成長しているとも言えるからです。自分の頭で考えて指導者層という権力を持つ人に、言論で勝負を挑むことは悪いことではないでしょう。むしろ、ファラオに対してモーセやアロンが体を張って交渉していた姿に、ひとびとが感化されているとも考えられます。「わたしはある」という状態に、一人ひとりが成り、自分の頭で考えて、裁判という合法的非暴力手段で、自分の主張を訴えているのです。

一人ひとりが批判的精神を持つことは良いことです。およそ人間の社会においては必ず力を委ねられる人がいます。組織である限りパワー/権限を持つ人がいます。権力そのものは悪ではありません。しかし、権力を持つ者は抑制的でなくてはいけません。絶対的権力は必ず腐敗するからです。力を濫用してはいけません。そして人々からの批判に対して開かれていなくてはいけません。国家であれ、会社であれ、学校であれ、家庭であれ、さらに言えば教会であれ、およそ人間の社会は個人よりも上に立ってはいけないのです。

モーセはこの時点で独りよがりの独善的指導者になっていたのかもしれません。16章2節では「モーセとアロンに不平を述べ立てた」ひとびとが、この場面ではモーセとだけ争っています(2節)。モーセは民に「わたしと争うのは主を試すことだ」と言います。かつては「わたしたちへの不平は主への不平だ」と言っていたのが、微妙に変化しています(16章8節)。モーセは自分だけを神と同一視していないでしょうか。モーセはアロンやミリアムを無視していないでしょうか。

民がモーセ一人を狙い撃ちする姿勢とモーセのみの強い反発に、わたしはモーセとミリアム・アロンの間の小さな亀裂、モーセとイスラエルの民との大きな亀裂を推測します。そうでなくてはどうしてこの短期間に同じような不平不満が湧き出るのでしょうか(15章22-27節)。つまり民の不平は、モーセに対する正しい批判だった可能性があります。正しい批判には正々と向き合う必要があります。そうでなくては、感情的に亀裂が深まり「わたしはモーセにつく」「わたしはアロンに」「わたしはミリアムに」という分派・分裂に発展してしまうかもしれません。

モーセは自力での解決をあきらめ、神に叫びます。神は、モーセの危機というよりは、信仰共同体全体の危機に自ら立ち上がります。「ホレブの岩の上であなたの前に立つ」(6節)という表現は、そこに神が居られ、神が直接歴史に介入しているということを示しています(3章1節)。わたしたちも似たような深刻な状況に陥った時に、神の振る舞いを思い出さなくてはいけません。

神はイスラエルの人々を叱りつけたり、「わたしを試すとは不敬だ」と言って否定したり、門前払いにしたりはしません。モーセの側にべったりとつきません。同じ神は別の場面で、「わたしを試せ」とも呼びかけ、そのためならば喜んで奇跡(しるし)を起こす神です(イザヤ7章10-17節)。神は正々と裁判を受けて立ちます。モーセが神の代理人であることの立証を手伝います。

神がすべきことは、モーセが神の言葉を伝言していること、アロンがそれを通訳していること、そして神は良い羊飼いとしてひとびとを憩いの汀に伴い、食べさせ飲ませ養いながら、約束の地に導くことを立証することです。この場面ではつまり、奇跡的な方法で喉が渇いているひとびとと家畜に飲む水を与えるということが、その立証になります。

イスラエルの人々を単純に断罪しない神は、モーセ・アロン・ミリアムら指導者層にも、民全体にも益となる解決策を示します。神は両者を対立構造では見ません。いわゆるwin-winというどちらも損しない解決策を示します。そこに「アロンの杖」を用いるという仕掛けがあります。「ナイル川を打った杖」(5節)は、モーセのものではなくアロンのものです(7章19-20節。なお8章1・12節も参照)。アロンはそれによってナイル川を血の水に変えたのでした。「十の災い」の最初の奇跡でした。契約の箱の中には、先週登場した「マナの壺」・今週登場の「アロンの杖」・十戒の二枚の板が収められます。いわゆる「三種の神器」に似たものですが、アロンの杖が出エジプトという救いの象徴として重要であるということの証です。

神はアロンのことをモーセにも人々にも思い出させます。民はモーセだけを槍玉に上げていましたが、アロンも指導者であり、さらに言えばミリアムも指導者です。〔ミリアムとアロンは長らく奴隷生活を共にしている姉弟なので、もともと近い関係です(民数記12章参照)。〕アロンは、モーセから見れば雄弁な頼れる通訳者・兄であり、人々から見れば直接従う声を発する人です。ファラオに音を上げさせた行政交渉と「十の災い」の立役者です。神はあえてここで小道具を用いさせて、アロンへの信頼を呼び起こしています。どちらかと言うとモーセは杖という小道具を使いたがらなかったのですが(14章16節の神の命令と同21節のモーセの執行を対比)、今日の箇所では主の命令通りアロンの杖を持って、それで岩を打ちます。

この行為そのものに人々とモーセをつなぐ力がありました。また、モーセとアロンやミリアムをも強く結ぶ力がありました。モーセは頭を下げて、今まで嫌っていた杖を貸してほしいとアロンに頼んだのでしょう。「あなたの杖が必要です」と言われ、アロンは喜んで貸しました。アロンが杖を貸すことは、この裁判でアロンがモーセの弁護をしたことと同じです。ひとびとはモーセの傍らに弁護士として立つアロンを見て、分派・分裂を思いとどまるのです。

そしてモーセがアロンの杖で岩を打つと、民全体の渇きをいやす水が湧き出ます。湧き出たのでしょう。実は結果は省かれています。結果よりもアロンの杖に代表される過程が大事だからでしょう。いずれにせよ奇跡的に湧水が出たと推測して構いません。このような奇跡を行えるのは神の代理人だけです。神はモーセと共にいて、モーセに奇跡を行う力を与えたことが証明されました。

興味深いことに、イスラエルのひとびとはこの出来事を、「主はわれわれの間におられる」(7節)ことの証明と言っていることです。決して「神、モーセと共に」に限定していないで、「神、われらと共に」かどうかが問題だと彼ら彼女らは考えています。この点について少し掘り下げて考えます。

前置詞ケレブを「間」と翻訳することは、モーセと民、モーセとアロンの間に神が仲介したという意味を強めます。それもあります。今まで述べたように亀裂を想定する立場からは、もっともな翻訳です。神は共同体全体の神であり、共同体内部の破れを繕う神であるということが前面に出ます。

ただし、もう一つの翻訳可能性もあげておきます。ケレブには「体内奥深く」「意思や感情を司る腹の底」という意味もあり、辞書の第一の意味はこちらです。ひとびとをつなぐ神が、ひとりひとりの腑に落ちるかたちで臨在したことも証明されたように思います。ひとりひとりが湧水によって腹の底から渇きを癒され神にしっかりつながったということです。神は個人の神であり、各人と共にいて永遠の命を与える神であることが前面に出ます。「わたしたち」と「わたし」。どちらも大切です。

おそらくその場でミリアムが仕切る礼拝が執り行われたことでしょう。恵み深い神は厳しい裁判を通じ「雨降って地固まる」を実現させる神です。その神を賛美する礼拝が行われます。ミリアムはモーセの立場で「メリバやマサで民は心を頑なにした」とも歌い(詩編95編8節)、しかし、結論的には「主が岩を開かれると、水がほとばしり/大河となって、乾いた地を流れた」(詩編105編41節)と歌い上げたと推測します。会衆全員が「アーメン(本当に)」と言える賛美歌を創り、民をひとつにまとめ上げたと思います。

今日の小さな生き方の提案は、一つに神の振る舞いにならうことです。対立構造でものごとを捉えないということです。「第三の当事者」として平和的に紛争を解決する生き方を身に付けることです。それは「客観・中立」などとうそぶいて、対立を放置する姿勢でもありません。「善良なる市民の沈黙」を貫いて、悪に加担することでもありません。ある意味でどちらかに偏りながら、全体の益をはかることであり、どちらにも損が無い道を提示し、共に歩くことです。「あなたたちは敵同士ではない」と気づかせ、どちらとも共に生きる生き方です。これはイエス・キリストの生き方でもあります。

もう一つの小さな生き方の提案は、各人が幸せになる礼拝を続けるということです。魂の奥底で神が共に居ることを体感できる個人が集まることです。他の誰のためでもなく「わたしのために水を飲む」ことです。サマリア人女性のように(ヨハネ4章)。それによってわたしたちは一つになれるからです。