誰のための富 ルカによる福音書12章13-21節 2017年8月27日礼拝説教

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)。随分と唐突な質問のように見えます。おそらくは13節から21節が、「恐れるな」(4節と32節)と「思い悩むな」(11節と22節)に挟まれていることの影響でしょう。神のみを畏れよということと、神に委ねよということの間に、「神と富」をどのように考えるべきかがあります。結論は、神の国を求めよ・富を施せという教えとなります(3134節)。この結論をめざす前段階が、今日の箇所にある「無考えな金持ちの譬え話」です。

ルカは元々独立して言い伝えられたこの譬え話を(1620節)、相続の問題や富の用い方の問題と結びつけました(13-15節、21節)。それによって宗教的な問いが生まれます。わたしたちの富はどこから来るのでしょうか。命はどこから来るのでしょうか。富と命には、どのような関係があるのでしょうか。

冒頭の質問を上げた男性の場合、すなわち、自分の兄弟が死んだ父親の財産を独り占めしていることに困っている男性の場合、富は父親から生じるものと考えられています。この人が長男である場合、他の兄弟たちよりも倍の相続分があります。この人が次男以下の場合は長男の二分の一が彼の相続分です。兄弟間の彼の位置は不明です。

なお有名な「放蕩息子の譬え話」(1511-32節)は、生前贈与の場面です。これもルカにしかない譬え話なので、両者を関連付けて読みなさいとルカは告げているように思います。生前贈与された富の管理に失敗した弟息子のことを、ただ生きて帰ってきたことのみをもって喜ぶ父親は、富と命の優劣を示しています。命が先、富が後なのです。

イエスの答えはつれないものでした。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)。「調停人」というよりは「分配人」(田川訳)の方が語義に忠実です。そして、「分配者としてあなたたちの上に立てたというのか」(岩波訳)が直訳調です。兄弟間の上に立つ者は誰もいないから、自分たちで考えなさいとイエスは言います。富の分配は当事者同士がするべきということです。当たり前のように金持ちはすべての財産を自分の息子に継がせます。当時は相続税という考え方がありません。

相続税は、富が誰のものであるべきかということを考えたルールです。もし富が常に同じ血族に相続され続けるなら、金持ちの子孫は常に金持ちであることが保証され、身分が固定化されます。多くの土地を相続しても、税が高くてその土地を売らなくてはいけない場合、国のものとなります。そこで再配分が起こるわけです。だからその税率について、わたしたちは真剣に考えて、自分たちで決めなくてはいけません。現代ならばイエスは相続税について語ったことでしょう。本当は、社会全体がこの再配分を考えるべきだからです。

イエスの時代、相続税はありません。身分制がありました。だから、遺産相続の議論は、イエスにとって余り興味がありませんでした。大多数が貧しいというのが古代社会です。富んでいる人の息子たちだけが、この再配分に関与できます。だから「自分たちで決めよ」と突き放したのでしょう。

この話題に興味を持つ人々に向かってイエスは言いました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15節)。二文目は翻訳に議論のあるところです。「豊かさにあふれていても、人には、自分の生命が所有物から生じるわけではないのだ」(田川訳)。「ある人に、〔資産が〕有り余るほどあったとしても、彼の生命は彼の財産から出て来るものではないからだ」(岩波訳)。そして英語訳の多くは、「生命は財産によって構成されないからだ」とします。「~生じる」「~によって成る」が直訳です。

あなたの富が父親から生じているとしても、あなたの生命はどこから生じているのか。生命は所有物によって構成されているのか。そうだとすれば所有物の多い者の生命の方が、少ない者の生命より偉大になってしまわないか。そうではなく、所有物は生命によって構成され、生命から生み出されているのではないか。イエスの問いはそこにあります。

「それからイエスはたとえを話された」(16節)。ある金持ち穀物畑所有者(おそらく不在地主)の畑が豊作だったという場面設定です。この譬え話は、ぶどう園の経営者の譬え話と対になっています(マタイ福音書20116節)。愚かな金持ちとはまったく反対に、ぶどう園の経営者は思慮深く労働者たちに富を再分配しています。彼は時給計算を度外視して、12時間働いた労働者にも、1時間働いた労働者にも、まったく同じ給料を支払ったのです。このぶどう園の経営者と、今日の愚かな金持ちが正反対の極端な姿で描かれています。

金持ちは自己中心的に悩みます。原文にある「私」という人称代名詞をいちいち訳出するなら次の通りです。「私はどうしよう。私の収穫を集め入れる場所がない。私はこうしよう。私の倉を私は壊し、より大きなものを建てよう。そして私はそこに全ての穀物と私の良い物(goods)も集めよう。そして私の生命(プシュケー)に言おう。『生命よ、お前は長年分の良い物を貯蔵して持っている。休め、食え、飲め、喜べ』と」(17-19節)。

彼は「今だけ・金だけ・自分だけ」の典型例です。彼は「私の物を・私のために」無駄なく貯蔵することだけを考えています。興味深いことに、彼は自分の子孫のことを何も考えていません。イエスが相続について無関心であったことが分かります。

金持ちが「私の物」と思い込んでいる富は、どこから来たのでしょうか。穀物が豊作になるには、ほどよい天候という条件と、勤勉な労働者の存在という条件が必要です。神は悪人の上にも善人の上にも雨を降らし太陽を昇らせる方です。この条件について言えば、豊作は神から生じています。

またどんなに好都合な天気が続いても、畑を耕し、種を蒔き、毎日世話をし、収穫する人がいなければ、豊作にはなりません。親から相続された土地だけでは麦畑は麦を生み出さないのです。この条件について言えば、豊作は労働者たちから生じています。

先ほどの優れたぶどう園経営者は、毎日給与を支払わなくてはならないので労働者と接していました。だから彼は、ぶどう園から生じる富を成り立たせていることがらを、知っていました。毎日の天気とそれに基づく人々の労働です。愚かな金持ちは不在地主で、自分の土地の天候も知るよしもなく、労働者との接点もまったくありません。こうして彼は、自分の富がどこから生じているのか、この富が何によって成っているのかを知りません。だから勘違いが起こります。「豊作の恵みを受け取るべき者は自分だけである」という誤解です。

神は金持ちに言います。「無考えな者よ(1140節と同単語)。今晩お前の生命(プシュケー)はお前から取り上げられる。では、お前が準備した物は誰の物になるのか」(20節)。

愚かであるということは、考えが無いということです。その考えとは、知恵であり知識です。神を畏れるという知識です。わたしたちの生命はどこから生じているのでしょうか。生命は、神が与え、神が取られるものです。この神への考察・知識・畏敬を忘れるとき、わたしたちは自己中心な「今だけ・金だけ・自分だけ」という生き方に陥ってしまうのです。

そして死に方は生き方の延長であり、裏表の関係にあります。イエスの十字架刑死が生き方の延長であり到達点であったのと同じです。もしかするとこの譬え話の愚かな金持ちには、モデルとなる人物が実在したのかもしれません。ガリラヤに土地を持っている不在地主を、イエス一行は旅先で知ったのかもしれません。イエス一行の中に、その穀物畑で働いていた労働者もいたかもしれません。「強欲で労働者たちのことなんか何も考えない地主が、豊作の年、自分の倉を大きくしようとした矢先に亡くなったんだそうな」という皮肉な噂を聞いていたのかもしれません。その死に方は目先が利くようで利いておらず、そのような死に方から、彼の生き方が類推されてしまうものです。それは本当に大切なものを見失ってしまう生き方です。相続財産で兄弟げんかをしている者もまた、本当に大切なものに照準が合っていません。

では人間にとって本当に大切なものとは何なのでしょうか。それは生命です。生命と富との関係は、単純な上下関係です。命が上であり富が下です。注意点ですが、富とは余ったお金のことです。生命を維持するための金は富ではありません。健康で文化的な生活を営むための金はとても大事です。そこを削らせてはいけません。たとえ国家であれ、会社でれ、教会であれ、個人から必要な金を巻き上げてはいけません。金と富は意味が異なることに注意が必要です。

生命(健康で文化的な生活)を何よりも重んじ、そこに照準を合わせて、それを基準にものごとを整理し、優先順位をつけて生きることが必要です。生命を生じさせ、成り立たせているものを覚えて、感謝し、畏敬することです。神を知り、神を畏れ、神に委ねるということです。それが本当に大切です。

そうすれば富をどのように用いるかが自ずと分かります。富は上位にある生命によって生じ、神の創った諸々の生命によって構成されています。自分だけで生きている人は誰もいません。この連帯感と感謝が、富の再配分へと向かわせます。豊作を経験した金持ちの採るべき態度は、あのぶどう園の経営者のようにすることでした。自分の倉を大きくすることではない(それも結局誰かに旧建造物を処分させ、新たに建築させる)。自分のために食べ物を集約することではない。誰かの労働の犠牲の上に死ぬまで怠けるということではない。日毎のパンにも困っている人々に、パンの原料を分かち合うことです。

「感謝な豊作だが、あいにく自分の穀物倉が小さい。入りきれない余った麦を、みんなで使ってくれないか。これは天から降ってきたマナだ。神からの贈り物を、苦労したみんなと分かち合おう。みんなの日毎の涙と汗が、喜びと笑顔で報われるように。また、神からの贈り物を、街に暮らしている飢えた人々と分かち合おう。彼ら彼女たちの生命の主を畏れるゆえに。さあ、共に休もう、食べよう、飲もう、楽しもう。」こうすれば五つのパンと二匹の魚の奇跡が、この社会で実現します。

自分のために富を積まないで、神の前で豊かになる者は、このとおりです(21節)。ここで重要なのは、金持ちが何も損をしていないこと、無理をしていないことです。倉いっぱいの穀物は彼の生命を維持するのに十分です。倉に入りきれない物だけを分かち合い、すべての人が豊かに生きる再配分がなされました。無理のない範囲の施しで世界は十分に賄えます。

今日の小さな生き方の提案は、愚かさからの脱出です。無理のない範囲で、他人のために富を施しましょう。無理をすること・させることも愚かな行為です。深呼吸をして、富がどこから生じ、どこへと富を用いられるべきかをよく考えてみましょう。安易な答えはありません。自分の命も他人の命も輝かす使い道があるはずです。自分の頭で考えて、自分の手で行いましょう。それが、いつ自分の命を取り上げられても後悔しないという生き方です。