誰を恐れるべきか ルカによる福音書12章1-7節 2017年8月13日礼拝説教

今日の聖書の箇所は、わたしたちが恐れるべき方が誰であるかを示しています。そしてそのことの裏返しとして、わたしたちが恐れるべきではない者たちを教えています。結論から言えば、わたしたちは神を恐れるべきであり、それ以外の者たちを恐れるべきではありません。

ルカ福音書122-9節は、マタイ福音書1026-33節とほぼ同じ内容です。両者が共通の伝承を用いていることは明らかです。ルカの作業机の上には、マルコ福音書、マタイ・ルカ共通伝承、ルカだけが持っている伝承の三種類の素材があります。これらの三つの素材をルカ教会の考え方に即して、切り貼り編纂をし、ルカ福音書は作成されたわけです。物語にとって文脈は重要です。どの文脈に置かれるかで、同じイエスの発言もまったく異なる意味になりえるからです。この意味で、編集者は絶大な力を持っています。今日の箇所において、ルカ教会は元来の意味を超えた意味を、新たに創り出しています。

先週までの物語で、ルカ福音書はファリサイ派と律法学者を真っ向から批判しました。そのために、「律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き」ました。ルカはその続きとして今日の教えを配置しています。マタイは、ファリサイ派・律法学者批判を231-36節に置き、ルカ122-9に並行する内容を1026-33節に置きました。おそらく、共通伝承の段階ではそれぞれはばらばらだったのでしょう。二つを連続して結びつけたのはルカの編集によるものです。

そしてルカはマルコ815節の「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」という言葉を、121節に持ってきました。これによって、1137-54節と、122-9節を接続させるためです。こうして、122-9節(特に2-3節)は、ファリサイ派の人々の「偽善」を批判する言葉となります(1節)。

「隠されているもので知られずに済むものはない」というイエスの言葉を、ルカはすでに紹介していました(817節)。ルカは気に入った言葉をこうして二回繰り返す癖があります(816節と1133節)。しかし文脈が異なればまったく違う意味となります。ルカ福音書では、「覆われているもの」「隠されているもの」は、ファリサイ派が影でしている悪いことのことを指しています(2節)。だから、「あなたがたが暗闇で言ったこと」「奥の間で耳にささやいたこと」は、ファリサイ派の人々の陰口や影で企んでいる悪巧みのことを指しています(3節)。非常に否定的な内容です。ここにルカ福音書の特徴があります。

これに対してマタイ福音書では、「覆われているもの」「隠されているもの」は、肯定的な内容・福音の奥義です。「わたしが暗闇であなたがたに言うこと」とイエスが弟子たちに言っているからです(マタイ1026-27節)。それを、あなたたち弟子たちは「明るみで言いなさい」「屋根で言い広めなさい」と命じられています。おそらく共通の伝承の段階でも、このような積極的な勧めだったのだと思われます。

ルカは元来の福音宣教の命令を、「ファリサイ派の陰口や、影でなされる悪巧みはいつか暴露されるのだから恐れるに足らない」という主張に変えました。だから、3節の「あなたがた」は、弟子ではなくファリサイ派のことを指します。「まず弟子たちに話し始められた」(1節)という割には不自然ですが、ここで話し相手がねじれてしまったのです。日常会話においてしばしばある現象です。1153節で退場したファリサイ派の人々を半ば強引に「あなたがた」に設定してしまったので、4節で改めて「友人であるあなたがたに言っておく」と、二種類の「あなたがた」を作らなくてはならなくなったのでしょう。

「ファリサイ派の人々のパン種」は自分の内側に入り込まないように注意する必要があります。影でこそこそとする悪事や、悪事を隠蔽する体質が、いつの間にかわたしたちの心の中で膨らむことを警戒しなくてはいけません。それは良心を知らず知らずのうちにだめにしていくからです。ここには注意は必要です。しかし、このようなファリサイ派の人々を恐れる必要はありません。

恐れるべきでない者とは、ファリサイ派の人々のことです。この人々は、イエスの友人、仲間、信奉者たちを殺す権力を持っています。そのことは、すべての福音書の証言通りイエスを殺したことによって、実証されています。ファリサイ派の人々もイエス処刑の悪巧みに深く関わっていました。また、ルカ福音書の続編である使徒言行録を読んでも、ファリサイ派の人々が教会員たちを裁判にかけて殺す側に回っていたことは明らかです。ユダヤ教徒たちによる迫害は、ルカ福音書の読者たちが直面していた危機でもあります。教会に連なっているというだけで、クリスチャンは実際に殺されていたのでした。

「会堂(ユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる礼拝所)や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」(11節)。この言葉は、ユダヤ教徒によるキリスト教徒の迫害の場面を想定しています。紀元後一世紀、この図式・風景はクリスチャンにとってお馴染みのものでした。ルカはこのお馴染みの構図を、ファリサイ派に強く結びつけ、わたしたちが恐れるべきではない者を特定しました。ファリサイ派の人々に対する恐怖は必要ないというのです。

なぜファリサイ派を恐れるべきではないのか。第一の理由は、ファリサイ派の悪事がいつか明るみに出るからです。偽善は白日の下にさらされ、善が光り輝きます。イエスの裁判がいかにひどかったかをわたしたちは今知っています。そしてファリサイ派は、以前申し上げたとおり、歴史の中で消滅しました。サドカイ派もそうです。現在のユダヤ教正統派とは異なります。あの陰謀と冤罪に関わった者たちは後世の歴史の目に耐えられなかったのです。だから、わたしたちはあらゆるファリサイ派的な者たちを恐れる必要はありません。

第二の理由は、ファリサイ派の人々が、人を殺しても、「その後、それ以上何もできない者ども」であるからです(4節)。彼らはナザレのイエスを殺しました。しかし、それ以上イエスに触れることはできませんでした。イエスは地獄に投げ込まれました。命の主である神、イエスがアッバと呼ばれた神が、我が子イエスを棄てて、死後の世界に投げ込んだのです(5節)。その同じ神が、イエスを地獄の底まで追って行き、がっちりと抱き抱え、地獄の底で起き上がらせ、よみがえらされたのでした。ファリサイ派の人々は、この救いの業に指一本触れることはできませんでした。だから恐れるべきではないのです。

先週、尹東柱という詩人の生涯を描いた映画を観ました。治安維持法違反の罪で二年の懲役を課され、1945216日に福岡の刑務所で獄死させられたキリスト者青年です。彼は最後まで強要された自白調書に署名をしませんでした。そこに彼の自由を見ます。彼の死後、詩集が発行され多くの人々を感動させ続けています。彼はよみがえらされています。イエスが福音書の中で復活し、わたしたちと共に生き、よみがえらされているのと同じです。このような意味で、わたしたちの全存在は、自由に永遠に生きることができます。

イエスが神の子だから、神は特別に愛し、神は特別にイエスだけをよみがえらされるのでしょうか。まったくそうではありません。二アサリオンとは500円から600円程度の金額です(6節)。一羽の雀は100-120円程度の値段で売られていますが、神は金額とは別に、一つの命として扱っています。一羽の雀の命は、イエス・キリストの命と同じです。創造主の神の目から見ると、同じです。「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」のです(6節)。だから小さなわたしたちも神によって覚えられています。それだから、わたしたちはファリサイ派の人々を恐れる必要がありません。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(7節)。

ファリサイ派の人々を恐れるのではなく、わたしたちは唯一神のみを畏れるべきです。ここで「恐れ」は恐怖という意味ではなく、畏怖・畏敬の意味で理解するべきでしょう。つまり神を畏れるということは、神を崇拝し礼拝をするという意味合いです。神に祈り、神を賛美するということです。その模範は、雀にあります。こどもさんびかの10番「ことりたちは」の通りです。

「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」という言葉には条件が付くように思えます。もしも、あなたたちが空の雀のように、思い煩いもせず、ただ神に信頼して委ね、鳴き声で賛美をし、神を畏れる礼拝をする者であるのなら、あなたたちは雀にまさるという条件です。雀は自分に命を与えた主が、いつか自分の命を取ることを知っています。神の許可によって地に落ちる日が来ることを知っています。死後の世界にまでも投げ込むであろうことも知っています。しかし、その神が復活の命を与えてくれることも知っています。そこまでも委ねているので雀は神への礼拝を止めないのです。生きることに絶望せず、精一杯与えられた命を生き抜きます。

およそ動物は人間と異なり、自分を卑下したり、自らの命に失望したり、未来について不安を持ったり、これらの類のストレスを持つことはありません。その意味で人間よりも優れています。動物は本能的に創造主を知り、創られたままの生を謳歌することで神に応答して生きています。だから優れています。

そして雀は悪巧みをしません。奥の間でヒソヒソ声を使って、誰かを陥れる陰謀を考えません。食物連鎖の中で生きているので、それを覆す力がありません。雀はむしろ常に明るいところで、屋根よりも少し上を飛びながら、きれいな声で鳴くのです。それは小さな鳥が見せる、健気で清々しい愚直な姿です。それゆえに神を畏れる信仰というものの模範です。

わたしたちはしばしば経済価値で人をはかります。「五羽で二アサリオン」という具合に、相手の価値や自分の価値をお金ではかろうとします。この誘惑がファリサイ派のパン種です。仕事で稼いだ額であれ、教会に捧げた献金の額であれ、同じ罪の根が見え隠れします。しかし、イエスは「一羽」の雀という具合に、一つの命として考えます。

雀は犠牲祭儀のための動物にも数えられていません。牛や羊、山羊などが犠牲獣の代表です。貧しくてそれらに手が届かない場合は、鳩を代わりにできます(224節)。さらに貧しくて鳩も持っていない人は小麦粉で代用します。雀の出番はありません。それだから、雀はファリサイ派から見れば宗教的な価値も劣っているとみなされがちな動物です。だからこそ安いということでもあります。その一羽の雀も神の目には高価で尊い存在です。同様に一人一人の人間は創り主によって、全存在の隅々まで覚えられています。この神を畏れよ。

今日の小さな生き方の提案は、恐怖による支配を批判することです。大日本帝国もアメリカ帝国もファリサイ派の人々と同じです。武力/暴力による威嚇は必ず破綻します。畏敬に基づいて仕えることが、恐怖による支配の反対です。神を畏敬すること・隣人を尊敬すること・被造物仲間を尊重することです。恐れから、畏れへ。雀のように小ささを知り虚勢を張らない。お互いは神に知られていることに安心をし、創られたままの命を生きぬきましょう。