起きなさい ルカによる福音書7章11-17節 2016年12月4日待降節第2週 礼拝説教

アドベントの第二週目になりました。神の子イエス・キリストの到来を待ち望む季節です。今日の箇所もイエスが自分の街に来るということが何であるのかを考えさせられる箇所です。「サンタが街にやってくる」というクリスマスの歌がありますが、キリスト教信仰に根ざした考え方だと思います。イエスが街にやってくる、世の終わりにもう一度イエスが到来するということが土台にあって、「サンタ信仰」というものが形作られたのでしょう。

先週、カファルナウムというガリラヤ地方北部の町に居たイエスが、今週は40kmほど南のナインという町に移動しています(11節)。何日もかけて移動したと思います。大勢の群衆も一緒だというのですから、大変な旅です。イエスが街にやってくるということは、大勢の人々と共に来るということです。わたしたちの教会の信仰は、先に召された方々という天の住民たちを引き連れてイエスは再び到来することへの希望です。イエスはサンタと異なり一人では来ないのです。

わたしたちは毎週主の晩餐を行います。その一つの意味は召天者記念にあります。先に召された人々は今イエスの食卓を囲んでいると考えるからです。初代教会においては特に殉教者の記念を主の晩餐で行っていました。この人々は復活の主と共に食卓を囲み、再臨の主と共にわたしたちのもとに到来しつつあるのです。その時わたしたちは死者と再び会うことができます。

イエス一行は、7章50節までナインという町に滞在していたように読めます。今日の箇所はルカ福音書にしかありません。福音書記者ルカは、ナインという町に伝わるイエスの物語をここに置き、バプテスマのヨハネを巡る物語と(18-35節)、罪深い女性を赦す物語(36-50節)を、同じナインで起こったことに設定しています。一つの鍵語で、三つの物語をまとめています。それは「預言者」という言葉です(16節・26節・39節)。

預言者は最高の宗教指導者を指します。イスラム教で開祖ムハンマドが「最後の預言者」とされているのも同じ事情です。上記の三箇所でもすべてそのような意味で用いられています。預言者は、死人をよみがえらせる力を持っています(16節。4章25-26節も参照)。預言者は、その人の生涯を知り、考えていることも見抜くことができます(39節)。少なくとも人々はそのような超人として預言者のことを考えていました。イエスがやもめの一人息子をよみがえらせた時に、「大預言者が我々の間に現れた」(16節)と人々が言ったのは、素直な反応です。

しかも場所はナインです。旧約聖書にエリシャという預言者が一人の男の子をよみがえらせる物語があります(列王記下4章8-37節)。場所はシュネムという町です。巻末の地図を見れば分かるように、ナインとシュネムは地理的に近い位置にあります。おそらくその地方一帯に、「預言者エリシャがその昔一人の男の子をよみがえらせたそうな」という言い伝え広まっていたのでしょう。その言い伝えがイエスの言動とぴったりと重ね合って、人々の賛美の声につながっていったのです。「神はその民を心にかけてくださった」(16節)。旧約・新約を貫く聖書の神への信仰がここに言い表されています。

新約を読むときに旧約を思い出し、旧約を読むときに新約に引き付けるという癖をおすすめします。泉バプテスト教会の日曜日の礼拝説教箇所が、新約(ヨハネ福音書)・旧約(出エジプト記)・新約(ルカ福音書)と交互に取り扱っているのも同じ理由によるものです。日曜日に連動して、水曜日の聖書のいづみでは逆に旧約・新約・旧約を学んでいます。このような仕方で聖書は一冊の本なのです。

ナインの若者の復活は、イエスが旧約聖書の伝統をひく預言者であることを明らかにしています。イエスは自分を預言者とみなしてもいました(4章24節)。その一方でイエスは、「大預言者」「預言者以上の者」です(7章26節)。「主」(13節・19節)であり、「来るべき方」(19節)、つまり救い主、キリストです。イエスは「主」「神の子」「救い主」、これが教会の信仰です。

さてナザレのイエスはどのような救い主なのでしょうか。一言で特徴を言えばそれは「愛」です。「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)。神は地上でイエスというひとりの人を通して、神の愛がどのようなものであるかを示しました。イエスの振る舞いに愛の神が示されます。全世界を包む神の愛は、一人息子を亡くしたひとりの母親に向けられます。神は細部に宿るのです。

ナインの町から棺桶が運ばれています。町の人が大勢嘆きながら運んでいます。大勢の群衆の中で泣いているひとりの女性にイエスは注目します。そこから、イエスは死んだのが彼女の一人息子であること、彼女には夫がいないことを察します。息子にのみ期待をかけてきた彼女の人生を見抜き、これからの彼女の暮らしの苦労をイエスは思いめぐらします。女性の貧困は古代社会において現代よりも深刻です。群衆と群衆がすれ違うまでの間に、イエスは彼女に共感をします。神の愛とは、泣く者と共に泣く共感です。

「憐れに思い」(13節)はギリシャ語スプランクニゾマイという動詞です。内臓という言葉が組み込まれた動詞です。ヘブライ人たちは腹が感情をつかさどるのです。日本語にも「腹が立つ」「腹黒い」「肝がすわった」などの表現があるのと似ています。腸がちぎれるほどの思いが、この「憐れに思い」という言葉の意味です。共に苦労を担うという感情とも言えます。英語のcompassion(共感)が、「共に」と「情熱/苦難」から成ることも示唆に富みます。神の愛とは、この類の共感です。脇腹を槍で刺されるような痛み。十字架のイエスに示される共感・共苦の神が、スプランクニゾマイという動詞に表れています。

共感する神は、共に泣くだけの神ではありません。「泣くな」と命じて、かわいそうな母親の涙を拭う方でもあります(13節)。慰めだけではなく、励ます神です(パラカレオー)。共に泣いて「そのままで良い」と言うだけではなく、「そのままではいけない。泣くな。新しい一歩を歩み出せ」と言う神です。

人々は棺桶を墓場に運ぼうとしますが、イエスは止めます。そっと触れたというよりは、歩みを手で止めたのでしょう(14節)。共に悲しむだけでは全員が絶望の方向に向かっていくばかりです。救い主の手は、強制的に絶望の群れを押しとどめる力強いものです。ここにも神の愛が示されます。愛は、共依存を断ち切る力です。

イエスは死んだ若者に語りかけます。「起きなさい」(15節)。この言葉はイエスの復活のときにも用いられる専門用語です。ギリシャ語では受身形の動詞です。「起こされよ」が直訳です。イエスの復活も、「(神によって)起こされる」と表現されています。自分の力でむくりと起き上がるのではなく、復活というのは神から起こされ立ち上がらされ、新しく別の方向に押し出されることです。十字架で殺され埋葬されたイエスが神から起こされたのと同じことが、ある意味でその予告として、若者の身に起こっています。棺桶の中にあって、埋葬されつつある若者がイエスから起こされました。

イエスは若者を母親に渡します。おそらく若者はイエスから起こされ、イエスの腕の中に居たのでしょう。抱き合っているようなかたちだったのでしょう。「あなたの息子は死んでいたのによみがえった」(15章32節)。イエスはにこにこしながら、母親に息子を渡します。母子も固く抱き合ったに違いありません。ここに神の愛が示されています。イエスは、母子の抱き合う姿を見たくて葬儀を中断させたのです。喜ぶ者と共に喜ぶことに、真の共感があります。そして実は、泣く者と共に泣くよりも、喜ぶ者と共に喜ぶことの方が難しいことです。他人が喜ぶ出来事を創り出すこと、そして喜んでいる人と一緒になって素直に喜ぶこと、この難しい行為が神の愛です。

人々は嘆くことを止め、皆神への畏敬の念を抱き、神に栄光を返します。母子も含め町の人々は全員逆方向に歩き始めます。「町の門から外へ」ではなく、「町の外から中へと」、墓場に行く予定だった人々がそれぞれの家へと向かいます。絶望の方向に向かいつつある人々が、イエス一行と同じ方向に向かい始めます。それは希望の方向です。神を呪って嘆いていた人々は、神を礼拝し賛美をし始めます。信仰の告白をするのです。二つの言葉を人々は語ります。

一つ目の言葉は「大預言者が我々の間に現れた」(16節)です。「現れた」の直訳は、「起こされた」であり、先ほどの復活とまったく同じ単語の同じ表現です。ここにはイエスが罪人の一人として十字架で殺され埋葬された後に、神によって起こされる救い主であることが予告されています。また、二つ目の言葉は、「神はその民を心にかけてくださった」です。「心にかけてくださった」の直訳は、「訪れた」という一語です。神の子が地上を訪れるとき、死人がよみがえらされ(22節)、今泣いている人が笑うようになるのです(6章21節)。

この二つの言葉は、非常に深い内容を持っています。クリスマスから始まるイエスの生涯と、十字架・復活というキリスト教信仰を告白しているからです。ナインの町の人々が言い伝えていた信仰告白と言って良いでしょう。愛の神はナインの町を訪れた時に、一人息子を亡くしたひとりの母親のために、葬儀を中断させよみがえらせました。それは単なる現状復帰なのではなく、二人にとって新しい生き方の始まりでした。「わたしたちは神の愛を見、愛の神を見た。だから絶望の方向に歩まない。希望の方向に共に歩むのだ」と、母子を含むナインの住民は語り継いでいったのでしょう。そして、イエスの復活後、どこの地域よりもたやすく復活信仰を受け入れ、ナインの町にもキリスト教会が建てられたと思います。

「イエスについてのこの話(ロゴス)」(17節)は、16節にある「二つの信仰告白の言葉(ロゴス)」ともとることができます(岩隈直)。ナインの教会が大切に保存していた信仰の言葉を、福音書記者ルカはどこかからか入手して自分の福音書の一部に掲載したのでしょう。そのお陰で、他の福音書にはない、個性的で希望に満ちた物語が聖書に収められることになりました。

今日の世界に求められているのは「希望に向かう共感」です。悲しむ友人・隣人を前にわたしたちには共に泣くことしかできないかもしれません。そのことで慰めを受ける人がいる限り、それは悪いことではありません。しかし、わたしたちは同時に無力を感じます。わたしたちが人を起こす力を持っていないからです。わたしたちが知っているのは、自分が起こされたということだけです。希望に向かう共感は、イエス・キリストへの他力本願に基づくべきです。

今日の小さな生き方の提案は、うずくまっている人に向かってイエスを紹介することです。あなたと笑わせ喜ばせ真に共に喜んでくれる救い主を紹介することです。人にはできないが神にはできる。神はあなたを訪れ、突然に起こし、涙を拭う。そのためにクリスマスがあることを伝えることです。