足を洗う主 ヨハネによる福音書13章1-11節 2014年5月4日礼拝説教

今日の箇所はわたしたちの行っている「主の晩餐式」という儀式を根本的に問い直す部分です。いったん徹底的に破壊した後に、まったく新しいものとして建て直すような根本的な意味の変換が要求されています。平たく言えば、「晩餐式なんぞという儀式をしなくてもいいのでは」というぐらいに考えた後に、「いや新しい意味付けで行いましょう」というように考え直すという変換です。そしてこれは、泉バプテスト教会の歴史に沿っています。わたしたちの教会はいったん毎月の晩餐を止め、その後復活させ、今年度から毎週行っているからです。この歴史は重要です。

主の晩餐式を行わない根拠はヨハネ福音書の「最後の晩餐記事」にあります。著者ヨハネはマルコ福音書を知っています。そのマルコは最後の晩餐を主の晩餐式の原型として描きます。マルコ14章によれば、イエスはユダヤ人男性の「十二弟子」と十字架前夜の夕食を共にしました(マコ14:17)。その日は過越祭の当日です。その晩の食事は、過越の食事という年に一度の特別な食事でした(14:16)。犠牲の小羊を食べて、出エジプトの救いを記念するという儀式的な夕食です。羊は家族の身代わりに殺され、その犠牲のおかげで家族全体が救われたと観念されていました(出12章、申16章)。

イエスは過越祭の食事の時に、一つのパンを割いて一同に配り、一つの杯を回して飲ませます(マコ14:22以下)。それらは、十字架で割かれる予定の自分のからだと、流される予定の自分の血を象徴すると、イエスは宣言します。つまり、イエス自身が過越祭の小羊役となるということです。世界という家族全体を救うために身代わりに十字架で殺されるということです。

これは十二人とだけ締結した新しい契約です。秘儀です。教会はこの契約を記念し続けるために毎週礼拝の中で主の晩餐式という儀式を行わなくてはいけない、世の終わりまで続けなくてはいけないと、マルコ福音書は勧めています。イエス自体が制定したのだからという根拠です。この理解を、おおむねパウロも共有しています。マタイ福音書・ルカ福音書も同様です。この儀式化路線は、後に主の晩餐式に参与しない者は救われないという考えや(秘蹟)、十二使徒から継承された正統な司祭(男性のみ)以外の晩餐式執行は無効であるという考えや、救われた者のみが晩餐に参与できるという考えなどにも派生していきます。これらの観念はかたちを変えてプロテスタント諸派にも根強くあります。

ヨハネ福音書はこの多数派であり「正統」である主の晩餐式理解に対して、異議を申し立てています。その批判は根本的であり急進的です。「主の晩餐式という儀式はイエスの言行に根拠を持っていないので不要だ」と言っているからです。きわめて単純な話ですが、ヨハネ福音書の最後の晩餐記事には、例の契約締結・晩餐の制定がありません(13-17章)。一つのパンを割き・一つの杯を回し、「これがわたしのからだ・血である」という宣言がありません。だから、ヨハネによると最後の晩餐を主の晩餐式の根拠とすることはできないのです。

なお、2節「夕食」・4節「食事」と訳されている単語「デイプノン」は、他の福音書同様に「晩餐」と訳すべきでしょう。ここには翻訳者たちの思惑があります。制定文のある最後の晩餐のみを主の晩餐式の根拠としたいがために、ヨハネの最後の晩餐記事を、「晩餐」と訳したくないという思惑です。

ヨハネ福音書は最後の晩餐を過越祭当日の食事としません。一日前の夕食とします(1節。18:28も参照)。この日付の違いは、イエスの十字架・復活が紀元後31年の出来事か、それとも30年の出来事かを分ける重要な問題です。おそらく史実としてはヨハネが正しいのでしょう。過越祭当日の食事ではないのだから、契約締結がないのも自然なことです。「過越祭は旧い契約の儀式であり、主の晩餐式は過越祭を基にした新しい契約の儀式である」という図式をつくることにヨハネ福音書は批判的です。イエスが過越の食事を仕切る「家長」ではないからです。

秘儀としての契約締結がないのだから、ユダヤ人男性12人にだけ秘儀が伝えられたということにもなりません。実際、1節の書きぶりからは、「世にいる弟子たち」のすべてが最後の晩餐に居る可能性があります。ヨハネに登場する弟子たちには、子どもや女性や非ユダヤ人も含まれます。今回もシモン・ペトロが間抜けな役回りで登場するように(5-9節)、ヨハネ福音書は一貫してペトロを頂点とする「十二弟子」の権威を批判しています。今まで見てきたとおりです。正統な使徒・司祭面をして威張って儀式を執行している教会指導者たちをヨハネは批判しています。

こうしてヨハネは主の晩餐式という儀式を形式的に守る人びとを批判し、それを執行している教会指導者たちを批判します。問題は権威主義です。「ご立派な人にしてもらうありがたい儀式」をありがたがることよりも大切なことがありはしないかという異議申し立てです。もし愛がなければ何も意味がないのではないかという問い立てです。権威によって支配したがる者・支配されたがる者はしばしば排他的であり、寛容な愛を持っていないからです。

この問い立ては今でも有効です。有効である証拠の一つが泉教会の行った「主の晩餐式をしない」という決断と言えます。形式化し形骸化し権威主義や排他主義を助長するぐらいなら、愛に欠けるので、しない方がよいでしょう。牧師だけが執行する/キリスト者だけが参加するということが、権威主義と排他主義の現れです。晩餐式を行わない方向はヨハネ福音書に対して忠実な態度です。事実クエーカーも無教会も行っていません。逆に言えば、主の晩餐式を行うならばキリストの愛が示されるかたちで行うべきなのです。

マルコ・マタイ・ルカ福音書やⅠコリント11章のような主の晩餐式を行うことを勧める箇所がある限り、主の晩餐式には肯定的な意味があります。教会は行うことが望ましいでしょう。しかし、ヨハネ福音書や泉教会の問いに真正面から答える形で、またさまざまな聖書箇所を総合したうえで、今日的に意味のあるかたちで行う必要があります。

主の晩餐式はキリストの愛を根拠に、それを伝える内容で行わなくてはいけません。ヨハネは愛の実例を積極的に提示しています。それは食卓に着く弟子たちすべての足を洗った主イエス・キリストの愛です。それをヨハネは弟子たちを愛する行為、しかも最後まで愛しぬく行為として表現しています(1節)。その中にはユダもいます。イエスはユダがイエスを官憲に引き渡すことも知っていて、ユダの足を洗います(11節)。イエスはペトロがイエスを三度も否定することを知っていて、ペトロの足を洗います(38節)。ここに愛があります。

足を洗うということは奴隷が主人に対して行う行為です。イエスが身をもって示した愛は、「仕える」ということです。しかも、目上が目下に行うという逆転をもって仕えるということです。あらゆる権威主義・あらゆる排他主義を克服する愛の実例です。ヨハネは主の晩餐式という儀式をするぐらいなら、足を洗い合い・仕え合うのが本義であろうと言います。「晩餐の席から立ち上がって」(4節)、サマリア人女性弟子やこどもも居たであろうすべての弟子の足を洗う主に倣うことを勧めています。儀式より仕える実践なのです。

ルカによる福音書は興味深いことに、最後の晩餐の中に「仕え合うこと」の勧めをおきます。ルカはヨハネの問いに真正面から答えながら、主の晩餐式を行う方向で調整します。ルカ22:24-27には誰が一番偉いのかという論争が記され、イエスが晩餐の給仕役であるように、お互いは仕え合いなさいという勧めを記します。マルコでは全く別の文脈にあった「偉くなりたい者は仕えなさい」を(マコ10:35-45)、ルカはあえて最後の晩餐の中に移動しています。仕える愛を示す限り主の晩餐式という儀式は有意義であるというルカの主張が読み取れます。

このルカの態度はパウロとも近いものです。Ⅰコリント11:17-34にあるコリント教会の問題は、愛のない食べ方にあるからです。先に着いた(残業のない)自由民・金持ちが先に晩餐を食べ、後に着いた(酷使されていた)奴隷層・貧しい人たちが晩餐を食べられない礼拝は問題だということが、パウロの主張だからです。すべての者が給仕役になり、つまり後で食べる者になり、隣人に仕える愛を示す、それが晩餐の本義です。愛の無い者がふさわしくないのです。

ルカとパウロの調整的な態度を踏まえて、もう一度ヨハネ福音書を読み直してみましょう。鍵になる言葉は、「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)というイエスの言葉です。これは拒むことができない愛を表しています。裏切ることをも赦しているイエスの愛は、自分が赦されているということを拒むことだけは赦さないものです。隣人が神に愛されその存在を赦されていることを否定することは赦されないのです。どんなに寛容でも、非寛容なものに対してまで寛容である必要はありません。それと似ています。何をしても赦されますが、何をしても赦されているということを拒否することは赦されないのです。「すべての人は神に愛されている」ということを拒むことはできません。嫌がるペトロの足を無理やり洗う主イエスは赦されないことがあることを教えています。

キリストはあなたの意志とかかわりなく、あなたが良い人か悪い人かもかかわりなく、あなたの足を洗い続け、奴隷の位置に立って、あなたに仕え、あなたの全存在を赦し、全存在を祝福しています。無条件の赦しの愛が表現される主の晩餐式ならば、ヨハネの問いに真正面から応えるものとなるでしょう。

こうしてわたしたちの主の晩餐式の内容が定まってきます。儀式ばっていることは避けたいものです。「按手礼を受けた牧師」のように、ありがたみのありそうな人だけが執行することも避けたいものです。ひと月に一度という頻度もありがたみを増しそうです。権威主義をきちんと批判していきたいものです。礼拝出席者みんなが加われるものが良いでしょう。加わらない人を裁くのも避けましょう。寛容な精神をもってゆるやかに認め合えば良いわけです。画一化も避けたいからです。「執事」のみに配さん奉仕を限る必要もありません。いろいろな人が給仕役になりうるかたちが良いでしょう。排他主義をきちんと批判していきたいものです。そうすれば「すべての弟子の足を洗う主」の愛が、礼拝の中で表現されていくでしょう。

この無条件の赦しの愛について意味が分からない人もいるかもしれません。パンと杯を取っても取らなくても、教会がその人を歓迎しているという気持ちさえ伝われば良いのです。また後で分かる人もいます。ペトロもイエスによる言葉の説明を理解できたようには思えません。それでも構わないとイエスは寛容に赦しています(7節)。晩餐はからだで体感するものです。説教以上にキリストの愛が分かることが晩餐においてありえます。言葉を理解することが苦手な人と一緒に礼拝するときに、晩餐は共に有意義な時間を過ごすための有効な手段になります。結果を焦らずに、ゆるやかに毎週当たり前のように行えば、それは礼拝の必須要素として意味のあるものとなって定着していくでしょう。

主の食卓を広げ、主の食卓に隣人を招きましょう。主の食卓を担う人を増やしていきましょう。共に礼拝し地上にキリストの愛を示していきましょう。