逃れの町 出エジプト記21章1-17節 2016年1月31日

本日の箇所は、「法(ミシュパティーム)」(1節)である「契約の書」の「奴隷について」(2-11節)と、「死に値する罪」(12-17節)についての規定です。当時の民法の一部と刑法の一部と言えます。

奴隷についての民法規定(2-11節)は、現代に生きるわたしたちにとって、およそ無関係な内容です。素朴な問いとして、「なぜヘブライ人は奴隷を所有するのだろうか」という疑念が湧きます。「奴隷から自由の身とされたということを救いとして喜ぶのならば、隣人を奴隷として所有しないだろうに」と考える方が素直です。同じヘブライ人を奴隷にし、六年間もただ働きさせる(奴隷として仕えさせる)とは、いかにもひどい話です(2節。なお、20章10・17節も参照)。ここに古代人の限界があります。

古代の文書である聖書には、「平等」(憲法14条)という考えがありません。人々には「奴隷」と「主人」などの身分がありました(4節)。独身奴隷には結婚する自由がありません。主人が妻を与える権限を持っています。しかもその場合、生まれる子どもも妻も主人の所有とみなされ、婚姻関係を維持したければ、七年目に与えられる自由を放棄しなくてはいけないのです(5-6節)。片耳に錐で怪我を負わされた上で、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と誓わなくてはなりません。結婚を餌にして、いつまでも奴隷を所有することができるという悪賢い仕組みがここにあります。

性差別もありました。貧困のために「自分の娘を女奴隷として売る」(7節)ことが、日常的にあったのです。「女工哀史」と似たような事例です。必ず女の子が売られるところに性差別があります。男性である主人は、任意に女奴隷を自分の妻にすることも、また自分の息子の妻とすることもできました(8-9節)。「両性の平等」を謳う憲法24条の内容を起案したベアテ・シロタ・ゴードンという米国人女性は、当時の日本の女性が置かれた地位の低さに憤りを感じていたそうです。その一つに結婚相手を自分で選べないことがありました。

全体として、契約の書の奴隷についての規定は、当時の他の西アジアの法律よりも「人道的」と言われます。8-11節のような女奴隷を保護する内容は、どこの法律にもないからですし、そもそも「奴隷の処遇」という主題すらないからです。ハンムラピ法典他多くの法律には、「逃げ出した奴隷の罰」という主題は必ず登場しますが、聖書にはそれは無く、むしろ奴隷の処遇が取り扱われます。より人道的であることは事実です。

とは言え、だからどうしたというのでしょう。憲法に基づく民法・刑法を持つ現代のわたしたちから見ると、単なる「差別文書」ではないでしょうか。いったいわたしたちが、この条文に文字通り従うことができるでしょうか。それを行うとすれば、わたしたちが現代の法に触れてしまいます。わたしたちはこの条文を反面教師として読んでいきたいと思います。この条文に書かれているような仕方で隣人を奴隷としてはいけないし、もし自分が奴隷とされているのだったら、そこから抜け出る道を考えなくてはいけません。

「社畜」という言葉があります。会社にこき使われている労働者を指す言葉です。「ブラック企業/バイト」という言葉があります。労働者を使い捨てにする会社を指す言葉です。これらの激しい言葉ほどではなくても、全体として日本社会は長時間労働の国です。ほとんど奴隷的拘束のように思えるほどに、日本の労働者や管理職も長時間働かされています。極端な場合は過労死に至るほどの重労働です。

退社後の接待も含めて、長時間働くことができなければ出世できない仕組みが問題です。この仕組みは女性たちを出世コースから締め出す理由の一つでもあります。

とある女性国会議員から聞いた話ですが、国会には託児所が無いのだそうです。子育てをする人が議員として働くことをまるで前提としていない人々が、「少子化対策」などできるはずがありません。その議員は、「わたしの希望出生率は0%です」と言っていました。仕事場に託児所があれば、男性も女性もどんなにか働きやすいことでしょう。

こんなにも酷使されながらどうして会社を辞めることができないのでしょうか。その会社に忠誠を誓い「わたしは主人を愛しています」(5節)と表向きは言わざるをえない理由は何でしょうか。食っていくためです。また家族を養うためです。錐で片耳に穴を空けられても、「自分の意思」で奴隷となる人というのは、実はわたしたちのことでしょう。

こうして、世界でもっとも「自分の時間」が少ない人々が暮らす社会が長期間かけて作り上げられました。わたしたちは時間を奪われています。そのために世界でもっとも市民意識が薄い人々が暮らす社会となりました。市民とは自治を行う人です。そして私利私欲にのみ明け暮れるのではなく、社会の一員として社会全体がよくなるために何が必要かを考え、行動する人です。そのためには自分の時間が必要なのです。

考えてみればわたしたちは若い頃から受験勉強によって時間を奪われていました。勉強といっても暗記合戦であり、自分の頭で学問をするということではなかったと思います。世の中のことを考える暇が与えられていません。学校教育で、自分の意見を言うことはいじめられる原因や、邪魔者扱いされる原因にもなります。驚くべき同調圧力が世代を超えて蔓延しています。

そして社会に出てなお忙しくなります。その結果、世界でも珍しいほどの低投票率(政治的無関心)によって、奴隷的に支配されることを黙認しています。派遣法が改悪されても、高収入者の残業代がゼロになっても、多くの人は反対の意思すら表明できません。憲法が労働者の権利を規定していても、不断の努力でそれをかちとろうとしない限り、わたしたちは自由にはなりません。どうすればわたしたちはものを考える時間を確保できるのでしょうか。

「降りて行く生き方」をお勧めします。そんなに働きすぎなくていい、無理してまで出世しなくていい、つきあいが悪くてもいい、そこそこ幸せならいいと考えて、自分の時間を確保して人間らしく生きる。社会の一員らしく生きることです。自分のための余暇を確保し、さらに政治参加をできる時間を確保することです。いろいろな人が、社会全体の向上を考えて、自分たちの社会を良くしようと参加するときに、一部の人だけが恵まれる格差はなくなっていきます。正規/非正規の壁を取り払い、短時間労働でそこそこ食べていけるようにして、奴隷を一人でもなくす努力が必要です。

日本の子どもは6人に1人が貧困です。女性の貧困も全然改善されていません。大学進学のために多額の借金をせざるを得ない若者の貧困率も非常に高いのです。このような社会にしたのは、わたしたちです。がらりと変わるわけはありませんが、一人ずつ「降りて行く」ときに、つまり自らが奴隷であることを止め市民となるときに、少しずつ社会は変わっていくのです。

後半は(12-17節)、死刑廃止論者から見れば、まったく受け入れられない刑法規定の数々です。キリスト教は、イエス・キリストの十字架刑という死刑執行によって自らの罪を教えられるという信仰です。死刑という刑罰の罪深さが十字架で示されます。キリストを殺すという罪を犯したわたしたち一人ひとりは、もはや誰も殺さないのです。

現代人の目から見ると、この刑法は量刑が重すぎます。一人殺せば死刑(12節。23節も参照)、殺意があれば未遂でも死刑(14節)、両親の場合は殴るだけでも死刑(15節)、誘拐・人を盗む行為に対しても死刑(16節。なお「誘拐する者」は、「人を盗む者」という表現で第八戒と対応している)、両親の場合は呪う(軽んずる)だけでも死刑(17節)。わたしのような親不孝者は、たちどころに死刑執行されてしまうでしょう。

おそらくは、第五戒の「父と母とを重んずること」の影響で、奇妙なほど両親が祭り上げられています。ハンムラピ法典では、「父を打つ者は、その手を切られる」とあります。聖書においては、父と並んで「母」も言及されます。この点は若干の性差別克服の兆しがあり評価できます。ただし両親を打ったり、呪ったりすると死刑となるのは量刑として重すぎです。バランスを欠いています。仮に自分の子どもから殴られたり、馬鹿にされたりしたからといって、我が子に死刑を求める親がどれだけいるでしょうか。

厳密に考えると、死刑は人を殺す行為ですから第六戒の精神に反します。「あなたは殺さないだろう」(20章13節)と、ひとりひとりは神から期待されているからです。国家の行う殺人は死刑と戦争です。平和憲法を持つわたしたちは、聖書における死刑と戦争を反面教師としてしか読むことができません。国家であれ個人であれ、「あなたは殺さない」という神の期待のもとにいます。

そう考えると「逃れの町」の規定は(13節)、第六戒の精神をかろうじて表しています。これは過失致死を犯してしまった人の生命を守るための決まりです。当時は「血の復讐」という仇討行為が合法でした。親族は、身内が殺された場合に、報復の私刑を行って良かったのです。しかし、血の復讐は、過失致死の場合にはあまりにも酷です。まったく殺意がなく、たとえば事故によって誰かを死に至らしめた場合にも報復されるとすれば、社会は不安定になってしまいます。加害者をかくまうための町が設定されていました。その町を「逃れの町」と呼びます。加害者はある一定期間その場所に匿われます(ヨシュア記20章。ケデシュ、シケム、ヘブロン、ベツェル、ラモト、ゴラン)。

ほとんど参考にならない12-17節の中で、逃れの町の規定だけが積極的に取り上げられる価値を持っています。「誤って加害者になった人にも生きる権利がある」と言っているからです。これは、「故意に加害者になった人にも生きる権利がある(死刑制度廃止)」という考えにたどり着くための貴重な一歩です。おそらく「逃れの町」では、誰も人を殺さないという寛容な文化が根付いていたことでしょう。ここに教会のあるべき姿が示されています。

今日の小さな生き方の提案は、どのような教会をわたしたちがかたちづくっていくべきかという提案です。

第一に、教会は集う一人ひとりの時間を拘束しないように気をつけなくてはいけません。日本に暮らすというだけで、ただでさえ忙しくさせられているのですから、教会はそれぞれを自由に解放するべきです。最低限の運営を無理なく担い合い、それ以外は充実した市民生活を各人が過ごすことを喜ぶ、決して奴隷をつくらないようにしましょう。

第二に、教会ぐらいはこの世界の「逃れの町」となりたいものです。世界は血の復讐に明け暮れています。満員電車の中のあの苛立った雰囲気は何なのでしょうか。殺伐としています。不機嫌な人々がネット空間上、匿名の暴力的投稿でストレスを解消しています。この人たちの量刑判断は不当に重すぎます。ベッキーさんはそこまで悪いことをしたのでしょうか。泉教会が誰もがほっとできる「逃れの町」となれたらと願います。