遣わした方の真実 ヨハネによる福音書7章25-31節 2013年10月20日礼拝説教

先週イエスが論敵たちとの論争のために、仮庵祭の時期にエルサレムを訪れたと申し上げました。そして先週の論争は、旧約聖書の読み方、解釈の仕方をめぐってのものでした。「いのち」を尊重するという視点・角度をもって、聖書を読み解いていくべきということが、イエスの新しさです。それこそが、神への誠実であり、隣人愛という神のみ心を行う生き方を促します。このような教えは自分の栄誉ではなく、神の栄光や隣人の尊重を重んじるので、神から出ている教えです。

イエスは仮庵祭では殺されないと確信して公然と教えを述べました。そのことはエルサレムの人々にとっては不思議なことでした。「もしかしたら権力者たちのお墨付きでもイエスはもらっているのかしら。まさかそんなことはありえないね。」という考えが26節に紹介されています。エルサレムの中での常識は、イエスは権力者たちにいのちを狙われており、機会があればその人たちはイエスを捕らえようとしていたというものです(30節。32節も参照)。

では、なぜ30節にあるように「手をかける者はいなかった」のでしょうか。31節にあるように「信じる者が大勢いた」からでしょうか。いや、ここでの信じる者は奇跡を見て信じている者たちなので否定的に扱われています。他の福音書では権力者は民衆を恐れてイエスを逮捕しないことが多いのですが、ヨハネ福音書ではむしろ事情は逆です(13節。44節も参照)。だからイエスを信じる者が多かったから逮捕できなかったわけではありません。

「イエスの時が来ていなかったから」(30節)でしょうか。神の定めた時だったからという理由付けは、振り返れば誰にでも言えることです。「イエスの時は来ていなかったから」という理由は万能です。先週申し上げたとおり、イエスは過越祭で殺されることを決めていた、だからその時までは神がイエスのいのちを守ったとも言えます。しかし、いつもこのような理由で納得するならば、わたしたちは思考停止に陥ってしまいます。「良いことも悪いことも起こり、振り返るとすべてが神の時」、それはその通りだけれども(コヘレトにも同旨)薄っぺらに言いたくないものです。たとえば邪悪で曲がった時代の前兆を見極める目が鈍ってしまうことがありえるからです。

今がどのような時なのかよく考えなさいとヨハネ福音書は言っているように読めます。実際ヨハネ福音書は、「イエスの時がすでに来ているのか」それとも「いまだに来ていないのか」、例のこんにゃく問答によって明らかにしていないからです。どちらのことも同時に言っています。2:4では奇跡を行いたくないという意味でイエスは母親に「わたしの時は来ていない」と言いながら奇跡を起こします。また、4:23では「まことの礼拝をする時が来る、今がその時である」とサマリア人に語ります。5:25では権力者たちに「神の声を聞く時が来る、今やその時である」とも言います。そしてエルサレムに行きたくない理由として、弟たちには「わたしの時は来ていない」と言いつつ(7:6-8)、エルサレムに来たのです。

「わたしの時」というのは「メシアが人々を救うとき」と考えるのが素直です。イエスが人を救うという出来事はイエスが歩くところで起こっています。「今がその時」であるのは明らかです。しかしそれにもかかわらずほかならないイエスが、「救いたくないのだけれども」と言ったり、「まだ決定的な時ではないのだけれども」と言ったりするので、読者や信者は混乱をするのです。典型的なこんにゃく問答です。こうした修辞・文体・書きぶりそのものに著者の意図があります。

なぜこの時、イエスが逮捕されなかったのか、自分の頭で考えなくてはいけません。ヒントは32節と46節にあります。次週以降、この話題を取り上げないために、先取りして今日説明しておきます。権力者たちにイエス逮捕を命じられた下役は、イエスを逮捕しませんでした。その理由は、「今まで、あの人のように話した人がいないから」でした(46節)。イエスの態度に気圧されて逮捕することができなかったと言うのです。イエスとしては殺されないような形で論争をすることが、エルサレム訪問の目的です。そしてその目的を果たすためにしたことは、少人数屋内で論じ合うのではなく、逆に神殿の境内で大勢の前で堂々と語ることが重要だと判断したのでしょう。そうすれば逮捕されない状況を作り出せるからです。これは逆転の発想です。

イエスの語り方は何が異なっていたのでしょうか。マタイ7:29・ルカ4:32は権威ある者のような語り口と呼んでいます。以前にも申し上げたとおり、これは穏やかで毅然とした態度、「わたしはある」という姿勢です。もしも神が地上に来たらこのような立ち居振る舞いをするのだろうなという語り方です。「今まであの人のように話した人はいません」ということは、神ご自身の語り方ということでしょう。

イエスに初めて会う者はその話しに圧倒されます。前回のとおり話の内容も驚きに値します。そして内容だけではなく話し方にも特徴があったのでしょう。イエスがむやみに威張っているからではありません。神の意見と自分の意見が一致していると確信している人の話し方だからです。そしてそれだから、自分は真理を語っていると信じている話し方だったのです。そのような人を、権力者たちは逮捕することができないのです。

そのことを説明するために、「知る」という単語に注目しましょう。聖書研究のひとつのコツは、同じ段落に何回も繰り返される単語が鍵となる言葉であるという単純なものです。「知る」は今日、6回も登場します。そしてイエスは「知る」という単語の意味を相手の使っている意味とはあえてずらして用いています。

エルサレムの人々はメシアの出身地を知っている/知らないという意味で使いますが、その同じ単語を別の意味で、イエスは「自分は神を知っているがあなたたちは神を知らない」と言います(28-29節)。イエスの使う「知る」は人格的な交わりを指します。この用法はヘブライ語にさかのぼります。一心同体となるほどに全人格的に相手を信頼しているときに使う言葉です。

当時の神学論争として、「メシアはベツレヘム出身である」とか、「いや出身地は不明なはずだ」とかを真剣に論じる向きがあったのだそうです(27節)。イエスはそのような出身地探しによって神を知った気になるなとも言いたいのでしょう。メシアがどこで生まれるかよりも、神と人格的な交わりを持つことのほうが大切だと言いたいのでしょう。そして実際イエスは神と全人格的に信頼し合う関係をもっていたのです。キリスト教教理ではそれを三位一体と呼びます。わたしたちはすでにそのことを5:19以下で詳しく取り上げました。

自分は神を知っている、神も自分を知っている、自分は神から派遣された、神は自分を派遣した、神は真理そのもののお方である、だから自分は真理の教えを語ることができる、この確信が権威ある者の振る舞い、毅然として穏やかな姿勢、「アーメン、わたしは言う」(3:3他)という言葉、「わたしはある」(6:20)という生き方につながります。このような人を官憲は逮捕できないし、権力者は殺せないのです。

このような話し方をする人は合理的な計算をしていません。自分の内側にある確信のみによって突き動かされています。宗教というものの持っている力です。だから、一般に合理的な計算を基本にしている人は、ある意味で不気味に思って手をかけることができなくなるのです。「宗教は怖い」「宗教に凝ってはいけない」と言われるのと同じような意味で、イエスは逮捕しようと思う者たちに恐れられたのでしょう。28節と37節で、イエスは大声を上げています。これはデモの中のスピーチと同じです。それでも逮捕されないのです。宗教的確信というものには防護壁(バリアー)のような効果があります。神と一体となる、神と一体となっているという確信の中で語る、そしてそれ自体が自分のいのちを守る、それが仮庵祭で逮捕されないイエスの姿が教えることです。

宗教者、信仰を持っている人にはこの世界で果たすべき役割があると思います。教会は教会自身のためにあるのではありません。自分たちの組織維持のためにあるのではありません。教会は世界に仕えるためにあります。月曜日から土曜日までわたしたちは世界に散らされ、地の塩として見えない形で地道に世界に仕えます。どのようなことが世に貢献することとなるのでしょうか。一つの例を申し上げます。

神学生の頃からわたしは政治的なデモに参加していました。今でも憲法改悪反对や反原発や自衛隊海外派兵反対や沖縄基地存置反対などなど、参加できるときには行っています。しばしば日本山妙法寺の僧侶と一緒にデモを行うことがあります。キリスト者平和ネットと宗教者平和ネットはつながりがあるからです。その方々はこちらよりも武闘派で、靖国神社境内で警察官ともみ合いになったり、国会議事堂前でも警察官の過剰警備に抗議をしたり、とても活動的な仏教者です。

宗教者たちのデモの様子は外から見ると少し不気味な雰囲気があるようです。宗派によって色の違う袈裟をかけた僧侶が並んで、のぼり旗を立てたり、団扇太鼓を鳴らしたり、数珠を握って南無阿弥陀仏を唱えていたりします。キリスト者の側も神父が黒い服、聖公会司祭がグレーのカラー、バプテストは平服ですが、讃美歌を歌っているのです。横断幕には「武力で平和はつくれない」、のぼり旗には「憲法改悪反对!」などと記されています。他の諸団体とは明らかに変わった雰囲気の宗教者のデモ隊です。

すると警察もひるむのです。「何を言っても通じないのだろうな」という観念が表情に出ています。または「下手なことをするとバチが当たる」と思っているのかもしれません。ありがたいことに宗教者の政治的デモは比較的安全です。これを利用しない手はないでしょう。これが今という時代のしるしです。

今の時代はどのような時代なのでしょうか。治安維持法があった時代、宗教者・キリスト者こそが真っ先に逮捕されたでしょう。しかし、そこにまでは今のところ至っていません。過越祭よりも前の仮庵祭という位置づけです。しかし確実に過越祭間近になっている、「戦後は遠し・戦前近し」の感があります。

自由民主党が政権に返り咲き、原発推進を始めかつてと同じ政策をかつてと同じ手法で実施しています。それは憲法に明記されている人権の保障の幅をなるべく狭めていこうとする政策であり、憲法に明記されている戦争放棄・主権在民をなるべく骨抜きにしていこうとする政策です。日米安保条約、元号法、PKO協力法、国旗国歌法、周辺事態法、盗聴法、教育基本法改悪、改憲手続法、秘密保護法案、武器輸出三原則緩和、集団的自衛権行使などなど。もうすぐ憲法改悪、徴兵制、言論封殺が起こるかもしれません。

信仰を持っている人には果たすべき役割があります。合理的打算を超えて、神の意志として内なる確信を抱いて、あきらめないでしぶとく、希望をもって粘り強く、自分の信ずるところを言うことができるという利点があります。今の時を用いて、神の真理を毅然として穏やかに言い抜きましょう。