隣人の家 出エジプト記20章17節 2016年1月17日礼拝説教

あなたは、あなたの隣人の家を欲しがらないだろう。あなたは、あなたの隣人の妻や彼の奴隷、彼の女奴隷、彼の牛、彼のろば、つまりあなたの隣人に属する全てのものを欲しがらないだろう。(直訳風私訳)

今日は第十戒です。とうとう十戒の締めくくりです。およそ最後の言葉には全体をまとめる内容があるものです。十戒の第十戒にもあてはまります。

イスラエルの民は、前文にあるように「奴隷の家」から神によって導き出されました(2節)。エジプトのファラオの奴隷(アバディーム)だった者たちが、主なる神の礼拝者(アバディーム)となりました。主の名を呼ぶ礼拝を自由にできるようになり(7節。第三戒)、主以外のものから所有されない行動の自由を得たのです。だから、自然と神のみに集中して礼拝することができるはずです(3-6節。第一戒・第二戒)。

出エジプトによりファラオの所有物であった者たちが、何かを所有できる身分ともなりました。対等の身分であるそれぞれが「家」を持っているということが、第十戒の大前提です。では、「家」とは何でしょうか。

「あなたの隣人の家」は、17節の中で「あなたの隣人に属するすべてのもの」と言い換えられています(私訳参照)。移動中の民は、天幕を使って寝泊りをしています。ここで不動産ないしは建築物としての家を想像する必要はありません。家は隣人の持ち物一切合切(私有財産)という意味です。

当時の人々は、このような持ち物の一切合切として、家族も含めて考えていました。家父長制や家制度が極めて強かったので、人間が個人として尊重されていなかったのです。わたしたちは、この点を割り引いて考えなくてはいけません。第十戒を個人の尊厳を貶める方向で解釈することは、個人の人権尊重という観点から今日採用できないものです(12節。第五戒も参照)。

ただし良い面もあります。家族も含むということは、第四戒の安息日についての教えを思い出させるからです。10節にすでに「男女の奴隷」「家畜」が、家族の一種として例示されています。所有物と家族は重なっています。仲間として連なっています。「仲間全体で休もう」というのが第四戒。「誰かの仲間全体を一部でも欲しがるはずがない」というのが、第十戒です。

先週第九戒の際に申し上げたとおり、「あなたの隣人」(16節)には範囲がありません。すべての人は誰に対しても隣人となることができます。また、特に困っている人の隣人となることが勧められています。いったん誰かの隣人となったならば、それはその人に仕える/その人を助けるということになりますから、その人に属するものを欲しがるわけがありません。その人の利益になることを考えるはずで、不利益を及ぼそうとしないわけです。

欲しがらないのだから、不倫をしないし(14節。第七戒)、盗むこともありません(15節。第八戒)。こうして、第十戒は十戒全体の主題を広く包みこんでいます。また第十戒だけは隣人愛について心の問題にまで射程を伸ばしています。「欲しがる」ことは、実際に盗まなくても心の中だけで成立します。この意味で第十戒は最も深く倫理的宗教的な主題(罪)を扱っています。

ここで、「欲しがる」(ヘブライ語ハマド)という言葉の意味について申し上げます。一言で言えば、「外見に印象づけられて選り好みする行為」です。創世記2章9節で、神は果物を実らせるすべての木を創ります。それらは「見るために好ましく(ハマド)、食べるために良い」ものでした。すべての果樹は好ましいものとして創られましたが、人間にとっては「善悪を知る木」だけが「思慮深くなるために好ましい(ハマド)」のです(同3章6節。新共同訳「賢くなるように唆していた」)。

創世記2-4章は、伝統的に「罪とは何か」について考える際に取り上げられる箇所です。罪というのは、人間が根源的に持っている倒錯のことです。より良く生きるためには、神と隣人に向き合い、協力し合うことが必要です。そのことを分かっていても、神に挑戦して成り代わろうとしたり、人間同士で裏切ったり他人のせいにしたり殺したりしてしまう。しかも最善の行いと信じて行うことが、結果として最悪の行いとなることすらあります。すべての人間がこのような倒錯を持っています。逆立ちをして生きています。それを罪と呼びます。「あなたはどこにいるのか」(同3章9節)と神から問われるゆえんです。

人間は見かけで判断しやすいということが、罪の促進剤となりえます。商業的宣伝は、その性質を利用しています。人は見た目に良いものを欲しがります。その性質が、「他人のものはよく見える」という嫉妬と組み合わさる時、罪が戸口でわたしたちを待ち伏せしています(同4章7節)。

さきほど「すべての果樹が好ましい見かけだったけれども、人間にとっては善悪の木だけが好ましく見えた」と言いました。まったく同じものを隣の家が持っていても、自分のものよりも好ましく見えることがありえます。正に「隣の家の芝生は青い」ものです。だから、欧米列強を羨む大日本帝国が、隣の家を欲しがって収奪をした行為は、第十戒の精神に反します。そして現在の国境を超えた大資本が架空のお金を動かして世界を牛耳っていることも、そうです。人類史上最大の「格差社会」にわたしたちは生きています。罪に真摯に向き合わない開き直りや、人間の欲望を無批判に肯定していることに、格差の原因があります。自由競争ではなく富の再分配が、わたしたちの生きる時代に大切な発想です。十戒をすべて守っていると豪語する金持ちにイエスは諭します。「あなたの富を貧しい人に再配分しなさい」(マルコ10章21節)。国家と世界全体の課題を第十戒は教えています。

もう一つハマドが用いられている箇所を読みます。それによって、罪というものをさらに深く考えるためです。イザヤ書53章2節です(1149ページ)。「好ましい容姿もない」というところに、ハマドが使われています。「見かけによる選り好み」というハマドの意味が明瞭に表れています。

イザヤ書53章は、初代キリスト教会以来、イエス・キリストの十字架を指すと解釈されて今に至っています(使徒言行録8章32-33節。エチオピア人宦官のバプテスマ物語)。ここで、虐殺された人物(苦難の僕=キリスト)は、全世界分の罪を背負って、その罪を滅ぼすために肩代わりとして殺されたと、キリスト信徒は信じます。自分の倒錯をぬぐい去るために、唯一倒錯していない神の子イエスが十字架で殺されたと考えるわけです。イエスの十字架を、自分も含め全世界の身代わりの死と考えることを贖罪信仰と言います。

罪とは「見かけに左右される欲望」です。だから、罪を防ぐことは、見かけに左右されずに真理を見抜くことです。イエス・キリストの見かけはひどいものでした。死刑囚として、残酷な仕方で公開処刑されたのですから。その人を選り好みして、「わたしの救い主」としたがる人がいるでしょうか。茨の冠をかぶせられ、十字架上に釘付けられ磔にされて苦しむイエスを、イエスを殺す側の人々が嘲ります。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ福音書15章31-32節)。

みすぼらしいものたちを見下してとことん貶める姿勢に罪が現れます。見かけの良いものへの憧れは、見かけの悪いものへの蔑視の裏返しです。選り好みは憎悪の裏表です。排他的に欲しがることは、排他的に滅却することと表裏一体です。それゆえに、第六戒の「殺人」という主題をも、第十戒は含みます。十字架は罪が何であるのか、特にその醜悪さを教えます。

キリストによる解放の原型は出エジプトという奴隷解放です。すべての人は罪の奴隷であるからです。根本が倒錯しているために、わたしたちは逆立ちをして生きざるをえないのです。罪をどう克服できるのでしょうか。二つの考え方がありうるでしょう。自力で解決することか、それとも、他力で解決されるかです。教会の教えは、徹底的に後者の他力本願です。

自力での解決は、人間の努力と成長に信頼をおきます。誰をも羨まず、誰をも貶めず、自分の尊厳を保ち、隣人を尊重することが、自力でできるのならばそれも悪くないでしょう。そして、その努力と成長はキリスト者もまた追い求めるところでもあります。では他力本願との違いは何でしょうか。

他力本願の良さは、自分に対して良い意味であきらめてしまうことです。正直にお手上げし、「倒錯を乗り越える強さを自分は持ち合わせていない」と、自分の弱さを認めてしまうことです。罪とは、倒錯という悪さだけではなく、弱さも含みます。自分自身については弱さを誇る(Ⅱコリント12章5節)態度が大切です。聖書の神は弱さを認める者に共感する弱さを知る十字架の神です。

それによってほっとします。この第一段階の満ち足りる状態が大切です。「大いなる肯定」というものです。あなたの罪は、すでに十字架でイエスが背負った、全世界の罪が一緒に磔にされた、悪さと弱さを抱えたままで良い、あなたの存在がすばらしい。何の努力も成長も必要ありません。イスラエルの人々がただ逃げただけで奴隷から自由にされたのと同じです。自分の罪を認めることは、神の無条件の愛を受け容れることです。だめな自分を思い知り、そのだめな自分をも丸ごと愛し存在を肯定している神を知る人は、神の救いを経験した人です。その人は入信と入会の儀式であるバプテスマ(洗礼)を受けます。

第一段階の満足をテコにして、また認められている安心をバネにして、第二段階へと進みます。それが欲すべきものを欲し、欲すべきでないものを欲しがらない生き方になります。悔い改めという生き方の転換は、第二段階で起こることがらです。この段階で倒錯を乗り越える努力と成長がなされます。ここからが自力です。あるいは、自らが入会した教会の仲間と一緒にとりくむのですから、「共力本願」とでも言うべきことがらです。

マルチン・ルターという宗教改革者は第十戒の解釈において、このように述べました。「神を愛し畏れよ。そうすれば隣人の家を欲しがるはずがない」。これは優れた解釈です。何を欲するべきか前向きな提案をしているからです。無条件の愛を受け容れた者は、神を愛すること・畏れることを欲する、そうすれば神以外のものについては欲張りすぎないようになるというのです。では、神を愛する・畏れるとは何でしょうか。それは礼拝です。

わたしたちは礼拝以外の活動を避ける「ヒマな教会づくり」を目指しています。それは礼拝で十分ということでもあります。十分な礼拝は、神からの愛を感じるものです。そして、罪を教え、罪という倒錯を克服するきっかけを与えるものです。欲望にまみれた日常を逃げ出し、教会で大いなる肯定を感じ、欲望を克服する生き方(富の再配分)の実例を短時間でも実践するものです。小さな食べ物と飲み物を分かち合う主の晩餐は欲しがらない生き方の一例です。ここに誰もが入れる家があり、ここで分かち合いがなされています。

福音を聞いて神の愛を受け容れ、神を愛する祈りを捧げ、神を畏敬する賛美を歌い、神によって罪を教えられ、それぞれの生きている場で罪を克服しましょう。倒錯を正す小さな努力と人間的な成長は、各人の平日の働きに委ねられています。毎週の礼拝を繰り返しながら共に前へと歩んでいきましょう。