霊と真理をもって礼拝する ヨハネによる福音書4章16-26節 2013年7月7日礼拝説教

救いとは何か、先週は差別の加害者の救いについて述べました。今週は、その主題を引き受けて、特に差別の被害者である人にとって救いとは何かということを申し上げます。そしてイエス・キリストを礼拝するということがすべての人にとっての救いであるということを、小さな提案として申し上げます。

差別というと自分とは関係ないと思う人がいるかもしれません。差別されたことなどないと思うかもしれません。しかし、不当に貶められること、尊重されないことはどんな人も経験しています。広げて考えて構いません。大切にされないという経験で苦しむ人すべてを、イエス・キリストは救い出してくださいます。礼拝という神との交わりで、救い出してくださいます。その礼拝をする生活をしませんかということが、今日のおすすめです。

ヨハネ福音書のイエスは自らサマリア人伝道をします。そのために常識を破ってユダヤ人であるイエス一行はサマリア地方を旅してサマリア人との交流を持ちます。伝道とは救い主イエスを紹介し、イエスによる救いに入るように人々を招く行為です。イエス自らが自己紹介をしているところに今日の聖句の特徴があります(26節)。

今日、一人のサマリア人女性がイエス・キリストによって大切に扱われ、自由にされ、救われました。イエスはこの不当に貶められた一人の救いのために、サマリアを通らねばならなかったのです。ザアカイの時と同じです(ルカ19章)。彼女はどのようにして救われたのかと言えば、一見ちぐはぐでかみ合わないイエスとの直接対話によってです。この出会いと対話が、実は礼拝であるとイエス自身が語っています(23節)。この礼拝が彼女を救ったのです。

礼拝とはイエスとの対話です。このイエスとの対話に苦しむ人を救う力があります。ではどのような対話であったのかを、詳しく検討してみましょう。16-18節は、この女性が何によって苦しめられていたか、その一つの理由を明らかにします。彼女には現在の夫以外に5人の夫がいました。なぜでしょうか。多くの男性神学者は伝統的に、「この女性は性的にふしだらだったのだ、男性を誘惑し不倫を何回もしていたのだ」とか「それが証拠に正午という暑い盛りに人目を避けて水を汲んでいる」などと、解釈してきました。今でもそういう解釈が多数派です。そのような解釈は女性に対する偏見に満ちています。聖書に女性が登場するとすぐに「性的に問題をはらんだ人」という偏見で見るように、わたしたちは訓練されています。「女性というものが男性を狂わせる」という、女性に対して甚だ失礼な先入観を持ち込んでいるから、そのような偏見が幅を利かせるのです。聖書本文にはそのようなことは書かれていません。ではなぜ彼女は6人の夫を持ったのでしょうか。

サマリア人も『モーセ五書』を持っていたことは先週申し上げたとおりです。申命記25章5-6節(旧約319頁)をお開きください。この法律は家の存続のために女性は夫の兄弟と次々に結婚しなくてはならないという決まりを定めたものです。当時は、両性の合意のみによる婚姻ではなく(憲法24条)、家というものが個人より上にあったのです。申命記は『モーセ五書』の一部ですから、サマリア人もこの法律の下にいます。

つまり偏見を除いて素直に推測するなら、この女性は結婚した夫に先立たれ、順次兄弟たち、または親戚の男性たちと、意思に反して結婚し続けなくてはならなかったということです。本人としては最初の夫こそが自分の配偶者であると生涯思いたかったかもしれません。愛していない男性との結婚を家のためという名目で強いられることは、女性を苦しめる制度です。しかもこの場合、周りは「あの女性と結婚すると死ぬ」という悪い噂を流したことでしょう(創38章参照)。

まったく本人の責任ではないところで、不当に貶められ、普通の苦労が何倍にも膨れ上がる苦労にさせられています。彼女は尊重されていません。個人として尊重されていません。だからこの人には救いが必要です。そしてイエスは対話によって彼女を救ったのです。第一にそれは女性の苦労が不当なものであるということを認めた言葉です。ちなみに別の聖書箇所でも、イエスが当時のこの結婚制度に批判的であったことが示されています(マタ22:23-33)。

「あなたは真理を語っている。正しい。あなたは自分の結婚相手を自分で決めて良い。勝手に定める法律の方がおかしい。あなたの意志を無視し、あなたを犠牲にしている家制度の方がおかしい。真理はあなたの方にこそある。」これが16-18節の対話の大きな趣旨です。そしてこれが真理をもって礼拝するということなのです。

人は自分を肯定される言葉かけによって生きるのです。法律や世間や常識が自分を苦しめている場合、「誰も分かってくれない」と追い込まれやすいものです。「誰も本当のことを分かってくれない、誰も真理を知らない」と失望しがちなわたしたちです。しかしイエス・キリストはそのようなわたしたちを救い出してくださいます。偏見なく真理を見て、丸ごとの承認をくださるからです。それは礼拝の中の言葉かけによって起こります。わたしたちは自分の祈りの中で正直な思いを語ります。「わたしには夫はいません」のような自分にとって真理である意志を告げます。それに対してイエスは、「あなたの言っている言葉に真理がある」と認めてくださいます。始めの祈り・報告・平和の挨拶・会衆賛美などと、聖書朗読・説教などとの間に、そのような真理の対話が起こるのです。それによってわたしたちは尊重されます。嬉しい体験です。誰からも分かってもらえなくても、真理をもってなされる礼拝、真理の言葉の掛け合いの場では個人である自分が大切にされるのです。

19-24節には、サマリア人としての苦労が語られています。20節の「この山」は、先週申し上げたサマリア人が神殿を建てた場所であるゲリジム山のことです。ユダヤ教徒はエルサレム神殿で礼拝し、サマリア教徒はゲリジム山で礼拝している、それによってユダヤ人から自分たちが差別され迫害を受けていることを彼女は述べています。これは宗教的な差別です。この大きな罪によって苦しめられている人はどのようにして解放されるのでしょうか。

イエス・キリストを礼拝することによってサマリア人も解放されます。霊である神を、霊をもって礼拝することによってすべての人は救われます。把握できない神を把握できない方法で礼拝するのです。ここでサマリア人女性は知らず知らずのうちに霊をもって霊である神を礼拝していたとイエスから評価されています。霊的な礼拝が苦しんでいたサマリア人女性を救いました。

第一に霊的な礼拝とはイエスを人格的に信頼する礼拝です(21節)。特に、差別という大きな枠組みを取り払ってくれるメシアを信頼することです。イエスは、「救いはユダヤ人から来る」ということを知っていようが知っていまいが関係無いと言い切ります(22節)。教理への知識ではなく、宗派同士の神学論争でもなく、キリストへの信頼の方が大切です。信頼ならば誰でもできます。「イエスさまなら何とかしてくれる」という単純素朴な信頼が全体を覆っている礼拝、これこそ不当に貶められている人が求めている空気・風なのです。

このサマリア人はイエスへの信頼を次第に深めています。最初はただのユダヤ人男性の旅人でした(9節)。それが、「主」という呼びかけに変わり(11節)、「預言者」と認められ(19節)、「救い主」に昇格していきます(25節、30節)。このような信仰がその人を救います。あなたの信があなたを救うのです。

単純素朴な信を身につける礼拝にするにはどうすれば良いのでしょうか。子どもや動物・植物は神を単純素朴に信頼しています。明日のことを思い煩いません。だからこのような神の国の第一の住民と共に行う礼拝は、信頼を深め広げる霊的な礼拝です。信を回復することが貶められている人を救います。神を信じ、隣人を信じ、社会を信じ、自分を信じることができる人は、不当な仕打ちにめげないし、不当な世を変えていくことができるのです。

第二に霊的な礼拝とは言葉にとらわれない礼拝です。言葉かけだけが人を救うのではありません。逆に先ほど確認したとおりこの女性は法律の文言に苦しめられてもいました。文字は殺し、霊は活かします。言葉ではない部分、音楽や、黙祷や、主の晩餐のように味覚・視覚に訴える部分が礼拝の大切な要素です。なぜかと言えば、人はそのような場面で復活させられたイエス、霊である神に出会うからです。神との出会いは神秘的な体験なのであって、誰もうまく説明できない経験です。「何だか良くわからないけれども、神さまっているのではないか」、「上手く言えないけれども自分を超える存在に自分は大切にされているのではないか」、「わたしは神さまと共にいるように感じられる」という霊的体験です。黒人教会の賛美も参考になります。

人々から不当に貶められ、尊重されていない人に必要なこと、その人を人として立ち上がらせることの一つは、こういった神秘的な体験にあるのと思います。なぜかと言えば言葉によって傷つけられている人が多くいるからです。言葉というものに不信感を持つ人が大勢いるからです。だから、わたしはこの場面でのサマリア人とイエスの「一見かみ合わない対話」そのものに意味があるように思えます。サマリア人にとってこれは神秘的な体験なのです。礼拝にはそのような不合理な部分が必要です。主の晩餐はその代表例です。パンを食べぶどう酒を飲むと何だかわからないけれども神に愛されていることを実感できる、これは霊である神を霊的に礼拝している行為そのものです。

神は霊と真理をもって礼拝する、ほんとうの意味の礼拝者を求めています。それはすべての人が救いに招かれているということです。なぜなら、礼拝によって人は救われるからです。神はその独り子をこの邪で曲がった社会に与え、今日の場面ではサマリア地方に遣わされました。それはイエスを信じる者が救われるためです。永遠の命を生きるためです。まことの礼拝者となって救われることが、神の意思です。

この救いは精神的な意味だけではありません。社会的な意味でも、イエス・キリストを礼拝するならば、不当に貶められている人は解放され、人を貶める者たちも同時に解放されます。または、両者は解放される途上を歩くことができるようになります。加害者も被害者も解放されていく道を共に肩を組んで歩いていくようになるのです。

サマリア人女性がユダヤ人男性をキリスト、メシア、救い主と信じて告白する時に、つまりイエスの弟子になっていく時に、ユダヤ人である弟子たちが悔い改めます。サマリア人差別という罪から解放され生き方が方向転換されます。少なくとも同じ弟子集団の中で不当な差別は行えません。同じ杯を用い、同じ一つのパンを割くようになります。すると信頼が生まれます。信頼のネットワークが広がり深まります。このような奇跡的現象がイエスを礼拝する時に与えられる救いの具体的中身です。永遠の命を生きる仲間が一人ずつ起こされ増えていくのです。

小さな生き方の提案です。霊的な礼拝を毎週ここで行い集まりましょう。それがわたしたちを救うからです。