預言者たちの口 使徒言行録3章18-26節 2020年11月22日 礼拝説教

18 さて、彼が全ての預言者たちの口を通して彼のキリストが苦しむと予告していた神は、そのように満たした。 19 そういうわけだから、あなたたちは悔い改めよ。そしてあなたたちは向きを変えよ。あなたたちの罪々が拭われることに向けて。 20 その結果、主の面前由来の刷新の時期が来る。また彼があなたたちのために任命されたキリスト・イエスを送る。 21 正に、その彼を天が受け入れることになっているのだ、神が彼の聖なる預言者たちの口を通して古え以来語った万物快復の時期まで。

 ペトロの説教は続きます。ナザレのイエスを十字架で殺したのは、ユダヤ植民地政府に煽られた民でした。それは無知によるものです(17節)。知らないということが罪となる事例です。

 人間の罪の問題を重く受け止めながらも、ペトロは視線を神に向けます。義人が冤罪を被って公開処刑されるという不正義・不条理な出来事が誰の責任で起こったのかという説明です。唯一神教の場合、世界で起こるすべての出来事の責任は神にあります(ヨブ記)。「わが神、わが神、なぜわたしを棄てたのか」という十字架上のイエスの絶叫は、正しい問いです。神こそが十字架の責任者です。

 ペトロは神の責任を認めています。神は旧約聖書の時代から「神の預言者たちの口によって、神のキリストの苦難を予告していた」とさえ言っています。神は自分の予告したことを、予告したように実現したに過ぎません(18節)。ペトロが想定している聖句はイザヤ書52章13-53章12節であると推測します。いわゆる「苦難の僕」と呼ばれている箇所です。弟子たちが裏切りを経て悔い改めて復活の証人となるためには、「贖罪信仰」(イエスの犠牲によって奴隷状態から自由になるための買戻しがなされたという信仰)という逆転が必要でした。使徒言行録8章32-33節に引用されていることからも分かりますが、初代教会にとって確実にイザヤ書53章は中心的な聖句です。

「彼のキリスト」(18節)という表現もイザヤ書45章1節を頭に置いています。「油注がれた人」(マシアッハ)のギリシャ語訳が「キリスト」(クリストス)です。神は油を注ぐことによって、救い主を任命します。ペルシャ帝国の王キュロスという人物でさえ、「神のキリスト」となりえました。「預言者イザヤの口を通して、神はイエスをキリストと任命し、イエスを十字架で処刑することを予告していた」とペトロは語っています。

「神の計画なのだから、あなたたちは悔い改めよ、方向を変えよ」とペトロは勧めます。神は諸々の罪(複数)を拭い去る道・方向を指し示しています。十字架は罪を断罪し、ねちねちと私たちを追い詰めるための出来事ではありません。私たちが罪を認め、そして罪を拭い去ることができる方へと方向を変えるための出来事です。キリスト殺しの罪を悔い改める行為が、ドミノ倒しのように起こることをペトロは期待しています。高ぶる人や支配したがる人が低くなり、低く屈めさせられている人や支配されたがる人が高くなるのです(ルカ1章)。荒野にまっすぐ平らな大路が通ることは世界が刷新される時まで続きます(ルカ3章)。一人の悔い改めは天において大きな喜びです(ルカ15章)。

悔い改めの連鎖がキリストの到来を準備します。クリスマスに来られたキリストは、もう一度世界を刷新し快復するために来られます。旧約聖書の預言者たちは「主(ヤハウェ)の日」という言葉を使いました。主が到来する時に、公正な裁判が行われるという信仰です。この信仰が、終末への希望を生み出しました。神のキリストは世界審判のために来られ、その時裁判もなしに不当に扱われている人々が正当な裁判を受けることができます(ルカ18章)。不当な裁判の結果殺されたナザレのイエスが、今度裁判官となるのですから公正な裁判が期待できます。天に昇られたイエスは、神にキリストとして任命され地上への再到来の時まで天に引き留められ待機しています。

22 一方でモーセは次のように語った。「あなたたちのためにあなたたちの主なる神が、あなたたちの兄弟たちの中から私のような預言者を起こすだろう。あなたたちは彼に聞く、彼があなたたちに向かって話す全てのことによって。 23 さて全ての生命が、もしもその預言者に聞かないならば、民から根絶されるだろう」。 

 続いてペトロは預言者モーセの言葉を引用します(申命記18章18-19節)。申命記だけを引用することはサドカイ派への配慮でしょう。22節の「モーセ」と25節の「アブラハム」について聖句を引用することは同じ配慮です。サドカイ派はモーセ五書以外を聖書と認めていません。2章の宿屋の説教で引用したヨエル書や詩編は、サドカイ派にとって格下の「聖書未満の文献」です。

 昔から今に至るまで申命記18章の「預言者」が誰のことを指しているのかは未決の大問題です。「来るべき方」(救い主)が誰なのかという問いは、この預言者が誰なのかという問いでもあります(ルカ11章3節)。ユダヤ教の創始者モーセの再来は、旧約聖書内に登場した人物なのか(預言者エゼキエルを指すという学説もあります)、それとも未知の人物なのかが問題です。列王記に登場した預言者エリヤを指すとすれば、一度に解決します(マラキ3章22-23節)。マラキ書の著者は申命記18章の問題を解決させようとし、ユダヤ教徒たちもその解決を受け入れています(マタイ27章49節)。

キリスト者たちはさらに一ひねりして、「マラキ書が予告したエリヤはバプテスマのヨハネのことを指す」と解して問題を解決させます(マタイ11章14節)。つまり、イエスではないというのがキリスト教徒の回答です。キリストが預言者以上の方だからです(ルカ7章26節)。申命記18章の「預言者」はバプテスマのヨハネを指すというのは、キリスト教徒のなす一つの答えです。

 ペトロはモーセの預言した預言者が誰であると言いたいのでしょうか。ヨハネだと言っていません。おそらくペトロの答えは、使徒たちやキリスト信徒一人ひとりが、モーセの預言した預言者であるというものです。

24 そして他方でサムエルよりこれら以降の全ての預言者たちが、これらの日々について語り、また告げた。 25 あなたたちは預言者たちの、また契約の息子たちだ。それ(契約)は神があなたたちの先祖たちに向かって契約したものだ。アブラハムに向かって言いながら、すなわち、あなたの種において地の全ての親族たちが祝福されるだろうと。

 アブラハム、モーセと別の仕方で預言者サムエルが名指しで言及されています。サムエルはサウル王とダビデ王に油を注いで任命した預言者です。サムエル以降の全ての預言者たちは、イスラエルが王国になった後で活動をした預言者たちです。この意味でサムエルは時代区分のために用いられています。

「全ての預言者たち」の中にヨエルも入ります(2章17節)。ヨエルは、聖霊が降る日には全ての者が預言をすると予告しています。ペトロは、ペンテコステというのはヨエルの予告が実現した時であると理解しています。それはユダヤ教全般が、「預言はエズラの時代(前5世紀)まで」と考えているのと異なる理解です。「これらの日々」(24節)は、ペンテコステ以来続いている毎日のことでしょう。つまり、申命記18章のモーセの再来である預言者とは、実はキリスト信徒一人ひとりです。それはモーセ自身も期待していた事態です。「わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(民数記11章29節)。私たちはみな預言者たちの息子たち・娘たちなのです(25節)。

 ペトロの連想は、「預言者たちの息子たち」から「契約の息子たち」と発展していきます(25節)。アブラハムも預言者の一人であることと(創世記20章7節)、アブラハムに対する救いの契約が非常に重要であることを思い出したからです。全てのユダヤ人は、アブラハムの息子たち・娘たちです。アブラハムに対する救いの契約は、アブラハムにおいて地上の全ての親族が祝福に入るというものです(創世記12章3節)。それをペトロは、「あなたの種(子孫)において」と言い換えています(25節)。「の種」を付け加えて、「種」に聴衆全員を入れています。キリスト信徒は皆、祝福の道具です。誰もがアブラハム・サラ・ロト・ハガルの旅をすることができます。信仰生活という旅を続けながら、誰もが隣人を祝福することができます。

26 まずあなたたちのために、神は彼の子を起こして、彼は彼を送った、あなたたちを祝福しながら、あなたたちそれぞれをあなたたちの悪から離れさせることにおいて。

 キリスト信徒が全て預言者であり、また、神の祝福の対象であり、隣人への祝福の道具であることの基礎はイエス・キリストにあります。私たちのために神は神の子をよみがえらせました。神は復活によってイエスをキリストに任命しました。神は復活のイエスを弟子たちの前に送り、その後イエスの霊を弟子たちにも、エルサレム在住の外国人にも、さらにユダヤ人たちにも送りました。これらの人々が神の祝福の対象だからです。そしてこれらの人々を全員、祝福の道具とするためです。キリスト信徒は、隣人に向かって「全存在の肯定」を語ることができます。この祝福こそ福音です。祝福(あなたは幸いだ)という福音を聴いた者は同時に「悔い改めよ」という命令にも聞き従います。

 全存在の肯定を受けると、悪を行う生活まで弁明できそうです。しかしペトロは神からの祝福と表裏一体の生き方として、「各人が悪から離れること」を挙げています。これこそ19節の「罪々が拭い去られることに向けて」なされる、日々の悔い改めです。

 今日の小さな生き方の提案は、預言者として、また、契約当事者として生きるということです。それがペンテコステ以後の信徒の生き方です。

 預言者の口はキリストの苦難を予告しました。それと同様に、私たちはこの世界で苦難を負わされている人々のことを語る必要があります。もう一度キリストが来られる時に、苦難が一掃される希望をも語る必要があります。それは自分の苦難を語り、自分の苦難を贖う方に希望を置くことでもあります。

 アブラハムとサラは祝福そのものとされました。「子孫がいない夫婦は呪われた状態に置かれている」と信じられていた時代に、神はアブラハムとサラの全存在を肯定され、彼・彼女の存在を否定する「父の家」からの脱出を命じました。それは大きな方向転換・悔い改めでした。私たちもまたこの祝福と方向転換をいただく契約当事者です。

 教会で祝福と方向転換を同時にいただきましょう。圧倒的な「然り」をいただき自己肯定感・信仰に基づく自信をいただきましょう。「幸いだ、貧しい者・今泣いている者・今飢えている者は。神の国はあなたたちの只中にある」。それと同時に圧倒的な「叱り」をもいただきましょう。支配欲・被支配欲などの諸々の罪が拭い去られる方向へと、月曜日からの生活を悪から離れる方向に向けましょう。「神の国は近づいた。悔い改めよ」。邪悪で曲がった時代の中で、まず自分から悔い改めの連鎖を起こし、隣人に福音を伝えていきましょう。