飼い葉桶に ルカによる福音書2章1-7節 2016年5月8日礼拝説教 

今日の箇所は歴史記述としてはさまざまな間違えを含んでいます。同時代の歴史書が聖書と矛盾する事実を記す場合、聖書記事は史実としては斥けられます。現代のわたしたちは、歴史家たちからの批判に謙虚に耳を傾けるべきです。著者ルカがいかに正確に「キリスト教史」を著そうとしても、彼は歴史家ではありません。宗教者としての限界があり、逆にその良さもあるからです。

「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」ことは史実としては一回もありません(1節)。ローマ帝国は多くの属州を持っており、属州ごとに住民登録がなされる決まりだったからです。

「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録」(2節)は、紀元後6年に実施されています。イエス誕生はヘロデ大王の時代でしょうから、ヘロデの死んだ紀元前4年以後、しかも10年も後にイエスが生まれたとは想定しづらいものです。「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」(3章23節)と、ルカ自身が記しています。この記述自体がイエスの誕生を紀元前4年頃と想定しています。イエスの十字架刑は紀元後30年/31年のできごとだからです。キリニウス実施の最初の住民登録という情報は、単純な間違えでしょう。

さらにローマの住民登録は現在住んでいる人が現在住んでいる場所に行うものでした。ナザレに住んでいる人は、ナザレに登録すべきであって、ベツレヘムに行く必要はありません(3-4節)。「人頭税を取り立てたい」という目的の住民登録ですから、現住所の方が実際的です。先祖がどこに住んでいたか分からない人もいたでしょう。そのような人の「納税逃れ」を徴収する側は嫌うものです。

また家父長制の強い時代、家長であるヨセフだけが窓口で登録するだけで良いはずです。わざわざ許嫁のマリアを住民登録のために連れて行く必要がありません(5節)。

おそらくルカが得ていた伝承は、「イエスがベツレヘムで生まれた」という単純なものだったのでしょう。ダビデの子孫であるのだから、ダビデの生まれ育ったベツレヘムで生まれたのだという伝承を、ルカもマタイも受け取っていたのです(マタイ1-2章も参照)。そこにルカはもっともらしい理由を状況説明として書き込もうとしたのですが、今ひとつ精度の低い情報であったのでしょう。専門職の歴史家ではないので、ローマ帝国側の正確な資料にあたることができなかったからです。

「聖書は神の啓示を受けて書かれた、一言一句誤りのない神の言葉である」(逐語霊感説)という立場を採る場合に、現代の歴史家からの冷静な批判に対応できない場合があります。「聖書外資料の方こそ史実と異なる」と逆上したり、「聖書記述にあるような住民登録があったかもしれない」と妙にかばったりすることがあります。現代の聖書読者として、そのような見苦しい態度を取るべきではありません。正しい批判に対しては、「その通りです。史実として間違えた記述です」と潔く認めた方が良いのです。その方が爽やか。そうでなければ、「宗教は怖い」「無理筋を言い張る狂信的な人」と思われるだけです。

ルカにとって重要なことは、1-5節においてはローマ帝国の権力の強さを述べることでした。その権力がヨセフとマリアをベツレヘムまで旅行させたということです。ヘロデ大王というユダヤ人権力者の強さを述べているマタイと問題意識は共通しています。確かに、ルカには大口を叩いた罪があります。「わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて…」(1章3節)などと、ルカは述べるべきではありません。しかし、史実に優る洞察や主張もありうることでしょう。「支配されている人々は支配者に翻弄されがちである」という洞察や主張は、真理の一面を衝いています。そのような運命に翻弄される苦労というものを、マリア・ヨセフ夫婦は背負っているとルカは言いたいわけです。

もし、住民登録がルカによる虚構であるなら、わたしたちもまた同じような虚構を考えて、イエスがベツレヘムに生まれた理由についてあれこれと空想の翼をはばたかせても良いように思います。

たとえば、ナザレでは生むことが難しくなったという想像です。ナザレの村では、マリアのお腹の子どもの父親はヨセフではないことは「公然の秘密」だったと思われます。村の人はヨセフが律法違反をするような人物ではないことをよく知っています(マタイ1章19節)。エリサベトの妊娠と出産は、近所の人々や親戚たちを悔い改めに導きました。彼女を虐げていた人々が、彼女と共に喜ぶように変えられたからです。これは高齢者・不妊の女性の妊娠・出産だから起こった悔い改めです。それに対して婚約中の若い女性であるマリアの突然の妊娠と出産は、誰からも歓迎されない出来事です。そして近所の人々や親戚たちが悔い改める要素は、ほとんどありえません。マリア妊娠前から非嫡出子差別を持っている人々は、妊娠後も同じ差別意識を持ってマリアを差別し続けたことでしょう。

きわめて胎教に良くない環境です。マリアとヨセフは臨月になることを見計らって旅に出ます。最初から旅先で出産する予定だったのだと推測します(6節)。誰にも見られない環境で静かに子どもを産みたいということです。この場合なるべく遠くの土地で出産したほうが良いでしょう。その一方で、どんなに遠くても知っている道を通ったほうが安全です。ついでに生後33日以降になされるエルサレム神殿への宮詣でも旅の途中で済ませることができれば便利です(2章22節以下)。

そこでエリサベトを訪問した時に通ったユダヤ地方への旅が計画されます(1章39節)。首都エルサレムもベツレヘムもユダヤ地方の中にあります(4節)。しばしば、ヨセフが身重のマリアを先導している姿が、聖誕劇に見受けられます。しかし、逆ではないでしょうか。一度ユダヤ地方に行ったことのある、聖霊が降っているマリアが(1章35節)、ヨセフを先導しているように思えます。そしてそれゆえに、彼ら二人は聖霊によって生まれる神の子イエスに導かれて旅をしているのではないでしょうか。ルカ福音書は、夫ヨセフのことを「聖霊に満たされた人物」と紹介していません。エリサベト・ザカリア・マリアと異なります。聖霊の導く歴史の中で、ヨセフは脇役なのです。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(7節)という状況は、マリアとヨセフとイエスのナザレでの状況を映しています。この三人は人間社会で居場所を見つけられない人々です。マリアは「ふしだらな女性」というレッテルを貼られ軽蔑されていました。ヨセフは「酔狂な人」というレッテルを貼られ浮いた存在とされていました。イエスは「私生児」というレッテルを貼られ虐げられることが予期されていました。人々の好奇心と偏見に満ちた憶測と無責任な噂が三人を苦しめています。

このようなわけでイエスは、ナザレから遠く離れたベツレヘムで、近所の目を避けて生まれます。このようなわけでイエスは、家畜小屋(明記はされていませんが、「飼い葉桶」のある場所であり、かつ人間が寝泊まりしない場所ということから類推されます)という人々の目から離れた静かな環境で生まれたのです。広い意味で家畜小屋も人間社会の一環です。家畜は獣を人間社会のために人為的に作りかえた動物だからです。その中で犬は最古の家畜です。人間社会の一部でありながら家畜小屋には、けたたましい噂話をするような人間は居ませんでした。

「飼い葉桶」(7節)が象徴しているのは、人間社会の一部でありながら、もっとも人間の好奇の目が届かない静かな場所です。皮肉なことに、ある意味でもっとも人間らしい扱いを受けている場所でもあります。本当に喜んでいる者たちだけが喜ぶ、落ち着いた場所であり、互いが尊重し合うという交わりが成立している場だからです。

こうして飼い葉桶に寝かされている赤ん坊は、わたしたちの人間社会を鋭く問い直し批判しています。わたしたちも誰かの居場所をなくしたり、「肩身の狭い人々」を無責任に拡大再生産したりしてはいないかということを考えなくてはいけません。もっとも罪深い行いというものは、ほかの人を「罪有り」と判定することです。特に社会的な弱者に有罪判決を下すときに、わたしたちの罪はより重くなります。

権力に翻弄されやすい一般の人々は、しばしば「自分よりも弱い者を叩く」という仕方で日頃のストレスを解消しがちです。「上見て暮らすな・下見て暮らせ」は、部落差別の際に用いられました。庶民ほど権力者から誘導されやすいわけです。自分の責任でないところで苦労を負わされているマリア・ヨセフ・イエスに共感し連帯することが求められているのに、なかなかそのような美しい言動がとれない罪を、飼い葉桶に寝かされた赤ん坊は示しています。

ところが同時に飼い葉桶と家畜小屋は三人にとって救いの場所でもありました。罪深い人間社会の中で、そこしかほっとする場所は無かったのです。ここには大きな逆転装置があります。わたしたちの罪が明らかになる場所で、わたしたちの罪が解放されます。飼い葉桶を透かすと、十字架が見えてきます。飼い葉桶こそ、イエスがキリストであることのしるしです(12節)。

キリスト者である著者ルカの大きな貢献は、飼い葉桶と十字架を重ね合わせ、人間の救いとは何か、教会とはどのような交わりであるべきかを示したことにあります。それは信仰の真実であり、歴史の事実とは別次元のものです。

教会はこの物語の中で三人を迎え入れた家畜小屋のような存在として、人間社会の中に位置すべきです。画一化された人間社会は、支配する能力と支配される能力に長けていない人にとっては居心地が悪いものです。分断と対立の仕組みは巧妙なので、わたしたちは生きづらさを感じます。「社会不適応とされた人々」が教会に集まることは、教会にとって本質的なことです。もし人間社会に心から満足しているならば、新たに教会という社会に飛び込む必要はありません。だから教会は「一般的には変だと思われがちな人」を受け入れるべきです。その人々にとってほっとする場所を提供するのです。それが救いです。

教会はその一方で、人間社会そのものが福音から見ると歪んでいることを指摘します。わたしたちもまた、歪んでいたり歪まされていたりすることを、教会の礼拝で指摘されます。受け容れられほっとしたばかりの人もそうです。教会も罪深い人間社会の一種です。どんな人も「下見て暮らす悪い癖」、つまり罪を持っているのです。この罪という歪みを正すのは聖霊の神しかできません。だからわたしたちは毎週礼拝をして、新しい教会員もベテランの教会員も同じく「聖霊よ、来てください」と祈ります。そして今よりもっと多種多様な人がほっとできる場所作りに、聖霊が教会を導きます。

泉教会で落ち着きを感じているみなさんは救いを経験しています。どうぞバプテスマを受けてください。飼い葉桶の中に寝かされたイエスを中心にした、より広い家畜小屋を共に形づくりましょう。