香油の香り ヨハネによる福音書12章1-11節 2014年3月23日礼拝説教

今日は「イエスの食卓」というものがどのようなものであったのか共に考えたいと思います。イエスによる信頼のネットワークづくりは、「神の国運動」とも「食卓運動」とも呼ばれます。イエスとその弟子たちは共に食卓を囲むこと、特に世界で小さくされている人々を交えて等距離の平たい関係をつくることを目指していました。共食は神と神の子の交わりと似ています。当時の食卓は寝ながら片肘をついて、折り重なって食べていたからです。その様子は、もっとも低い場所で、互いに懐の中に隣人を入れながら、食卓を囲んでいる姿です。

このような食卓を囲むという仕方で三位一体の交わりを持つ神の姿が、イエスの信頼のネットワークの姿です。イエスの弟子となることは、給仕役を務めるということと同じことです。実際、「仕える=弟子となる」という言葉と、「もてなす/給仕する」という言葉はまったく同じ単語です(2節)。だから互いに給仕役をしながら共に食べるということは教会の原型です。教会で行うすべての食事は、「主の食卓」です。主の晩餐も持ち寄り愛餐会も、主の食卓です。互いに給仕をしながら共に食べているからです。

聖書に数多く記されている主の食卓は、わたしたちの教会のあり方に示唆を与えます。どのような食卓を目指すべきかを、ヨハネ12章から共に考えていきましょう。「夕食」(2節)と訳されている単語は、「晩餐」と同じ言葉です。

ヨハネ福音書の著者はマルコ福音書を知っています。目の前に置きながら自分の福音書を書いています。今日の箇所はマルコ14:3-9とそっくりです。大まかに言えば、異なる部分はヨハネがマルコを変えたと考えられます。変えた部分はヨハネの強調点です。また両者に共通の部分は、普遍的に意義を持つ部分とも言えます。ヨハネの強調点や両者共通の重要部分などに注目して読んでいきます。

両者の共通点は出来事の舞台がベタニア村であることです(1節、マコ14:3)。この村の重要性は疑いようもありません。ここには「定住の支援者」である弟子が居り、そしてそこに教会が建てられていったのでしょう。さてマルコが「ハンセン病患者のシモンの家」での出来事としている一方、ヨハネはマルタ・マリア・ラザロの家での出来事としています。ここにはラザロの蘇生という奇跡に対する強調があります。9―11節も、ラザロがこの食卓に居たことを強調しています。主の食卓は、よみがえらされたラザロと共にあずかる食事です(2節)。「イエスのために」とありますが、「ラザロのために」とも翻訳可能です。ここには喜びがあります。たとえて言えば行方不明だった息子が帰ってきて、そのことを祝うための食事のような喜びです。「この息子は死んでいたのによみがえった」と言って、無邪気に喜び合う祝宴です(ルカ15:24)。

また、ラザロだけではなく、マルタとマリアも名前を挙げられるというかたちで重視されています(2-3節)。マコ14:3では「一人の女性」として名前が不明なのですが、ナルドの香油を捧げたのはラザロの姉であるマリアです。ヨハネ福音書は、十二弟子以外の弟子たち、特に女性の弟子たちが多く活躍する福音書です。十二弟子の中の筆頭ペトロの影が薄い福音書です。主の食卓は、参加する者たちが名前を挙げられて個人として尊重される場所です。特にこの世界では見えにくくされている人が、生き生きと活躍する場所です。

その一方でヨハネ福音書は、高価なナルドの香油の使い道について批判する者をイスカリオテのユダのみにするという改変をしています。マルコでは複数の弟子たちが言った言葉を、ユダだけに言わせています(4-5節)。そしてユダが貴重品管理係という重職にいたことや、管理箱の中の物を横領していたことなども書き加えています(6節)。これらの情報は、ユダだけを悪者にする方向に読者を導きます。それは十二弟子を中心にしてつくられた初代教会の立場を守る方向でもあります。ユダだけが悪かったとすれば、他の弟子たちの罪悪が軽くなっていくように仕組まれていくのです。ヨハネ福音書もその傾向から自由ではありません。このような発想は、先週批判したように、「誰かを犠牲にして成り立つ平和」と似ています。だから、ユダの短所という記事を今日は重視しません。ユダのみを悪者にする解釈は、「では、なぜそのユダをイエスが弟子としたのか」という問いに答えきれないものです。むしろ、ユダも含む弟子たちが他人の財産の使い道について指図をしていることを指摘して批判すべきです。先週も批判したように隣人に対する犠牲の強要はいけません。

この議論で重要なのは、主の食卓で貧しい人々への施しが話題になっていることです(5節)。これはマルコと共通の普遍的な部分です(マコ14:4)。自分たちが食べているこの食事は、本来貧しい人々と分かち合うべき食べ物ではないのかという問い立てが、イエスの弟子たちの間では当たり前のことがらになっています。なぜならイエスとその一行は貧しい人々といつも一緒に居たからです。主の食卓とは、いつも一緒にいる貧しい人々との分かち合いなのです(8節)。ここに「五千人の給食」と「主の晩餐」の結びつきがあります。

そのような重要性を持つ貧しい人々への施し以上に、マリアの行いが褒められています。1リトラとは326グラムなのだそうです。500mlのペットボトルぐらいの油です。それは300デナリ=300万円相当なのだそうです。その香油を、イエスの足に塗り、自分の髪で拭く(この部分はルカ7章に類似)。このような不思議な仕方によって香油を使うこと、これが貧しい人への寄付よりも優れているとされるのはなぜでしょうか。

イエス自身の説明は、「葬りの日のために、彼女がそれを取って置くために」(7節、直訳。田川訳も)彼女の香油をすべて寄付するのは良くないというものです。マルコでは壺が割られているけれども、ヨハネでは少しずつ香油は塗られました。これならば取って置くことができます。もちろん両者は基本的に似ています。マルコでも香油は「埋葬の準備」(マコ14:8)という説明だからです。つまり、これは「象徴行為=行為による預言」です。マリアには不思議な行為によって伝えたいことがらがあるのです。それはイエスの死です。死者に油を塗ることを前もって行ったという象徴行為です。だから、主の食卓でマリアが預言者となっていることが重要です。

旧約聖書には女性の預言者が四人だけ紹介されています。ミリアム、デボラ、イザヤの妻、フルダという四人です。モーセの姉ミリアムのギリシャ語名はマリアムないしはマリアです。ラザロの姉マリアだけはほとんどの場合「マリアム」と綴ります。これが彼女の本名です。新共同訳が訳し分けていないのは残念です。マリアはここで、水の中からよみがえらされたモーセの姉であり(出2章)、預言者であるミリアムと重ね合わされているのです(出15:20)。だからマリアは預言者としてイエスが殺されることを告げ知らせました。主の食卓は、主の死を告げ知らせる場所です(Ⅰコリ11:26)。国家のために個人が犠牲とされることは不正義です。主の食卓はこの世の不正義を告発する場所です。貧しい人々に寄り添い共に苦しむことと同時に、貧しさの原因を作り出している人々の不正義をもただす必要があります。マリアが褒められた一つの理由です。

もう一つの理由は香油の香りにあります。ラザロの復活の前からイエスは殺されそうでした(11:8)。その危険が、奇跡的蘇生によってさらに高まりました(11:53)。その最中、避難先のエフライムから(11:54)、あえて危険なベタニアにイエス一行は来ました。この晩餐に連なった者たちは、みな殺されるかもしれないという緊張感を持っています。押しつぶされそうな重苦しい雰囲気が一行にあったと思います。そこに家中を満たす香りを起こしたのです。五感に訴えることがらというものは、場の雰囲気をがらりと変える効果を持ちます。いくら蘇らされたラザロのお祝いの宴会と言っても、やはり暗い影もあったわけです。公式に指名手配とされているからです。

マリアは場を明るく変えました。粋です。食事は楽しくなくてはいけません。また特別にみんながびっくりすることを仕掛けました。マルコではイエスの頭に注がれた香油ですが(メシアの任命の意)、ヨハネ福音書では香油は足に塗られ髪で拭かれます。寝ながら食べていたので、このような行為は簡単にできます。とは言え、驚きの行動です。ハプニングは食卓を楽しませます。それこそマリアの狙いであり、それこそイエスがマリアを褒める理由の一つです。即興的に楽しい食卓を創出すること、これが主の食卓の特徴です。

今日の箇所はわたしたちの行う「主の食卓」の方向性を指し示しています。4月6日より毎週礼拝中に行う「主の晩餐式」やイースター・クリスマスごとに行う「持ち寄り愛餐会」はどのようなものが望ましいのかを知ることができます。その基本は「楽しくて意味のあるものに人は集まる」ということです。

第一に主の食卓は、喜びの宴会でなくてはなりません。愛餐会で出し物を出し合ってばかばかしいことに笑い合いますから喜びの宴会と了解しやすいものです。しかし、主の晩餐式の場面ではどうでしょう。西方の教会では伝統的に晩餐が暗い沈鬱な雰囲気を持ちます。自分の内面・罪を吟味する厳かな場となりがちです。仮に儀式化されていても、どのように喜びを表せるか、そこが常に課題となります。まずはしかつめらしく行わないで、「聖なるままごと」として楽しむことが求められます。これは楽しい食卓なのです。

第二に主の食卓は、集う一人ひとりが名前を持つ個人として大切にされる場でなくてはいけません。すべての人が、その人にとっての満腹を経験するものでなくてはいけません。食べる/食べないの自由が保証されていること、その上で食卓を囲むすべての人を排除しないかたちが望ましいでしょう。すべての人の存在が復活者・給仕役として喜ばれる、これは意味のある食卓なのです。

第三に主の食卓は、この世の不正義を問う場でなくてはいけません。あのほんの少しのパンとぶどう酒でさえ欲しいと思う、貧しい人々との連帯が表されなくてはいけません。また、今でも国家によって犠牲とされている人の存在を覚えて、クニなるものの不正義を告発する場でなくてはいけません。再臨のイエスが来られるまで、世界の不平等・不正義はおさまりません。だからわたしたちは、不正義を問いながら、全世界に平和をもたらすイエスの到来を待ち望みます。これは意味のある希望の食卓なのです。

そして第四に主の食卓は、五感に訴えるような意外な出来事が起こる場です。意外な出来事が起こることを喜ぶ構えが必要となります。愛餐会の隠し芸はそのためには必須の要素となります。また晩餐の会衆賛美に赤ん坊が大声を共に挙げる時、わたしたちは思わず微笑みます。真面目に礼拝している最中においしそうな匂いが漂ってくるとそれだけで笑います。幼稚園の装飾もそうです。視覚的に鮮やかな製作は、わたしたちの目を楽しませます。これらの雰囲気をがらりと変える、意外な出来事を面白いと考えて楽しむことが必要です。これは楽しい食卓です。

世界が絶望に満ちていても、わたしたちは主の食卓を囲み続けます。この楽しくて意味のある食卓が、わたしたちの互いの信頼を固め、イエスへの希望を指し示すからです。教会にまで忍び込む闇を一瞬で打ち払う光。教会のどんよりした雰囲気を吹き飛ばす香油の香り。意外なことが起こることを常に期待しつつ、淡々と着実に毎週の礼拝を続けていきましょう。