1/14今週の一言

1月14日の「聖書のいづみ」ではマタイによる福音書5章27-30節を学びました。

「山上の説教(5-7章)」のうちの、5章21-48節の部分を「否定命題シリーズ」と呼びます。イエスが旧約聖書の律法を引用し、その後に「しかし、わたしは言う」と言ってから、自分の解釈を述べて、従来の聖書解釈をひっくり返す/否定し超克するというパターンが繰り返されるからです。今回は十戒の第七戒「姦淫してはならない」の解釈です。

旧約聖書の文脈で第七戒の趣旨は「不倫の禁止」にあります。しかもこれは専ら男性に対する禁止命令です。「家(制度)」を守るためには既婚女性と性交渉をもってはいけないということです。

イエスはこの律法を精神化します。「みだらな思いで他人の妻を見る行為は強姦と同じである」と解するからです。この場合の精神化とは、徹底的実践という意味です。憲法19条によって「内心の自由」が保証されているので、心の中で何を考えようが刑法上殺人罪や強姦罪には問われません。イエスの教えは古代だけではなく、現代の法体系よりも進んだ倫理です。

この第七戒の拡大解釈は現代にも鋭い問いを投げかけています。今でも「見られる性」としての女性が商品化されているからです。女性雑誌でも「男性/カレシからどのように見られるか」を気にした記事が多いものです。根強い性差別が女性の商品化を支えています。イエスの言う通り、「見る際の心のありよう」を正しくすることは一つの真理を射抜いています。

ただし、もう一つの視点が必要でしょう。それは見る者と見られる者との力関係です。性欲そのものは悪ではありません。禁欲的になれば性的人権侵害が減るということでもありません。「見る行為」が文脈しだいでは人権侵害にもなりうるし、また、ならない場合もあります。それを決するのは双方の力関係です。支配的な人物が劣位に置かれている人物に対して、「早く結婚しろ」「自分が子どもを産め」などと言うことや、卑猥な言動をすることは、セクシュアル・ハラスメント(性的人権侵害)となりえます。性差別と力関係に留意することが、上記の「精神化」に加えて必要です。それは家制度をも批判しうる視点となります。JK