1/28今週の一言

1月28日の「聖書のいづみ」ではマタイによる福音書5章33-37節を学びました。「否定命題シリーズ」の続き。今回はレビ記19:12と、民数記30:3や申命記23:22についてのイエスによる解釈です。ゼカリヤ8:17も参照。

レビ19:12は誓いの禁止を「主の名の使用禁止」と関係付けます。それは十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」と呼応しています。それに対して民30:3と申23:22は、「誓った限りは果たせ」という有言実行の勧めです。この二つの流れをまとめると、「主の名を使わないで誓いを行い、誓った内容を実行することは良い」という教えが導かれます。

実際にイエス時代のユダヤ人たちは、「天」「地」「エルサレム」「髪」などを持ち出して、さまざまな事柄を日常生活の中で誓っていたのでしょう。イエスはそのような誓いを一切禁じました。事柄を程度問題に矮小化しない、イエスらしい振る舞いです。何に誓っても、または何にも誓わなくても、できることはできるし、できないことはできないものです。だから、その時点での自分の良心にのみ従って、将来の可能性について問われた場合に「はい」か「いいえ」だけを答える方が誠実なのです。

この箇所はヤコブ書5:12と同じ根を持っています。元来のイエスの言葉は、福音書だけではなく、その他の文書にも保存されている場合があることの一例です。しかも他の福音書に並行記事が無いので、マタイとヤコブのある種の近さが伺い知れます。山上の説教同様ヤコブ書も徹底的隣人愛の実践を説いています。

誓約の禁止は、初代キリスト者に「良心的兵役拒否」という実践をもたらしました。ローマ兵になる際の、皇帝に対する忠誠誓約を、多くのキリスト者は今日の箇所を理由に拒否していったのでした。そのこともあってローマ帝国はキリスト者を断続的に迫害しました。日本においても天皇制絶対主義時代にエホバの証人の信者たちが良心的兵役拒否を行ったために投獄されました。今後徴兵制が敷かれた場合に、同じような事例が起こるかもしれません。

結婚における誓約は人間同士の約束事である限り、その時点での決意表明に過ぎません。宗教的意味合いを被せて「より重い意味」を付与する必要はないでしょう。JK