10/19今週の一言

10月19日の聖書のいづみでは、出エジプト記32章7-14節を学びました。先週から始まる「金の子牛事件」の続きです。興味深い対話が主なる神とモーセの間で交わされます。

神の発言をまとめると、「あなた(モーセのこと)の民は堕落して偶像礼拝をしている。わたしは怒っている。彼らを滅ぼし、その代わりにあなたの子孫を繁栄させる」というものです(7-10節)。感情的な子どもっぽい意見です。特に、イスラエルを今までのように「わたしの民」と言わず、「モーセの民」と言うすり替えは看過できません。

モーセは怒る神をなだめます(11節)。ヘブライ語の表現で「怒る」は「鼻が燃える」、「なだめる」は「顔を和らげる」です。モーセの発言をまとめると、「あなたがエジプトから救い出した、あなたの民を自分で滅ぼすのは矛盾をきたす。それではエジプト人に馬鹿にされるだろう。はるか昔から族長たちに約束した子孫の繁栄を思い出すべきだ」というものです(11-13節)。モーセは正しく、イスラエルは「神の民」であると修正します。情理に訴えた大人の意見です。

短気な神をモーセがなだめるという構図は、意外性に満ちていて非常に面白いものです。しかも、驚くべきことに、全知全能の絶対者であるはずの神が、モーセの意見を容れて自説を思い直したのでした(14節)。「思い直す」は、「後悔する」という意味で、「悔い改める」とも訳しうる言葉です(創世記6章6・8節)。

この構図は、ソドムとゴモラの街を怒りに任せて滅ぼそうとする神と、それを思いとどまらせようとするアブラハムとの対話に似ています(同18章)。この時も神はアブラハムの主張を受け入れ、最初の意見を翻したのでした。

聖書の示す神の性質は「愛」にあります。モーセに諭される憤怒の神・短慮の神と、「愛の神」とがうまく結びつきません。しかし、対話的な姿勢という点に、愛の一端が表れています。言い換えれば、神は妥協的であり、自分の考えにこだわらない、柔軟な姿勢を常に持っているということです。愛は、自説・持論を変える行為を内に含みます。神は悔い改めることができるほどに自由な方です。

また、怒りというものも必要な感情です。怒りなしに正義は無いからです。そして正義を含まない愛というものもありえないでしょう。鼻を燃やすような不機嫌を避けた仕方で、「ダメなものはダメ」と言い切る毅然とした態度も、相手に対する愛があるからこそのものです。しばしば言われるように、愛の反対語は憎悪ではなく無関心だからです。 JK