10/21今週の一言

10月21日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章1-4節を学びました。

この箇所はマルコ福音書1章40-44節のほぼ丸ごと引用です。マタイの編集の特徴は、「山上の説教」(5-7章)の直後にこの「ハンセン病患者のいやし物語」を置くことにあります。その効果は、「モーセ律法を新しく解釈し改めて授与するイエスが、自らの教えを実践しているという印象を読者に与えること」にあります。レビ記13章によれば、「ハンセン病患者には触るな」がモーセの教えになります。「しかし、わたしは触る」というところに、イエスの新しさがあります。

映画『ベン・ハー』にも描かれていましたが、ハンセン病患者は三重の苦しみを負わされていました。一つは病気そのものの苦しみです。二つ目はハンセン病患者への差別を被る苦しみです。外観の変化や、感染症であることが忌み嫌われました。三つ目は宗教的な意味付けです。先述のレビ記13章は、ハンセン病患者は宗教的に汚れている、神に呪われていると判定しています。そうして、街の外に患者たちは「合法的に」隔離されたのでした。

イエスのもとに集まっていた群衆は、一人のハンセン病患者が登場した時に、身をくねらせて避けたと推測します。ただ一人を除いて、患者と冷たい距離が保たれます(1-2節)。それが排除の思想です。

「手を差し伸べてその人に触れ」ることそのものに奇跡があります。神の愛とは、この類の奇跡です。つまり差別を乗り越える、寛容な愛です。自分自身もアウトローとされる覚悟で、イエスは法に触れる行為をしました。その上でイエスは病気の苦しみからも患者を解放したのでした(3節)。ここに、「この人と共に生きる」という神の子イエスの救いが表れています。

さらに、宗教的な意味付けを反転させ、元患者が地域に復帰できる現実的な道も教えます。「浄/不浄の判定をする権限を持っている、地域の祭司のところに体を見せ、ハンセン病患者ではない認定をもらいなさい」と助言したのです(4節)。ここに、「すべての人と共に生きる社会への快復」の道があります。

特効薬プロミンが開発された後も、日本では悪名高い「らい予防法」によって元患者への隔離と差別が最近まで続いていました。悪法廃止後も差別と偏見は続いています。ナザレのイエスに従うことは、現代社会でどのように生きることなのかを、常に自問し吟味し続けたいと思います。 JK