10/4吉野健太郎さん転入会の証

転会にあたって

皆さんの群れに加えていただきたいと願っている吉野健太郎と申します。今日は転会を希望するにあたり私の信仰経歴と、なぜ泉教会なのか、最後に泉教会で私は何を大切にしたいか、の三点について述べさせていただきます。

わたしは両親に連れられ生まれたときから教会に通っていました。日本基督教団の西国分寺教会というところで8歳まで過ごし、その後日本バプテスト連盟の富士吉田教会に高校三年生まで通いました。当時の富士吉田教会はとにかく子どもたちがたくさん集まる教会で、同世代の仲間の影響もあって小学校5年生の4月にバプテスマを受けました。今回、改めて自分の信仰の原点に戻ってみようと、色々記憶を辿ってみたのですが、正直なところなぜ自分が当時信じる決心をしたのか、実はよく思い出せません。あまり主体的な思いでなかったのは事実です。同世代の仲間がバプテスマを受けるようになりちょっとしたプレッシャーがありましたし、昔から議論好きなませた子どもでしたので、「オトナの話し合い」というイメージそのものの教会総会でつまらないことを言う大人を論破してやろう、みたいな思いもたぶんどこかにありました。信仰告白の中では、イエスさまの魅力について、福音書の癒しや弟子の足を洗う記事などを引用しながら語ったように記憶しています。いずれにせよ、自分のバプテスマにあまり自分自身インパクトがありません。

そんな生ぬるい私の信仰生活のはじまりでしたが、父母の離婚や、中学生時代に受けたいじめ、高校生時代に味わった精神的疲労と心療内科通いの日々などの苦しい時期には、いつもそばに教会があって、教会の仲間が祈り支えてくれていました。そして私の人生において大きな影響をあたえている人々は、皆神さまを見上げる人々でした。尊敬する祖父と積み重ねた戦争談義や祖父の晩年の生き方からは、信仰と社会的事柄を切り結ぶきっかけをもらいました。東京基督教大学在学時代に出会った友人からは、足もとの生活と政治は同じ地平線上にある事柄だということ、人生というのは導かれるままに冒険的に前進するものだということを教え続けられています。そして大学4年生の時に志村教会で再会した某牧師からは以降10年間にわたり、信じること、必要なときには抗うこと、しかし暴力はいけないこと、大切なのは話し合いであること、物事を考える時には表層的なことや結果だけでなくその背後に何があるのかを見極めること、あらゆる場所で一番歩みの遅いものに歩調を合わせること、種は自然するということ、だから人は自己肥大も自己卑下もする必要がないこと、構造的な悪とたたかい個人の人格を貶めることはしないこと、どんな時も粘り強く生きることなどを教わり続けています。

信じるに至る劇的な何かはありませんでしたが、しかし振り返ってみると、一つ一つの経験や出会う人々を通して、いつも神さまが私に感じることや考えるきっかけを備え、私自身が先を切り拓いていけるように導いてくださっていることを実感します。そして聖書は、どんな危機的な時も冷静に生き抜くための指針を、聖書と向き合うことによって示してくれると感じます。

 

今回泉教会に転会を決めた理由は、ここ数年間今までに無い随分と長い期間教会と離れていたことと関係があります。この間、随分と苦しみながら生きていたように思います。夫として、父として、職業人として、市民として、それからキリスト者としても、情けない自分自身にしょっちゅうがっかりして、まったく前進できないどころか自分の人生はどんどん後退していくように感じていました。どこかで何とかしなくちゃ、という思いの中、8月の泉教会の礼拝でいつものように行われた主の晩餐でパンをとりながら、自分には信じる自由も信じない自由も保障されていることを実感しました。そして私はこれからも信じて生きていきたい、そのように感じました。そうでなくては生きていけない、そのようにも感じました。夫としても、父としても、職業人としても、市民としても、私はいつも神さまだけを見上げて、聖書に向き合って、キリスト者であることを体現しながら正直に生きていきたいと思いました。その為には既にもう出会ってしまった、世俗的な組織化をなるべくせずに、シンプルに礼拝を大切にするこの日本一暇で素敵な教会にきちんと連なっていこう、そのように考えました。

仕事柄、毎週礼拝に集うことが難しい者ではありますが、皆さんと共に泉教会をかたちづくっていきたいと願っています。古きに戻るのでなく新しくつくること、騒ぐのでなく黙して礼拝すること、探り合うのでなく顔を見て話し合うこと、粗を探すのでなく共に食事をすること、それらを大切にしたいと思います。教会には魅力があります。奥田愛基さんではありませんが、私たち一人一人は孤独に思考する個です。その孤独な個が共に集まることを歓迎する、というのは教会のもつ他にはあまり見たことがない独特な魅力です。誰かと日常における何か辛いことを直接的に共有しなくても、共に賛美歌を歌うときに心の底から安心する、ということがあります。だれかの祈りに心を合わせるときに自分一人では言葉にすることが難しかったことを表現できる、ということがあります。主の晩餐を行うときにいつもの事が驚くべき新鮮さを携えてわたしのもとに押し寄せる、ということがあります。だれかの説教をきくときに思いもよらぬアイディアや生き抜くヒントを得る、ということがあります。共に礼拝することそれ自体が、私たちの生きる力になり得て、また、平和とは何かということを体現しています。

これからの泉教会にどんなチャレンジが起こるのか知る由もありませんが、どんな時も共に礼拝し、暗き世にあって光溢れる共同体であり続けたいと願います。欠けだらけの人間ですが、どうぞよろしくお願いいたします。