11/13今週の一言

11月13日の祈り会では、創世記27章1-14節を学びました。

創世記を「祝福記」と呼ぶ人がいます。創世記の中に、神から人への祝福や、人から人への祝福が何度となく記されているからです。

祝福の意味合いは広く文脈によって幅がかなりあります。おおまかに言えば、「生きる力」です。出生率の低い世界で、生むこと・増えることは単純素朴に良いことと考えられていました(1:28)。将来起こるかも知れない不幸に負けない幸せな人生を祈るという意味は、その関連にあります(24:60、32:27)。

また反意語からも祝福の意味は推測できます。「呪い」(12節)の原意は「軽くする/軽蔑する」です。ということは、祝福するということは相手を尊重するということになります。

アブラハム・サラたちの物語では、祝福はもう少し具体的な意味を持ちます。①子孫の繁栄と、②約束の地の賦与です(12:2・7、17:20、26:24)。彼ら/彼女らの中では、この意味の祝福は相続財産の意味合いを持っていたように思われます。ここにリベカとヤコブ母子が、イサクとエサウ父子から「祝福をだまし取る」という物語の前提があります。

イサクは上の息子のエサウに「死ぬ前に・・・わたし自身の祝福をお前に与えたい」(4節)と語ります。「わたし自身」という言葉(ヘブライ語ネフェシュ)の直訳は、「わたしの命/魂/全存在」というものです。ネフェシュは「魂」と訳されがちな単語です。しかし、新共同訳が示唆しているように、ここは「全存在」の意味でしょう。イサクが考えている相続は財産だけの事柄ではありません。自分の死に至るまでの全生涯(死に方に象徴される生き方の全容)を次の人に託すということだからです。

ここには十字架と復活のイエス・キリストの予型があります。キリストの復活の命は、わたしたちのための「生きる力」であり、しかも十字架に至る愛の生き方へとわたしたちを押し出すものだからです。相互に尊重する「祝福文化」を教会はかたちづくるように勧められています。

イサクの全存在を兄エサウから奪い取ったヤコブは、晩年自分の孫たちを祝福し、全存在を託します(48:8以下)。ここにも高齢者から若者・子どもへの生き方の継承があります。子ども祝福を教会で行う所以です。JK