11/6今週の一言

11月6日の祈り会では、創世記26章15-25節を学びました。

ペリシテ人はイスラエルと同時期にパレスチナ地域に移住してきた「海の民」です(前13世紀)。イサク・リベカの生きていた時代には存在しないはずです。だから26章に登場するペリシテ人は、著者たちの時代のペリシテ人の反映です。つまりヤハウィスト集団が知っているイスラエルとペリシテ人との葛藤が、イサクの井戸を埋め続けるペリシテ人の意地悪の背景にあります。

イサクが主人公の物語は26章にしかありません。創世記の全体は二部仕立てです。第一部は1-11章の原初史(全人類にあてはまる物語)、第二部は12-50章の始祖たちの物語(イスラエルの起源)です。さらに第二部は二幕に分かれ、第一幕が12章から25章途中までのアブラハム・サラ・ロト・ハガルらの物語。第二幕が25章途中から50章までのヤコブと妻たち・子どもたちの物語です。リベカとイサクの物語は隙間の挿話・傍流です(24章・26章)。

それだけに26章はイサクの個性を際立たせる逸話となっています。それは「非暴力抵抗」という姿勢であり、イエス・キリストを指し示す態度です。イサクとリベカは、一家にとって重要な水源を暴力的な相手方に譲ります。自分たちの井戸を埋めた相手の悪意、掘り起こした井戸を奪う相手の暴力に対して、暴力で報復をしません。アブラハムならば軍事行動を取りうる状況です(14章)。

二度譲り、三度井戸を掘り直した時に、ペリシテ人との葛藤が止みます。三度目の井戸にイサクは「レホボト(広い場所)」と名づけます。原語の意味合いは「救い/解放/自由」です。名付けの直後にヤハウェという名を持つ解放の神が、祝福の言葉をかけます。「恐るな。わたしはあなたと共にいる」(24節)。その神のためにイサクは祭壇を築きヤハウェの名を呼ぶ礼拝をします。ヤハウィストの描く神は、場所と結びつかずに信じる者と共に歩き、人格的な交わりをする神です。礼拝は名を呼び合うことであり、神との出会いの場なのです。

イサクは決してペリシテ人を赦していません。憎まれ奪われ脅され追い出された時に報復をしなかっただけです。加害者をのさばらせるために、被害者の赦しを美談にすべきではありません。むしろ被害者の自由な弾力性に目を留めるべきです。報復という至近距離の撃ち合いはしないけれども、距離を保って広い場所を設けてしたたかに生き抜くことが、「左の頬をも差し出す生き方」です。JK