2/17今週の一言

2月17日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書10章1-4節を学びました。「十二弟子選任」の記事は、マルコ福音書3章13-19節を、マタイなりに衣替えしたものです。

マタイは、8-9章の「イエスによる癒し物語集」の直後に、十二弟子の選定を置きます。この全体の文脈が大切です。師匠イエスの癒しを目撃した者たちが、「あらゆる病気や患いを癒すため」に、イエスによって呼び寄せられます(1節)。そして、マタイはさりげなく「弟子」を「使徒」と呼び変えます(2節)。使徒をギリシャ語でアポストロスと言います。その意味は「遣わされた者」です。癒しのためにイエスに集められ遣わされる者たち。ここに教会の原風景があります。

史実としては、イエスの弟子たちは男性に限られたわけでもなく、十二人に限られていたわけでもないでしょう。その点を差っ引いても、十二弟子のリスト(3-4節)は、多様性という点で示唆深いものです。

第一に言語的多様性です。ギリシャ語名の者の多さが目を引きます。アンデレ、フィリポ、タダイは確実にギリシャ語、そしておそらくシモンもトマスもギリシャ語由来です(ただしヘブライ語シメオンもありうる)。ガリラヤ出身の人々の国際性が伺えます。彼らは親の代から東地中海世界の国際公用語であるギリシャ語を使っていたのでしょう。イエスの十字架・復活の後、弟子たちはアラム語圏だけではなくギリシャ語圏に布教しました。元々その素養があったからです。

第二に民族的多様性です。「イスカリオテのユダ」がイエスを官憲に引き渡したことは有名です。ところがこのイスカリオテの意味については定説がありません。イスカリオテという地名がないからです。「シカリオイという刺客集団の一員」という説もありますが、少し無理がある仮説です。おそらく、ギリシャ語イスカリオテは、ヘブライ語「イシュ・ケリヨト(ケリヨトの人の意)」に由来します。ケリヨトは死海東岸のモアブ地域の町です(エレミヤ48:24)。ユダはモアブ人であったかもしれません。

これらの多様性は教会のあるべき姿となすべき使命を示唆します。教会は、世界のさまざまな場所から集められている個人から成る交わりです。多様な人々によって行われる礼拝によって「癒し」が起こります。そして、集められた個人は世界中に遣わされ、それぞれの日常生活を生きます。遣わされる目的は「癒し」にあります。困窮している人に、できる時・できる範囲で仕える個人が増えるとき、世界に蔓延する「負の空気(汚れた霊)」が追い出されていきます。JK