2/25「母の会」礼拝説教

エフェソ5:8

 

今日の聖書は3月の暗唱聖句です。今日は3月分の母の会ですので今年度最後の礼拝ということにもなり、また来年度からは「父母の会」となるので、「母の会礼拝」の最後ということにもなります。

「光の子」という言葉は、「闇の子」というものがあるのかという疑念を持たせます。善の世界と悪の世界という二つの世界があるかのように思わせます。現在のイランあたりが発祥のゾロアスター教という宗教がありました。聖書(ユダヤ教・キリスト教)にも大きな影響を与えました。 ゾロアスター教は世界を光と闇、善と悪、善玉の神と悪玉の神の対立によって描きます。

聖書宗教は唯一神教を推し進める方向に進んだので、二つの世界や拮抗する二つの神を想定することにはブレーキがかかりました。影響は受けたけれども、たとえば神と悪魔を対等に置くことはしなかったのです。そして独特なかたちで光と闇を考えることになりました。そのことは結果として良かったとわたしは思います。なぜかと言えばわたしたちの生きている世界は、すぱっと善悪に分かれていないからです。

聖書は対等の勢力として光と闇を考えません。そうではなく、闇夜に星が輝いているようなかたちで、光と闇を考えるのです。キャンドルサービスが暗がりにろうそくという場面を設定するのは、このようなイメージを踏襲しているからです。少数者のイメージを光に対して持つことが重要です。もちろんこの背景には、宗教的少数者としてローマ帝国に迫害されていたキリスト者の歴史があります。

およそ宗教というものは社会的に小さい存在の時に光り輝いています。キリスト教もそうです。ローマ帝国の国教となってから多数者になり、他の思想信条を迫害する側、十字軍などで侵略に荷担する側に回りました。これは負の歴史です。形式的にキリスト者であっても「光の子」であり続けているかは、別の問題です。むしろ多数派となって少数者を圧迫しているならば、それは暗闇の勢力と言えます。逆に、キリスト者ではなくても、「光の子」と言える人々はたくさんいることでしょう。

わたしの考える「光の子」とは、自分がたった一人でも自分の意見・思想・信条を持ち続けて堂々と生きている人のことです。自分のこころで感じて、自分の頭で考えて、自分の手足を思うように動かし、穏やかではあるけれども毅然として、批判精神をもって社会の中で生きる人のことです。本当の意味で協調性がある人は、個人として生き方を確立している人であるように思えます。闇夜の星であり続けられる人だけが、星座をかたちづくることができるのではないでしょうか。個別の星は適切な距離を保って、相手の光り方をも否定しないからです。

いづみの保育は「自分で考えて・共に歩く」保育です。それを「光の子として歩む」「星のように輝いて生きる」と言います。「ほし組」さんたちの、卒業式までの歩み・卒業後の歩みに期待しています。

140225現役員 140225新役員

現「母の会」役員さんたち          新「父母の会」役員、会長あいさつ