2/25今週の一言

3月1日の聖書のいづみではマタイによる福音書6:1-4を学びました。「偽善者たちシリーズ」(6:1-18)の第一回目です。偽善者たちシリーズにおいて、宗教者たちの「善行」(1節)の中に潜む問題性が指摘されています。「善行」の直訳は「義」です。この言葉は5:20にも登場していました。その文脈でイエスは、「弟子たちの義は律法学者・ファリサイ派の義にまさるべき」と言っています。偽善者たちシリーズは、反面教師の具体例を挙げながら、弟子たちの目指すべき義を教えています。

第一の具体例は、人に見られるために、そして人々からほめそやされるために行う施しです。当時はいまだ制度化されていなかったようですが、ユダヤ社会においては貧しい人に寄付を施すことが習慣となっており、しかもそれは宗教的な意味合いを持っていました。神を信じる敬虔さの表れが貧者への寄付であると考えられていたのです。そうなるとより高額な寄付をする者が宗教的に格上げされるということになります。実際に、高額寄付者が会堂で紹介され、ラビ(宗教指導者)の隣に座るという名誉にあずかることもあったようです。

イエスは皮肉たっぷりに「名誉を受けほめられる(栄光化される)ことで、その人は報酬を得ているので、天のアッバのもとでは報いをいただけない」(1-2節)と語ります。地上での宗教上の序列化をイエスは批判しているのです。上昇志向をもって敬虔な行いをすることは、自分のための行いなのですから実のところ敬虔でもなんでもなく偽善に過ぎないわけです。

だから「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)という言葉は、隣人間の人間関係のたとえです。自分の施しを隣人に見られるために行うなという趣旨です。もし敬虔な行いという名にふさわしい善行があるとするならば、その行為は神に見られるだけで足ります。神以外のものに見られることを目的とするならば、そこには偽善が忍び込む危険があります。

神はすべてをご覧になっています。隠れたところの行いも、目立つ場面での行いもご存知です。その方へのあっけらかんとした信頼が、わたしたちを偽善への誘惑から救うのです。 JK